尾張氏の謎を解く その107


今回は伊奈波神社の祭神に関する詳細を検討していきます。国立国会図書館デジタコレクションには「岐阜市史」が収められており、伊奈波神社について非常に詳しく書かれているので参考になります。内容は以下を参照ください。コマ番号は24番から35番。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170918

祭神の部分を見たところ、驚いたことに伊奈波神社主祭神が彦多都彦命で亦名は丹波道主命となっていました。主祭神のはずの五十瓊敷入彦命及び日葉酢媛命は相殿に祀られていますし、物部神社が分けて記載あり祭神が物部十千根命となっています。この史料は昭和3年のものなので87年前の編纂となりが、当時と現在では既に違いが見られるのです。現在は前回で書いたように、主祭神が五十瓊敷入彦命、配祭神が淳熨斗媛命、日葉酢媛命、彦多都彦命、物部十千根命となっています。

「岐阜市史」の記載は、古い時代、伊奈波神社と物部神社の二つがあり、二社が合祀されて現在に至った事実の反映と考えるべきでしょう。伊奈波神社に関しては、椿原(現在の岐阜公園の丸山)に鎮座していたものが、現在地に遷座してきたことになります。


丸山の位置を示すグーグル画像。丸く突き出した山の部分が丸山です。

一方物部神社は、「岐阜市史」によると、岩戸村の岩屋観音の地に鎮座していたことになります。また伊奈波神社の氏子の第一も岩戸村村民だったとのこと。前回でWikiを引用しましたが、それには「天文8年(1539年)、斎藤道三が稲葉山に稲葉山城を築城するにあたり、現在地に遷座した。この際、その地にあった物部十千根命を祀る物部神社を合祀し」と書かれていました。従って、戦国時代に伊奈波神社は丸山から、物部神社は岩戸からそれぞれ遷座し現在地にて併せ祀られたことになりそうです。(注:物部神社は現在地に鎮座していたとの説もある)


岩戸の位置を示すグーグル地図画像。

前回でアップした「岐阜城跡の調査」は、縁起には、祭神の因幡大菩薩である五十瓊敷入彦命の一族を祀るため、景行天皇の命を受けた武内宿禰が、「椿原金山」のふもとに社殿を構えたことが伊奈波神社の創祀であるとされている。と書いています。縁起を見ると、五十瓊敷入彦命を中心に据え、母の日葉酢媛命、妃の淳熨斗媛命の名前が挙げられているので、「岐阜城跡の調査」と縁起の内容は整合しているように見えます。

よって、五十瓊敷入彦命、熨斗媛命、日葉酢媛命は丸山から遷座し、物部十千根命は岩戸から遷座したと考えられますが疑問も出てきました。肝心要の彦多都彦命が宙に浮いてしまうからです。因幡国造の祖である彼こそが因幡大菩薩(因幡大神)に相応しいはずなので、もっと掘り下げて考えるべきでしょう。

どこから手を付けるべきか迷いますが、彦多都彦命の前に五十瓊敷入彦を見ていく必要がありそうです。前回で五十瓊敷入彦命と物部氏との関係を取り上げ、結論を出さないまま以下の内容を書いています。

丹波道主命(=彦多都彦命=彦坐王)と河上之麻須郎女命の子が日葉酢媛命。垂仁天皇と、その後皇后となった日葉酢媛命との間に生まれた皇子が五十瓊敷入彦命となります。そして五十瓊敷入彦命の妃が淳熨斗媛命で、五十瓊敷入彦命の功臣が物部十千根命ですから、一見すると伊奈波神社の祭神に関する筋は通っているようにも思えますが、微妙な違和感が残ってしまいます。

違和感の原因は同社の主祭神・五十瓊敷入彦命にあり、美濃に進軍した彦坐王と整合しない要素が存在します。五十瓊敷入彦命が彦坐王と整合しないのは、彼が物部氏と深い関係を持つ部分で、Wikipediaには以下の記載がありました。

