尾張氏の謎を解く その101


前回までで、彦坐王の美濃・尾張遠征部隊と吉備津彦命率いる山陽道遠征部隊は課せられた使命が同じであると確認されました。両遠征部隊は製鉄や鍛冶、鏡作りと密接な関係を持ち、出発地点も共に鏡作坐天照御魂神社を中心とした城下郡鏡作郷(「和名抄」にみえる郷名)だったのです。

美作国一宮の中山神社(別称として仲山大明神、南宮)と美濃国一宮の南宮大社(「延喜式神名帳」では仲山金山彦神社」)が、まるで双子のような相似形となっている背景には、美濃・尾張遠征部隊と山陽道遠征部隊の相似形がありました。従って、南宮大社の背後には鏡作神である天糠戸神と石凝姥神が隠れていると推定されるのです。

続いて、中山神社の別称が南宮である点を別の視点から見ていきます。広島県府中市栗柄町には南宮神社が鎮座しています。主祭神は孝霊天皇、伊邪那岐神、伊邪那美神、金山彦神ですが、別の解説板には吉備津彦命も入っています。詳細は以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/mb1527/H161016.html

南宮神社が鎮座する広島県府中市栗柄町の隣町には、備後国一宮の吉備津神社が鎮座(鎮座地:広島県福山市新市町宮内400)しています。Wikipediaによれば以下の通りです。

吉備国が三国に分離された後の806年(大同元年)、吉備国一宮であった吉備津神社より勧請して創建されたと伝えられる。しかし、その約百年後の905年から967年にかけて編纂された『延喜式神名帳』に記載がないことから、実際の創建はもっと後であるとする説がある。

根拠となる史料を調べてはいませんが、ネット情報によれば吉備津神社が備後国一宮になる以前は南宮神社が一宮だったとのことです。南宮神社創建は大同2年(807年)と伝えられており、Wikiの記事のように吉備津神社の実際の創建が806年よりもっと遅ければ、その可能性は高くなります。南宮神社が備後国一宮で、南宮大社が美濃国一宮、中山神社も美作国一宮。そう並べると実に見事な対応関係を示していますね。

南宮神社の社名の由来は備後国一宮の南に位置していたから、美濃から移住した人が美濃国一宮・南宮大社を勧請したからなどの説があります。美濃国の南宮大社にも国府の南に位置することからそう呼ばれたとの説があり、仮にそれが正しければ意味合いは全く同じになります。また美濃国の南宮大社を勧請したとするなら、見事な対応関係どころか両社は同じものになってしまいます。

諸説はさて置き、備後国の南宮神社に関しては、祭神が孝霊天皇、伊邪那岐神、伊邪那美神、金山彦神、吉備津彦命である点に注目したいと思います。吉備の鉄を求めて鏡村に来た吉備津彦命の軍勢が後に南宮神社鎮座地付近へと進軍し、その地に後代になって南宮神社が創建されたのでしょう。祭神の内孝霊天皇、金山彦神、吉備津彦命が鉄絡みである点を考慮すると、この南宮の意味も美濃の南宮大社同様、蹈鞴製鉄における高殿の四本の押立柱の南の柱に由来するから南宮とするのが合理的な考えになりそうです。中山神社の別称が南宮であるのも、一帯が製鉄に関係しているからと考えられます。

そして南宮神社には考霊天皇の陵墓までありました。こんな場所に考霊天皇の陵墓があるとは、あまりにも唐突な感じです。陵墓の詳細は以下を参照ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/rhje63/16264984.html

なお考霊天皇の陵墓候補地は多数あります。詳細は以下を参照ください。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%AD%9D%E9%9C%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%97%A7%E8%B7%A1

考霊天皇の陵墓問題はどう考えればいいのでしょう?吉備津彦命は鬼退治で有名ですが、考霊天皇も同様に、いや吉備津彦命以上に鬼退治の伝説を持っています。加えて、産鉄、鍛冶、鏡作りの部分でも両者は共通項を持っていました。考霊天皇と吉備津彦命を祀る神社、陵墓は吉備国(後の備中国、備前国、備後国)、伯耆国に集中しています。

これだけ共通する部分が多く、また欠史八代の天皇は事績がほとんどないのに孝霊天皇だけが突出しているとなると…、吉備津彦命は考霊天皇の皇子などではなく、両者は同一人物だったのではないでしょうか?考霊天皇=吉備津彦命であれば、吉備津彦命が鏡や鏡作坐天照御魂神社と接続する回路はより強固なものとなってきます。やや強引ですがここではそうしておきます。

吉備津彦命は吉備中山の中山茶臼山古墳がその陵墓とされています。南宮神社の陵墓は吉備津彦命(=考霊天皇)の供養墓(当人は埋葬されていないが、ここで供養されている墓)なのかもしれません。もっともこれは仏教的な考え方なので、実際には吉備津彦命配下の重要人物が埋葬された墓の可能性もあります。考霊天皇の陵墓候補地が多数あるのは、山陽道に遠征した四道将軍の将官たちの姿が重ねられているのでしょうか?

以上、南宮大社と中山神社が双子のように酷似している点を様々な角度から検討してきました。その背景には、美濃・尾張遠征部隊と山陽道遠征部隊の目的が同じと言う事情があり、両遠征部隊の相似性が南宮大社と中山神社の相似性をもたらしたと理解されます。

       尾張氏の謎を解く その102に続く
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No title

酔石亭主様

たびたび失礼します。岐阜市下川手に石切神社がありでますがこれはどうですか?祭神が石凝姥神となっています。岐阜県神社庁の検索で出てくるのはこれだけです。「神社探訪・狛犬見聞録」という私の好きな狛犬専門サイトにも由緒がかいてあります。この地域で勢力を誇った土岐氏の神社のようです。(私は狛犬好きから歴史に興味をもちました。)

Re: No title

ばべ様

石切神社の元の鎮座地が土岐市ですから、現在検討を進めている彦坐王の話とは直接関係しないように思えます。ただ現在の鎮座地が尾張との境付近になっているのは注目されます。この近くには比奈守(ひなもり)神社が鎮座していますが、比奈は飛騨や夷(えみし、古代の日本における東方の異民族)を意味するとされ、大和王権にとって飛騨側から尾張への侵攻に対する防衛拠点と考えられます。方県津神社に関して後の回で書く予定ですが、同社から北の一帯は多分その前段の防衛拠点だったのではと思います。

No title

酔石亭主様

岐阜市の手力雄神社も比奈守神社だったそうで、飛騨、蝦夷との関連にひきつけられますね。うちの近所です。各務原の手力雄神社も近いです、神社としては別物のようです。こちらは古墳神社で神殿の両脇に古墳が1対あります。
方県津神社はまだ行ってませんでした。今度見てきます!
ありがとうございました。

Re: No title

ばべ様

今後しばらくは大垣市から東に進み、岐阜市から各務原市へと書き進めていく予定です。飛騨との関連ももう少し詳しく書いていきます。これから書いていく一帯は、ばべさんの地元に近いのですね。もし間違いや漏れていそうな部分があったら、どんどんご指摘いただければありがたいです。
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