尾張氏の謎を解く その99


前回で、彦坐王の美濃・尾張遠征部隊と吉備津彦命の山陽道遠征部隊が連絡を取り合っていたから、南宮大社と中山神社の社名や祭神、鉄、鏡に関する部分までほぼ一致したと書きました。遠く離れた両者がこれほど深く関係していたとしたら、遠征部隊の出発点である大和においても同様だったと考えられます。双方の遠征部隊が鏡と関係している以上、彼らの出発地点は鏡作坐天照御魂神社一帯と推定されるので、そこに立ち返ってこの問題を考えてみましょう。

最初に検討すべきは、吉備津彦命自身が鏡や鏡作坐天照御魂神社に接続する回路を持っているかどうかです。この解明はなかなか難しそうですが、あれこれ調べてみると、「日本の神々」(白水社)第4巻、鏡作坐天照御魂神社の項は大和岩雄氏が執筆されており、この中にヒントがありました。

大和岩雄氏によれば、倭鍛冶が鏡作の地で鏡を作るようになったのは、第七代考霊天皇の黒田廬戸(いほど)宮が無視できないとのことです。考霊天皇は鏡作郷に隣接する黒田を宮地にしており、産鉄や鍛冶と関係し、例えば、鳥取県日野郡の楽々福神社(ささふくじんじゃ)には、天皇が皇后・皇女と共にやって来て鬼を退治した伝承があり、「ささ」は砂鉄を、「ふく」は蹈鞴を「吹く」の意としています。(注:かなり端折って書いていますので詳しくは「日本の神々」を参照ください)

楽々福神社に関しては以下の同社ホームページを参照ください。
http://sasafuku.jimdo.com/%E6%A8%82%E6%A8%82%E7%A6%8F%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E7%94%B1%E7%B7%92%E7%95%A5%E8%A8%98/

ホームページにある由緒を見ると、孝霊天皇に関して鉄生産の守護神と書いています。大和岩雄氏の視点と一致していると理解されますね。楽々福神社は別表記の神社も含め全部で7社程度あるようで、記紀などと比較して孝霊天皇の存在感が非常に強く出ています。同社関連の伝説は面白そうですが、長くなるのでここでは取り上げません。

さてそこで、考霊天皇の皇子が吉備津彦命となります。四道将軍の一人である吉備津彦命は山陽道遠征部隊のリーダーで、桃太郎伝説の原型となった鬼退治は彼が鬼ノ城の温羅(うら)を成敗する話が元になっていました。

吉備津彦命と戦ってあえなく敗北した温羅は、その後吉備津神社の御釜殿の下に埋められたそうです。温羅は鬼扱いされただけでなく、竈の下に埋められるなど随分ひどい目に遭ったことになります。まあ、外国でもグリム童話はとても残酷な話が元になっているので、洋の東西を問わず同じですが…。

とここまで書いてきて、大きな疑問が湧いてきました。吉備津彦命のみならず、なぜかお父さんの考霊天皇まで鬼退治をしていたことになるからです。鍛冶に必要な質の良い砂鉄を確保するため、天皇一族は総力を挙げて山陽道や山陰道各地の先住民を討伐し鉄資源を収奪していたのでしょうか? 天皇自身が息子の遠征地に近い方面まで出かけ鬼退治するのはどうにも解せないのですが、いかがなものでしょう?

考霊天皇の皇子を主人公とする桃太郎伝説は香川県高松市鬼無町の桃太郎神社(旧・熊野神社)にもあり、桃太郎(孝霊天皇第八皇子の稚武彦命)が瀬戸内海を渡ってくる海賊を鬼が島(女木島)で退治したと伝えられているそうです。その後、鬼の残党が鬼無まで攻め込んできたが、桃太郎はそれを討伐した。以降、この場所を「鬼が無し」=鬼無と呼ばれるようになったとか。(注:Wikiの記事を元にしています)

また、鳥取県日野郡日野町上菅250に鎮座する菅福神社には以下のような伝承がありました。

菅福神社の創立年代は不詳ですが、孝霊天皇旧跡の御社であるといわれている。伝説によれば孝霊天皇が皇后とともに牛鬼(うしうま)という悪者征伐のためこの地へ行幸になった時、皇后(くわしひめのみこと)が産気づかれ、そこで川辺の大石の上に菅の葉で敷物を造って休まれ、石の上に鏡を置かれるとまもなく皇女(福姫)を安産した。この川を音無川と名づけ付近に行宮を造られた。それが今の神社にいたる所と伝えられている。

