尾張氏の謎を解く その98


前回の検討により、南宮大社の社名である南宮は蹈鞴製鉄における南の柱に由来すると確認できました。しかし、平安時代の中期以前は仲山(中山)金山彦神社と称されており、南宮とは異なる由来を持っているものと想定されます。従って今回は、中山の意味を探っていくことになります。かなりややこしい問題だったため一回分の記事としては長くなりますが、ご容赦ください。

さて、仲山(中山)の呼称自体はありふれたもので、どんな意味があるのか鎮座地周辺を見てもよくわかりません。そのような場合は、他の地域で中山の呼称を持つ神社を探し相互参照するのが最も近道です。調べたところ、美濃からは遠く離れた岡山に中山神社が鎮座していました。同社は美作国一宮で南宮大社同様格式が高く、鎮座地は岡山県津山市一宮695となります。


鎮座地を示すグーグル画像。

中山と仲山。まず社名からして共通性があります。中山神社に関して南宮大社と関係しそうな部分をWikipediaより引用します。

中山神社(なかやまじんじゃ)は、岡山県津山市一宮にある神社。式内社(名神大社)、美作国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。主祭神鏡作神 (かがみつくりのかみ)相殿神天糠戸神 (あめのぬかどのかみ)石凝姥神 (いしこりどめのかみ)
社名は現在「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた。別称として仲山大明神、南宮とも。他に金山彦命とする説もある。社伝(『中山神社縁由』)では、慶雲4年(707年)4月3日の創建とする。ただし実際には和銅6年(713年)、美作国が備前国から分立した時に吉備中山から勧請を受けて創建されたものとみられている。


岡山県神社庁ホームページによれば、明治4年に祭神は金山彦命と定められたが、神社側は鏡作神に改める様願い出でて、昭和21年に祭神名を主神鏡作神、相殿に天糠戸神、石凝姥神を配祀となり、明治以前の社家伝承や旧記類に明記せられている御神名に旧したとのことです。

いかがでしょう?南宮大社(仲山金山彦神社)と中山神社(別称は仲山大明神、南宮)。社名と祭神がほぼ一致し、中山神社には鏡作神までいます。南宮大社の境内社には天火明命(=鏡)を祀る社もあり、両社はまるで双子の兄弟のように見えてきました。ただ、祭神の問題は相当ややこしく、史料によって様々あります。

そこで、中山神社に関して書かれた最重要史料、「国幣中社中山神社史料」を参照します。愛知県の図書館で岡山に鎮座する神社の史料まで見ることができるのは有り難いですね。これは600ページ以上の大作で、大正12年(1923年)の発行となります。発行所は中山神社社務所。編集は藤巻正之氏とのこと。かなり読みにくいのですが、今まで書いた内容と異なる部分も出てきそうなので、早速検討に入りましょう。参考までに、最初のページ3枚分を以下にアップします。

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一枚目。今回の写真は全部拡大サイズを大きくしています。

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二枚目。

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三枚目。

一枚目の最初は神社の所在地について書かれていますが、幾つかの史料に長良嶽と記載されていました。中山神社はこの山の山麓に鎮座していると理解されます。長良嶽の名前は濃尾平野を流れる長良川と何らかの関連があるのでしょうか?長良川では砂鉄を産し名前も砂鉄に関連しており、鉄や金属に関連して同じ名前になった可能性が高そうです。長良川の砂鉄に関しては以下の岐阜新聞webを参照ください。
http://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/2012/kokutai/news/20120925_2.shtml

写真一枚目の最後の行には社名の由来が書かれており、神楽尾山と黒澤山の中間に長良嶽があるので中山神社(なかやまじんじゃ)の名前となったとあります。黒澤山は神社の北側で神楽尾山は南側となります。そう言えば、南宮大社(南宮山麓に鎮座)は伊吹山が北側にあり、南側は養老山地で、中山神社と同じような位置構成となっています。南宮大社を仲山(中山)金山彦神社と称するのはこの位置関係によるものかもしれません。


神楽尾山と黒澤山の位置関係を示すグーグル画像。

神楽尾山は表示ありませんが、画像真ん中の339の下あたりです。


伊吹山と養老山地の位置関係を示すグーグル画像。南宮大社は新幹線の幹の字の辺り。

ただ「中山神社史料」記載の史料「中山神社祭神考」は、枡形山と黒澤山の中間にある霧山が元々の鎮座地であり、ここから長良嶽の麓に遷座したとしており、酔石亭主もその考えが正しいと思います。なぜなら、枡形山の周辺には香々美や鏡野町と言った鏡に関連する地名が存在しているからです。