五十瓊敷命は老齢のため、石上神宮神宝の管掌を妹の大中姫命に託した。大中姫命は、か弱いことを理由に神宝を物部十千根に授けて治めさせた。これが物部氏による石上神宮での神宝管掌の起源という。』

上記のように五十瓊敷入彦命は物部氏と極めて深い関係にあります。五十瓊敷入彦命だけではありません。岐阜市金町5-3に鎮座する金神社(こがねじんじゃ)の祭神はWikipediaによると以下のようになっています。

祭神は金大神(こがねのおおかみ)を主祭神に、渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)、市隼雄命(いちはやおのみこと)、五十瓊敷入彦命、日葉酢姫命の4柱を祀るが、一説に渟熨斗姫命を金大神と称すとも、渟熨斗姫命以下4柱の総称が金大神であるともいう。

金神社の境内摂社に物部神社があり、同社ホームページには「当神社の主祭神渟熨斗姫命は、景行天皇の第六皇女で伊奈波神社の主祭神五十瓊敷入彦命の 妃である。」と書かれています。ホームページは以下を参照。
http://www.geocities.jp/koganejinjya/yuisyo.htm

また境内には史跡の賀夫良城(かぶらぎ)があり、これは物部臣賀夫良命(もののべおみかぶらのみこと)の奥津城(墓)とされています。金神社の東側は岐阜市蕪城(かぶらぎ)町で、古代の人名(お墓)が町名になっていました。

「先代旧事本記」の国造本紀には「三野後国造に志賀高穴穂麻御代物部連祖出雲大日命孫臣賀夫良命定賜國造」と書かれています。つまり、成務天皇の御世になって物部臣賀夫良命が国造としてこの地に派遣され、国府と定めたのが金神社一帯だったのです。五十瓊敷入彦命の一族がいかに物部氏と密接であるか理解されますね。


金神社の位置を示すグーグル地図画像。JR岐阜駅に近い市の中心部に鎮座しています。

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金神社です。 

背後のビルが神域を覗き込むように建っています。違和感のあるシュールな光景です。
 
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拝殿です。境内社は全部本殿の背後にあります。

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境内社の案内。

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本殿。

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賀夫良城神社。

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物部臣賀夫良命の奥津城(墓)。

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解説板。内容を以下記載します。

史跡賀夫良城
賀臣夫良命の奥津城(墓)と伝えられている。命は物部十千根命の嫡孫で今を去る凡そ一千八百年前成務天皇の御代ははるばるこの三野後の地に国造として赴任され、国府をこの高台に定められた。


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物部神社。

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金高椅神社。

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解説石板。

現在のストーリーとは直接関係ありませんが、興味深い由緒を持つ境内社です。

一応金神社を見て回りました。同社の祭神や遺跡から判断すれば、五十瓊敷入彦命、淳熨斗媛命、日葉酢媛命、市隼雄命は明らかに物部氏と結び付いており、その関連でここに祀られていると見て間違いありません。市隼雄命に関しては金神社北東約500mの橿森神社で主祭神として祀られています。

五十瓊敷入彦命、熨斗媛命、日葉酢媛命は丸山の伊奈波神社から遷座し、物部十千根命は岩戸から遷座したと考えられる点に対する疑問、肝心要の彦多都彦命が宙に浮いてしまう問題は金神社の調査により一件落着となりました。では、どんな形で落着となるのでしょう?

