尾張氏の謎を解く その108


今回は長良川を渡河する前の段階に一旦戻った上で検討を進めます。彦坐王の軍勢は方県津神社付近から北部にかけて軍勢を配置し、飛騨からの侵入に対する防衛拠点を設けた後、長良川を渡河したものと思われます。

では、彦坐王の渡河地点は「その104」で書いた長良雄総の少し東付近でしょうか?いや、必ずしもそうとは限りません。長良川を少し遡ると長良古津と言う地名があります。古津とは明らかに古い港を意味しています。その少し上流には鏡岩もありました。鏡を奉じて進軍する彦坐王に相応しそうな名前の岩です。


長良古津の位置を示すグーグル地図画像。清水山に日子坐命墓とあります。

鏡岩は多分近代の命名で無関係としても、彦坐王の軍勢は長良古津で長良川を渡河したと判断されます。確証はないのですが、一応その前提で長良川を渡りましょう。(注:「各務原市史」は長良古津が東山道の長良川渡河地点としています)

川を渡れば美濃国各務郡(かがみぐん)に入ります。各務郡とは鏡を奉じて進軍した彦坐王の遠征部隊に最も相応しい郡名です。ここに鏡作部がいたとの説もあるようですが、それを示すような痕跡や伝承は残念ながらなさそうです。

長良川を渡ってすぐの岐阜県岐阜市岩田西3丁目421には伊波乃西神社(いわのにしじんじゃ)が鎮座しており、祭神は日子坐王(彦坐王)と子の八瓜入日子(八瓜命、神大根王)で、八瓜入日子は三野前国造、本巣国造の祖とされています。

美濃もここまで来てようやく真打ち・彦坐王が登場しました。ところがです。驚いたことに同社のすぐ近くには被葬者が彦坐王とされる墓が存在するのです。美濃で登場した途端、お墓の中に入ってしまうのでは、尾張に行き着く前にジ・エンドとなって話が前に進みません。これが本当に彦坐王の墓なのか再検討が必要です。いずれにしても一帯は彦坐王の関係エリアであり、遠征部隊の渡河地点は長良古津としておきます。


伊波乃西神社を示すグーグル地図画像。

彦坐王の墓の問題は後でじっくり考えるとして、取り敢えずは伊波乃西神社に行ってみましょう。

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鳥居と社名を刻んだ石柱。

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参道。 画像サイズを大きくしています。石灯籠がずらりと並び壮観です。

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拝殿。

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本殿。

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各社殿。

想像よりはるかに立派な神社なので驚かされました。

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石板系図。画像サイズを大きくしています。

系図には二つの流れがあり、一つは開化天皇の子・日子坐王(伊波乃西神社主神)で、その子が丹波道主命(伊奈波神社祭神)と八瓜命(伊波乃西神社祭神、=神大根王)になり、丹波道主命の子が日葉酢媛命(伊奈波神社祭神)と刻まれています。

もう一つは開化天皇―崇神天皇―垂仁天皇の流れで、垂仁天皇の皇妃が日葉酢媛命となり、その子が五十瓊敷入彦命(伊奈波神社主神)と景行天皇になります。この系図からすると、彦坐王が主祭神となる伊波乃西神社は伊奈波神社より格上に思えてしまいます。(注:実際には前回で書いたように、伊奈波神社の祭神も彦坐王ですから同格となります)

ここまで見てきた方県津神社、伊奈波神社、伊波乃西神社の系図や伝承内容から、三社の間には密接な関係があると理解されます。もちろんその中軸となるのは彦坐王です。伊波乃西神社の石板系図で丹波道主命を伊奈波神社祭神とするのは、方県津神社祭神河上之摩須郎女命との関係を考慮してのことでしょう。

