尾張氏の謎を解く その105


しばしお休みした尾張氏の謎解きを再開します。以前に彦坐王の遠征部隊は大垣辺りで二手に分かれたと書きました。しかしここまでの流れからすると、彦坐王の美濃・尾張遠征部隊は東山道の大野駅があった郡家(ぐげ)を出て、根尾川を渡った後に二手に分かれたと思われるので訂正します。でも、なぜ彼らは二手に分かれたのでしょう?

これは丹波編における彦坐王の動きが参考になります。彦坐王の丹波遠征は陸耳御笠を討って鉱産品を手中に収めること、天照大神を奉戴する豊鋤入姫命を守護すること、因幡国の伊福部氏を配下に加えることなどが主な目的でした。

美濃・尾張の場合もほぼ同様だとすれば、彦坐王の遠征部隊主力は敵の勢力に対抗する目的で東山道を東に進んだことになります。一方、根尾川を渡った後に南下した別働隊は、天照大神を奉戴する倭姫命の警護に従事していたと考えられます。(注:この時点では豊鋤入姫から倭姫命に交代しています。鉱産品は不破を出たところで伊福部氏を配置して確保済み)人数的には彦坐王の率いる軍勢が大部隊で、倭姫命の警護部隊は数が少なかったと思われます。

二手に分かれた遠征部隊のありようを上記のように整理した上で、前回に引き続き彦坐王の動きを追っていきます。鷺山付近から彦坐王の遠征部隊は東山道を離れ、北東へと進みました。その先には方県津神社(かたがたつじんじゃ)が鎮座しています。

鎮座地は岐阜県岐阜市八代3丁目13番1号。主祭神は丹波之河上之摩須郎女命(たにはのかわかみのますのいらつめのみこと)となっています。ここで河上之摩須郎女命の名前が出てきたのには驚きました。彼女は丹波編で何度か取り上げた川上麻須の娘で、丹波道主命(彦坐王)の妃です。丹波から美濃までは当時の人にとって想像もできないほどの距離感があります。そんな長旅をものともせず同行しているとは、よほどご主人思いの奥様だったのでしょう。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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方県津神社です。

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社名と祭神を示す石柱。

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拝殿。

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本殿。

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神社背後の山。神体山的な雰囲気があります。

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解説板。

由緒内容のほとんどが人の名前ばかりで、しかも文章の繋がり具合が悪く頭に入りにくいと思われます。別の資料もチェックしてみましょう。岐阜県神社庁ホームページより引用した同社の由緒詳細は以下となります。
http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=1181&shrname=%E2%98%85%E6%96%B9%E7%9C%8C%E6%B4%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%98%85

日子坐王一族はこの地方に深い関係をもち農耕、治山、治水に貢献された。日子坐王の皇子丹波道主命は、崇神天皇の朝命を奉じて、丹波(山陰地方)に赴かれ四道将軍の御一人で、別名彦多都彦命(伊奈波神社)という。その奥方が当式内社方県津神社御祭神丹波之河上摩須郎女命、その御子日葉酢比売命又その御子五鐘五十瓊敷入彦命は(伊奈波神社)妃淳熨斗媛命(金神社)、その御子市隼雄命(橿森神社)及び擁烈根命(県神社)である、岐阜市内の総神社の親神様に当る。当社は創立年月日不詳なるも、日本書紀に美濃國方縣郡式内社従二位方縣津大明神は中福光村八代の郷に鎮座すとあり。美濃國神明帳に従三位方縣津明神とありて、祭神は垂仁天皇子、日子坐の子印色之入日子之命の外祖父、丹波比古多々須美和能字斯王姫丹波之河上之摩須之郎女(縣氏三女)を主神とし、之に縣氏の祖神を合せ祀りしものにして、是れ明治神宮誌料により明らかなり。(中略)往古当所は伊勢湾の海水爰に浸入し、大船の往来繁く、肩と肩を接する程の賑わいなりし故肩々津港と称され、後方縣津と転訛し、本社も方縣津神社と称したるもののごとし。昭和32年12月7日縣神社を方県津神社に変更。尚、当神社は五世紀頃の古墳上(円墳直径40m高さ4.5m)にあり、かつて北側と東側に周濠があった。この古墳は通称「枡?」と言っているが、これはご祭神「丹波之河上之摩須之郎女之命」の「摩須」が転訛したもので、「摩須?」が正しいと思われる。

こちらは解説板と異なり長文で読みにくい由緒です。うんと簡略に纏めれば以下の通り。

彦坐王の一族は美濃と深い関係があり、その皇子丹波道主命は別名が彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)で伊奈波神社の祭神となっている。丹波道主命の妃が方県津神社の祭神・丹波之河上之摩須郎女命となる。

丹波道主命と河上之摩須郎女命の子である日葉酢比売命と、その子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと、印色之入日子之命)も伊奈波神社の祭神であり、五十瓊敷入彦命の妃や子も岐阜市内の各神社に祀られていることから、由緒冒頭に「日子坐王一族はこの地方に深い関係をもち農耕、治山、治水に貢献された。」記載されている。


複雑な人間関係を整理するため、全体の系図を作成しました。以下にアップします。

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系図。 画像サイズを大きくしています。

注:方県津神社の由緒内容に従って系図を書いていますので、「丹波道主命(伊奈波神社祭神)」としていますが、伊奈波神社の実際の祭神は丹波道主命の別名である彦多都彦命となります。