五十瓊敷入彦命、淳熨斗媛命、日葉酢媛命、物部十千根は岩戸の物部神社から現在地に遷座した祭神。宙に浮いていた彦多都彦命は丸山の伊奈波神社から現在地に遷座した。そう整理すれば、ややこしい祭神問題も実にすっきりした形で決着します。彦多都彦命(=丹波道主命=彦坐王)は因幡国造でもあり、因幡大菩薩(因幡大神)と称されても違和感はありません。そう位置付けすれば、鎮座地の山が稲葉山と称され社名が伊奈波神社であることにも筋が通ってきます。

さらに、彦多都彦命は彦坐王ですから、武内宿禰が祀り丸山に鎮座していた時代の伊奈波神社祭神は彦坐王となります。ここで言う武内宿禰は伊福部氏を象徴する人物となりますので、より厳密に言えば丸山に鎮座していた伊奈波神社は因幡国系の伊福部氏が自分たちを率いた彦坐王を祀ったものと言えるでしょう。

丸山は長良川に面した位置にあり、川を渡れば東山道があり方県津神社も鎮座していると言う位置関係からもそれは証明されると思われます。一方、物部神社がかつて鎮座していた岩戸や金神社、市隼雄命を祀る橿森神社、市隼雄命の兄弟・擁烈根命(たらちねのみこと)を祀る県神社など物部氏と関係しそうな神社の鎮座地は岐阜市の比較的南側に位置しており、彦坐王のストーリーとは関係のない別の話と理解されます。

「岐阜市史」は祭神問題に関して詳しい論説を掲載していますので、興味のある方はご覧ください。なお、伊奈波神社に関しては、国立国会図書館デジタルコレクションの「岐阜市案内」(1915年の編纂)にもかなり詳しく出ています。内容に誤りと思われる部分も散見されますが、参考にはなりますので興味のある方はご以下を一読ください。コマ番号は20番からとなります。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932606

酔石亭主としては、丸山の伊奈波神社に伊福部氏と彦坐王が関係する点にのみ留意し、物部神社関係はこれで打ち切りたいと思います。

さてそこで、もう少し考えたいのが伊奈波神社の社名と伊福部氏の関係です。既にご承知のように、伊奈波=因幡であり同社は因幡国と関係を持っています。この問題を別の史料で探っていきます。参考になりそうな「木曽路名所図会」を見たところ、「此のやしろ上古は因幡国にありしより此神号あり」と言った記事がありました。伊奈波神社の神号は同社が遠い昔因幡国にあったことによる、と言う訳ですね。

一方「木曽路名所図会」には「因幡神社 厚見郡岐阜稲葉山の麓に鎮座あり 延喜式物部神社物部氏の祖なり」ともあり、物部神社に関しても書かれています。「木曽路名所図会」は以下の国立国会図書館デジタルコレクションを参照ください。コマ番号は131からです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959914

伊奈波神社が遠い昔因幡国にあったとする説は単なる俗説のようにも思えますが、今までの検討内容からすると必ずしもそうとは言えません。伊奈波神社がかつて因幡国にあったと仮定して、どの神社が相当するのでしょう?答えはただ一つ。そう、今までに何度か俎上に乗せた宇倍神社です。同社の祭神は武内宿禰命、彦多都彦命で伊福部氏が祀る神社です。伊福部氏は伊奈波神社に登場していませんが、残る二人は一致しています。宇倍神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

宇倍神社(うべじんじゃ)は、鳥取県鳥取市国府町宮下にある神社。式内社(名神大社)、因幡国一宮。『神祇志料』は祭神を『国造本紀』にある因幡国造の祖先、彦多都彦(ひこたつひこ)命とするが、延暦3年(784年)撰述の『因幡国伊福部臣古志』にある伊福部氏の祖先、武牟口(たけむくち)命とする説もあり、本来は伊福部氏の祖神を祀り、後に武内宿禰命を祀るとされたとみられる。祖神を祀ったとされる伊福部氏の居住したころが創建と思われる。『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり、成務天皇から賜った太刀等を神として祀ったとあるのが当社の創祀かもしれない。