内容は以下の地元のホームページより引用しています。
http://satoriju.blogspot.jp/2015_01_01_archive.html

楽楽福神社の「福」、菅福神社の「福」のいずれも蹈鞴の「吹く」に関係していると思われ、蹈鞴や伊福部氏の影がちらつきます。菅福神社の伝承には鏡も出てきました。欠史八代の天皇は事績がほとんどなくいずれも影が薄いのに、なぜか孝霊天皇だけは八面六臂の大活躍で、吉備津彦命をも凌ぐほど鬼退治に精を出しているのです。まだ見えてはいませんが、この裏にはきっと何かありそうです。

つい話がそれてしまいましたので、吉備津彦命が鏡や鏡作坐天照御魂神社に接続する回路を持っているかどうかの考察に戻りましょう。既に書いたように彼の父・考霊天皇は宮地の位置や伝承からして鍛冶や鏡作りの技能民を配下に置いていたと考えられます。

かつての鏡作郷には鏡作坐天照御魂神社(鎮座地:磯城郡田原本町大字八尾字ドウズ814)、鏡作伊多神社(鎮座地:磯城郡田原本町大字保津150)、鏡作伊多神社(鎮座地:磯城郡田原本町大字宮古60番)、鏡作麻気神社(鎮座地:磯城郡田原本町小阪字里中)、鏡作神社(鎮座地:磯城郡三宅町石見650 )が鎮座しており、宮古の鏡作伊多神社は天皇の宮地である黒田郷内に鎮座しており、宮古も考霊天皇の「都」を意味しています。また既に書いたように、鏡作坐天照御魂神社境内の石碑には鏡作郷中の各村に宮古と黒田も含まれています。

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鏡作坐天照御魂神社境内にある鏡作郷の石碑。宮古や黒田の地名が確認できます。

各社の住所をグーグル地図で検索いただければ、孝霊天皇の廬戸宮比定地とされる磯城郡田原本町黒田の孝霊神社(注:遷座前は聖徳太子開基の法楽寺境内に所在)から、いかに近いかご理解いただけると思います。


孝霊神社と法楽寺の位置を示すグーグル地図画像。

以上から、考霊天皇は鍛冶や鏡作りに関与していた点は論証できたようです。そして考霊天皇の子は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)であり、その亦の名が吉備津彦命でした。吉備津彦命に関しては以下Wikipediaより引用します。

大和の黒田庵戸宮(盧戸宮)(やまとくろだいおどのみや、現在の奈良県磯城郡田原本町)に生まれ、崇神天皇10年9月甲午(9日)、勅命により四道将軍の1人として西道(山陽道)に派遣されたが、任地に赴く途上で武埴安彦命(孝元天皇の皇子、吉備津彦命には甥皇子に当たる)の反乱に遭遇、これを大彦命(孝元天皇皇子、武埴安彦命の異母兄弟)とともに制圧してから西道に赴き、同天皇11年4月己卯(28日)までに異母弟の雅武彦命(若日子建吉備津日子命)とともに吉備国を始め山陽道に沿う周辺域を平定、この事によって「吉備津彦」を名乗る事になったというが(「吉備津彦」とは「吉備の勢力者」の意味)、1説に吉備国制圧の目的は同国の製鉄技術の掌握であったとされる。また、同天皇60年には武渟川別(大彦命の王子)とともに出雲国へ出征して出雲振根を誅滅している。

武埴安彦命の制圧には葛木坐火雷神社の櫂子も関係していましたね。色々な場面で繋がりが出てくるように思えます。それはともかく、吉備津彦命は鍛治や鏡作りに関係する考霊天皇の皇子で、生誕地も鏡作坐天照御魂神社に近い黒田の盧戸宮となります。どうやら、考霊天皇を介して吉備津彦命が鏡や鏡作坐天照御魂神社に関係する回路が見えてきたようです。

しかも考霊天皇と吉備津彦命はともに産鉄、鍛冶に関係し、同じような鬼退治伝説を持っていたのです。あまりにも共通項が多すぎる気もしますが、これで四道将軍の一人・吉備津彦命が鉄や鏡、鏡作坐天照御魂神社に接続する回路を持っており、鏡作部も加わった山陽道遠征部隊が鏡村に至って鏡作部の一部が同地に定着し、後代になって鏡作命を祀る中山神社の創建に繋がっていく回路が明確になってきました。

以上、美濃・尾張に向かった彦坐王の遠征部隊の動きや南宮大社のありようを、吉備津彦命の動きと中山神社を通して逆照射してみました。

           尾張氏の謎を解く その100に続く
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