さて、丹波道主命の別名を彦多都彦命とする由緒の記述には感慨深いものがありました。「その60」において、彦多都彦命は丹波道主命と同一人物であると既に書いているからです。これは丹波編における推定が美濃・尾張編に至って証明されたようなもので、伊奈波神社のありようを理解する上で重要なカギになると思われます。

また丹波道主命は、「古事記」の表記では丹波比古多々須美和能字斯王(たんばひこたたすみちのうしのみこ)となっています。彼の名前の「比古多々須」の部分が「彦多都彦」とほぼ同じように見えるのは、そうした見方の支援材料となりそうです。この問題は後の回で詳しく検討する予定ですが、方県津神社の視点から少し考えてみましょう。

上記の系図から、方県津神社と伊奈波神社の間には密接な関係があると判断されます。次に、方県津神社祭神は河上之摩須郎女命で丹波道主命の妃となります。当時の時代背景を考慮すると、妃が単独で丹波から美濃まで来るなど考えられず、丹波道主命に同行したとするしかないはずです。その場合、どこか近くで丹波道主命が祀られていなければなりません。

候補となるのは言うまでもなく方県津神社と関係する伊奈波神社です。伊奈波神社の祭神・彦多都彦命は丹波道主命の別名ですが、両者を別個に考えてみます。まず、丹波道主命は丹波道の支配者としての名前で美濃における痕跡はありません。彦多都彦命も「先代旧事本紀」国造本紀に稲葉国造に定めると記載ある人物で、美濃とは全く関係がなさそうです。そうした視点から見ると、方県津神社に河上之摩須郎女命が祀られる必然性は皆無となります。

一方、彦坐王は美濃開拓の祖とされ、酔石亭主の視点では伊福部氏を主力とした遠征部隊を率いて美濃に入っています。彦坐王=丹波道主命であるのは既に論証を終えていることから、由緒通り丹波道主命=彦多都彦命であれば、彦坐王=彦多都彦命となります。

従って、河上之摩須郎女命は彦坐王に同行していたことになり、そう考えて初めて方県津神社に河上之摩須郎女命が祀られる必然性が出てきます。このように書くと、彦坐王の妃は息長水依売命だとの指摘を受けそうですが、当時の王族は何人もの妃がいたので問題はないとしておきます。

さて、彦坐王は鷺山を通過して後、東山道の経路を外れ北東の方県津神社方面に向かいました。ここまでの論証で方県津神社に河上之摩須郎女命が祀られる必然性があると確認でき、その確認こそが東山道を外れた彦坐王の動きに一定の根拠を与えたことになります。

では、なぜ彼らは東山道の経路を外れ方県津神社方面に向かったのか?これが次の問題点として浮上してきます。徒歩で進む彼らの行動に無駄は許されず、必ず何らかの意味や理由があるはずです。方県津神社の鎮座位置にどんな意味があり、そこに向かうべきどんな理由があったのでしょう?方県津神社の鎮座地は奈良時代に美濃と飛騨を結んでいた東山道飛騨支路に近く、ここにその理由があったと思われます。

彦坐王が東山道の経路を外れたのは飛騨支路の方面に向かうためでした。今回の記事の最初に、「彦坐王の遠征部隊は敵の勢力に対抗する目的で東山道を東に進んだ」と書きましたが、具体性には欠けています。その欠けた部分がここで明らかになります。

そう、彦坐王は飛騨からの侵入者に対抗する目的で東山道の経路を外れ方県津神社方面に向かったのです。この問題は後の回で詳しく検討するとして、一旦東山道に戻ります。

彦坐王が経路を外れた東山道は、正木から鷺山を越え僅かに南下しつつ東に進んでいます。そのルートは現在の78号線にほぼ沿っていると考えられ、鷺山→長良高校→長良雄総となります。


ルートを示すグーグル地図画像。

画像の左端に鷺山があり右端辺りに長良高校があります。地図画像からははみ出しますが長良川カントリーの南側が長良雄総となります。「拡大地図表示」をクリックした上で確認ください。既に書いたように、東山道方県駅は長良高校から長良雄総に至る経路のどこかにあったと推定されています。もっと大雑把に見れば、鷺山から長良雄総の間のどこかに存在していたことになります。

方県駅からは東山道・飛騨支路が分岐していたとされます。この場所からどのように飛騨方面へと進むのか頭をひねりましたが、飛騨支路は方県駅→武儀郡の武儀駅→加茂郡の加茂駅のルートとされています。となると、78号線が南北に走る256号に至ったところで北へ向かうしかありません。そのままどんどん北に進むと山に突き当たって行き止まり状態となるので、どこかで東にルートを変える必要があります。


東にルートを変える位置を示すグーグル画像。

この画像で山県市立高富小と表示ある辺りなら東に抜けられます。現在の山県市高富町を東に折れてそのまま進むと武儀川(長良川の支流)を越えることになります。武儀駅の所在地は不明ですが、川の名前が既に武儀川でありこのまま東に進んだどこか、つまり関市内のどこかに武儀駅があったのでしょう。(注:「七宗町史通史編」には比定地が書かれているようです)

そして加茂駅(現在の川辺町下麻生)から飛騨川(木曽川の上流)に沿って遡れば飛騨に至るのです。飛騨からの侵入者はこの逆を辿って美濃に出ようとしたはずです。方県駅から分岐する飛騨支路のルートと飛騨からの侵入者の問題は後の回で重要になってきますので、頭の片隅にでも留めていただければと思います。

           尾張氏の謎を解く その106に続く
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