「先代旧事本紀」国造本紀によれば、第13代成務天皇の御世に彦坐王(日子坐王)の子である彦多都彦命が因幡国の初代国造に任じられたとあります。宇倍神社祭神は彦多都彦命、或いは『因幡国伊福部臣古志』にある伊福部氏の祖先、武牟口(たけむくち)命となり、武牟口命が武内宿禰に充てられたものと思われます。この辺は「尾張氏の謎を解く その60」に詳しく書いていますので参照ください。関連部分を以下引用します。

吉田家本「神名帳」には因幡国の宇倍神社に関して、竹内宿祢(武内宿禰)垂迹の地であると書かれ、さらに彼は当国宇部山、大和葛城堺、美濃国不破ノ関、の三ヶ国に同日同時に顕現したと書かれています。これはとても奇妙な伝説ですが、どう考えればいいのでしょう?

この謎は武内宿禰を伊福部氏に置き換えれば簡単に解けてしまいます。彦坐王に率いられ大和葛城を出た伊福部氏は丹波国から因幡国にある宇倍神社の地を目指して進軍し、同地の伊福部氏を伴って美濃国の不破に向かったのです。

つまり、因幡国宇部山、大和葛城堺、美濃国不破ノ関、の三ヶ国に同日同時に顕現したのは、武内宿禰ではなく伊福部氏だった。そう考えれば、上記の奇妙な伝説は整合性のあるものとなるのです。

この考え方に沿うような史料がないか調べたところ、「因幡誌」(寛政7年、1795年)は伊福部氏第十四代の武牟口命を武内宿禰と読み違えた可能性があるとしており、この指摘は酔石亭主の見解を補強する材料となっています。

いかがでしょう?宇倍神社には武内宿禰の伝説があり、祭神は彦多都彦命と武内宿禰で、その背後には伊福部氏の存在がありました。一方、伊奈波(因幡、稲葉)神社の祭神には彦多都彦命がいて、武内宿禰の伝説があります。両神社の内容に共通するものがあるのは、彦坐王の遠征部隊が因幡国に行き同地の伊福部氏を引き連れて美濃に入り、東山道を現在の岐阜市に向けて進軍したことによると理解されます。従って、伊波神社の背後にも伊福部氏がいたと考えるべきです。

以上から、「木曽路名所図会」の、因幡神社(伊奈波神社)は上古因幡国にあったのでこの神号があるとの記述は、単なる俗説と退けられないことになります。全くの新説となりますが、丸山に創建された時点の伊奈波神社は彦坐王と伊福部氏が関係していたのです。

宇倍神社の由緒には伊福部氏の伊其和斯彦宿禰が因幡国造になった、とも書かれていました。因幡国造に関して、彦多都彦命の子孫と伊福部氏第16世・伊其和斯彦宿禰の2説あることになります。一般的には混乱の元になりそうな記述ですが、彦坐王は伊福部氏を率いて因幡国に入り、しかも当初から因幡国には別系統の伊福部氏がいたのです。因幡国における彦坐王と伊福部氏の存在感は実に大きく、また両者は密接不可分の状態でした。それが因幡国造に関する2説の原因となったとすれば、混乱なく理解されると思われます。

彦坐王の遠征部隊は東山道の大野駅(大野町郡家)を出てから二手に分かれました。一宮市方面に向かった部隊は鏡(天火明命)を奉じる大和の伊福部氏が主力で、東山道をそのまま東に向かった彦坐王率いる部隊は因幡国や出雲国の伊福部氏が主力だったから、伊奈波神社が因幡と関係する社名になったのです。先に丹波編を書かなければ、この間の事情は全く理解できないまま終わった可能性があります。現時点で東山道方面隊の因幡国系伊福部氏はあまり姿を見せていませんが、近いうちに登場してくると期待されます。

(注:伊奈波神社の祭神問題は各説を比較しつつ詳細な検討をすべきですが、非常に長くなりそうなので、酔石亭主の視点に沿って簡潔に書いています。「岐阜市史」は祭神問題を様々な観点から書いており、参考になりますので興味のある方はお読みください)
          
             尾張氏の謎を解く その108に続く
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