枡形山と黒澤山の位置関係を示すグーグル画像。


鏡野町一帯の位置を示すグーグル地図画像。川の名前も香々美川で鏡を意味しています。

また「中山神社祭神考」は、霧山の西南山麓に鏡村があり、その南の鏡川に沿って竹田村がある。鏡作部の数姓の内に竹田連、竹田川辺連があり、鏡村との関係が窺えるとしていました。「新撰姓氏録」の左京神別には、竹田川辺連 火明命五世の後也。とあり、「その30」で以下の内容を書いています。

新撰姓氏録」には湯母竹田連があり、火明命五世孫、建刀米命の後とあります。続いて、竹田川辺連があり同命五世の後とあります。これを系図的に書くと以下のようになります。

天火明命―天香語山命―天村雲命―天忍人命―天戸目命―建刀米命

そして、建刀米命の子である竹田折命(=建多乎利命)が景行天皇から菌田連(たけだのむらじ)姓を賜り、後に湯母竹田連に改姓したとされます。具体的には次の通り。「男竹田折命。景行天皇御世。擬殖賜田。夜宿之間。菌生其田。天皇聞食而賜姓菌田連。後改為湯母竹田連


今までに検討してきた内容がこんなところで繋がるとは不思議でなりません。「中山神社祭神考」の筆者は鏡作部の数姓の内に竹田連、竹田川辺連があると書いていますが、そうなる根拠は不明です。ただ大和の鏡作坐天照御魂神社においては、鏡作部が鎮座地周辺に住居し御鏡(天照国照彦火明神)並びに遠祖(石凝姥命)を氏神として奉祀していたとされ、鏡作部と竹田川辺連が天火明命(鏡)を奉じていた点では共通します。

面白いのは、笛吹連の祖・櫂子の父となる建多乎利命が竹田折命とも表記され、竹田連や竹田川辺連との関連性を匂わせている点です。「その33」で以下のように書いています。

多氏系の子部の祖が天火明命(=天照御魂=鏡)となり、多神社の神官に天火明命を祖とする竹田川辺連がいて、竹田川辺連の祀る竹田神社が多神社の若宮になっています。多神社の多氏は以上から太陽信仰と天火明命に関与し、天照大神に接続する要素を有しているのです。

竹田連や竹田折命の竹田を一文字にすると笛になるのは偶然でしょうか?仮に意図があってのことだとすると、古代人の遊び心も大したものだと思えてきます。それはさて置き、以上から、鏡と深く関係する中山神社の元宮が枡形山と黒澤山の中間にある霧山に鎮座していたのは間違いなさそうです。霧山の西南山麓に鏡村があり、鏡村の南の鏡川に沿って竹田村があって、いずれも鏡や天火明命との関係が想定される点はその根拠となり得ます。なぜこの地に鏡作部がいたのかは後の回で検討しますが、彼らは慶雲4年(707年)に長良嶽の麓に移住して、この地に中山神社を創建したと考えられます。

写真の二枚目から三枚目は祭神に関して書かれています。重要そうなので現代語で概要を書いてみます。

本社の祭神は金山彦命だが古来より、大巳貴命、鏡作尊、石凝姥命即鏡作尊、石凝姥命、天糠戸命鏡作尊、鏡作尊即金山彦命、吉備武彦命、天鏡尊、中山祇神など諸説がある。しかし、社伝によると鏡作命を主神として大巳貴命、邇々杵命を配祀すると言う。

上記に、鏡作尊即金山彦命とある部分は注目されます。既に書いたように金属系の総元締めである天香山命の亦名は石凝姥命(鏡)であり、天香山命の別名は手栗彦命(たくりひこ)で、金山彦命は伊弉諾命の嘔吐物(たぐり)から生まれた神であり、鏡も金属であると言う複雑な関係性の中から、鏡作尊=金山彦命となるのでしょう。従って、南宮大社の主祭神・金山彦神の背後にも鏡作神がいるのではと思われます。

三枚目は「中山神社祭神考」の文章を掲載しています。概要を現代文で書いてみましょう。

その正伝や異説の祭神の御神号を列記すれば以下となる。但し、御相殿両神(大巳貴命、邇々杵命)は延喜式後別社より合祀したものなのでここに掲載しない。正伝とするべき社記に曰く

鏡作命 石凝姥命の御神業より特に鏡作命と尊称して奉るところである。別記祭神考に明らかである

異伝

吉備武彦命 作陽誌著者江村氏が元禄中頃に始めて唱えた異説である。大日本史古事類苑等はこれから引用した。

石凝姥命
天糠戸命 これは江村氏が社記による一説として唱えたもの。

大巳貴命 元亀年間延喜式頭注を始め、同考証や一宮記その他以後の書の多くがこの異伝を挙げている。

石凝姥命
天鏡命 京都の儒家松岡如庵の説。江村氏もまた後年になって賛成している。
天糠戸命

金山彦命 平田家の説である。
(注:平田家とは平田篤胤(ひらたあつたね)のことで、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。)

中山神社の祭神を整理してみます。正伝は石凝姥命=鏡作命ですが、江戸時代は大己貴命(祭神は三座あって、中:鏡作命、左:瓊々杵尊、右:大己貴命との説も多い)、明治に入って金山彦命、昭和になって主祭神・鏡作神、相殿に天糠戸神、石凝姥神配祀と推移していることになり、混乱を極めています。

ただ、上記の祭神はどれも鉱山、産鉄、製鉄、冶金、鏡作りなど金属系の神となっており、この点は注目されますし、鏡作命は銅鏡のみならず、銅や鉄の鉱山開発や冶金に従事する各部族全体の神とも考えられます。大己貴命も重要なので関連する部分を見ていきましょう。

「中山神社史料」に記載の史料「中山神社縁由」と附録などによると、この地には古くから地主神・大己貴命がいて、懿徳4年に邇々杵尊が鎮座し、慶雲4年(707年)に鏡作尊が天下り、大己貴命はこの地を譲り祝木に移り現在の参道にある国司神社で祀られた。

大己貴命の神威の衰えを伽多野部長者乙丸が不満に思った。中山神の眷属である贄賄悟(悟は実際には獣偏)狼神がこれを怒り乙丸に祟った。乙丸はお詫びのしるしに毎年二頭の鹿を供えた。贄賄悟狼神はこれを許した。その後、乙丸は弓削庄(元は香々美庄で鏡に関係する)に退いた。と言ったストーリーになります。伽多野部長者乙丸とは肩野物部氏のことで弓削も物部に関係します。

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「中山神社縁由」と附録の部分。

吉備武彦命はどうでしょう?「作陽誌」によれば主祭神が吉備一宮の吉備津神社から勧請された吉備武彦命で相殿に吉備津彦命・吉備津姫命を祀るとしています。吉備津神社は備前国と備中国の境の吉備の中山(標高175m)に鎮座していますので、この説だと祭神のみならず、中山神社の社名もここから持ち込まれたことになってしまいます。(注:実際は違うと思われますが…)


吉備津神社一帯を示すグーグル画像。

吉備津神社の主祭神・大吉備津彦大神(吉備津彦命)は第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名は彦五十狭芹彦命。崇神天皇10年に四道将軍の一人として山陽道に派遣されています。吉備津神社は神体山とされる中山の北西麓に鎮座していますが、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座しています。両神社は製鉄と深い関係があります。吉備津神社と吉備津彦神社に関しては以下のホームページを参照ください。
http://kibitujinja.com/
http://www.kibitsuhiko.or.jp/

両社と鉄に関連する部分はWikipedia より以下引用します。

伝承によると、温羅(うら)は吉備の外から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣した。

これに従軍した犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)は桃太郎伝説における犬のモデルとされ、楽々森彦命(ささもりひこのみこと)は猿のモデルとされています。ここまで書いてきて思い当たるものがあります。

丹波に遠征した丹波道主命(彦坐王)と山陽道に遠征した吉備津彦命の軍勢の目的はいずれも鉄に関係しているという点です。加えて、彦坐王が追撃した陸耳御笠は鬼伝説で有名な大江山に逃げ込んでいました。陸耳御笠は土蜘蛛ですが、民衆にとっては鬼とも言える存在です。

丹波道主命(彦坐王)と吉備津彦命はいずれも崇神天皇によって派遣された四道将軍の一人。両者は鉄や鬼と関係している。こうした両者の相似性が、中山神社と南宮大社の相似性をもたらしているとは考えられないでしょうか?

つまり、吉備津彦命の山陽道遠征部隊は、鏡を奉じる彦坐王の部隊とは多少異なるものの、鏡作部をも率いて進軍し、中山神社に近い鏡村に至ったのです。彼らの一部は鏡村に定着し、それが後代になって中山神社創建に繋がったものと思われます。

吉備の中山と鉄の関係に関しては以下Wikipediaより引用します。

吉備津地区は「真金(まかね)」と呼ばれていた。由来は、『古今和歌集』で吉備中山について「真金吹く 吉備の中山帯にせる 細谷川の音のさやけさ」と歌われたことに由来している。この歌中の「真金吹く」とは吉備国を表す枕詞であり、「真金」は鉄という意味である。

真金吹く吉備の中山とは、吉備津神社の鎮座地を詠っていると思われますが、本当にそうでしょうか?実はこの一帯に鉄鉱山は存在していないのです。一方中山神社の鎮座する美作国は吉備四国の内、最も鉄の産出の多い国となっています。神社周辺には製鉄関連の遺跡や「金山谷」、「金山ロ」、「金屎」などの地名も存在しています。

上記地名は「古代の鉄と神々」(学生社、真弓常忠氏著)に書かれていますが、同書によれば、糘山(すくもやま)とは久米郡久米町桑下北方に聳える山で、むかし物部肩野がここに居宅を構えていたという伝承があり、長者屋敷の敷石が先年まであった由で、その跡に長者神社(明治末年貴布祢神社に合祀)があって、祭神は伊香我色乎命とされていた。糘山はかねて七〇余か所に及ぶ製鉄遺跡のあることが知られていたが、近年完全な形の古代製鉄遺跡が発掘され、七世紀代のものと推定されることが報告されている。とのことです。膨大な数の製鉄遺跡が中山神社の鎮座する美作国に存在していたと確認されますね。

「中山神社史料」にも真金吹く吉備の中山の歌は中山神社の鎮座する美作国に関して詠ったものだと書かれています。となると、吉備津彦命は中山神社の奥宮に当たる霧山山麓の鏡村に行き、その後地理的な要衝である吉備の中山に移動してここで祀られた可能性が出てきます。吉備の中山の山頂にある墳丘長約120メートルの前方後円墳墓は、宮内庁が大吉備津彦命の墓に比定しており、「中山茶臼山古墳」と呼ばれています。

鉄と鬼と鏡。山陽道遠征部隊の吉備津彦命と丹波道遠征部隊の丹波道主命(彦坐王)は同じ場所からほぼ同じ時期に、同じ目的を持って出発したのかもしれません。「中山神社史料」に出てくる「古史傳」と言う史料には、美濃国の仲山神社(現在の南宮大社)もここ(中山神社)から移したから、仲山と言うのではないか、と書かれていました。

この説は正しくないと思いますが、彦坐王の美濃・尾張遠征部隊が南宮大社鎮座地付近に至ったとき、鉄の産地である中山神社周辺に至った吉備津彦命の山陽道遠征部隊と綿密な情報交換をしていていたから、後代において南宮大社と中山神社のありようがほとんど同じになって、社名や祭神、鉄、鏡に関する部分までほぼ一致したと考えれば筋は通ってきます。

            尾張氏の謎を解く その99に続く
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No title

酔石亭主様、たびたび失礼します。

南宮が吉備とつながるんですね。おもしろいですね。
吉備といえば桃太郎ですが、岐阜市から木曽川を少し登ったところ、愛知県犬山市の栗栖という地域に桃太郎神社?公園?があり、B級珍スポット扱いされています。いつからかわかりませんが桃太郎伝説がこの辺りにはあるようです。この周辺も古墳地帯です。

Re: No title

ばべ様

コメント有難うございました。

桃太郎神社は子供の頃に行ったことがあります。当時はただ面白いなと思っただけですが…。次にアップする「その100」で桃太郎伝説の成立過程を考察していますので、ご一読いただければ幸いです。簡単に言えば、吉備と大和の伝説が合体して桃太郎伝説が成立した、と考えています。犬山の桃太郎伝説はやや新しそうですが、その深源には彦坐王の移動が関係しているのではと思っています。東之宮古墳も関係していそうで、この辺も後の回で書く予定です。

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