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解説石板。内容を以下に記載します。

式内銀幣社 伊波乃西神社由緒
祭神 日子坐命
この社は延喜式神明帳に「美濃国各務郡七社内伊波乃西神社」とあり、二千有余年の間我々の祖先が崇敬しつづけてきた格式高い由緒ある神社である。
祭神、日子坐命は人皇第九代開化天皇の第四皇子で、四道将軍丹波道主命の父君にあたる。御子八爪命が美濃前国造に命ぜられるにあたり同道してこの地に来られ、地域の安定と人々の生活向上に心血を注がれ、住民の信望を一身に集められた、薨ぜられるにあたり、住民はこの地方開拓の祖神として北山中腹に手厚く葬り崇め奉った。古来この墓所には社殿があり、ここを伊波乃西神社と称していたが明治8年宮内省より御陵墓と認定されたため現地に遷宮し奉ったものである。

当初は墓所に社殿があったものを、明治8年に現在地に遷座したようです。もっと詳しく考えるため、同社の由緒を岐阜県神社庁ホームページより引用します。

勧請年月は不詳である。延喜式神名帳に「美濃国各務郡七社の内、伊波乃西神社」とある。清水山の山ふところ、檜の巨木数百本から成る美しい林に蔽われて鎮座する。祭神日子坐王は、人皇第九代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の祭神、丹波道主命の父君にあたらせられる。古事記中巻、水垣宮の段(崇神天皇の御代)によれば「日子坐王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」とある。史上に表れた御勲功のはじめである。なお、クガミミとは、国神の義であって、旦波の国に国神ミカサが住んでいたのである。王は、その後、勅命により東日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくされた。八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)は、日子坐王の皇子である。神大根王(カムオオネノミコ)と申し上げ、父君の後をつがれて、この地方の開発に功が多かった。日子坐王薨去の後、御陵を清水山の中腹に築かれた。当社の西に隣接している。明治8年12月に至り、日子坐王陵と確認されたので、宮内省陵墓寮の所管に移された。御陵墓祭は、3月21日であるが、毎年10月11日には、滋賀県木之本町の老若男女数10名が観光バスを連ねて参拝する。これは、その地に日子坐王をはじめ、御一族数柱を祭神とする神社がある為、10月10日例祭の後御陵参拝を行事としているからに他ならない。

注目すべき記述は旦波の国につかわされた以降の部分で、「王は、その後、勅命により東日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくされた。」とあります。彦坐王の美濃における存在感が前面に出てきましたね。

上記由緒の記述では、彦坐王が丹波国に赴き、その後東日本統治の大任を帯び美濃国に下ったことになり、酔石亭主が主張する彦坐王の移動経路と合致しています。なお由緒に滋賀県木之本町の老若男女とありますが、これは同地に鎮座する佐波加刀神社(さとかわじんじゃ)の氏子の皆さんを意味すると思われます。佐波加刀神社に関しては玄松子さんの以下のホームページを参照ください。(注:佐波加刀神社に関しては「その90」でも神社庁ホームページを引用して書いています)
http://www.genbu.net/data/oumi/sawakato_title.htm

彦坐王の皇子である神大根王(かむおおねのみこ)はこの地方の開発に功が多かったと由緒に記されています。彼は宗慶大塚古墳(そうけおおつかこふん)の被葬者とされ、詳細は「その104」に書いていますので参照ください。次回は彦坐王の墓(とされる)場所を見に行きましょう。

(注:前回で金神社境内にある賀臣夫良命の奥津城(墓)を見ていますが、その解説板にあるように彼は第13代成務天皇の御代に三野後国造となっています。一方八爪命(神大根王)は、伊波乃西神社解説板によるとそれより早い第9代開化天皇の御代に美濃前国造(三野前国造)になっています。

三野前国造は美濃国本巣郡が支配地と考えられますが、本巣国造が後に美濃全域を支配して三野前国造になったとの説もあります。物部氏系の三野後国造は美濃国東部の可児郡が支配地とされています。さてそこで、伊奈波神社主祭神に関して、彦多都彦命(彦坐王)と五十瓊敷入彦命の2説がありました。彦坐王、八爪命(神大根王)グループと物部氏と密接な五十瓊敷入彦命グループの問題、言い換えれば三野前国造と三野後国造の問題が同社の祭神に影を落としているようにも見えるのですが、いかがなものでしょう?また三野後国造は三野前国造に吸収合併されたともされ、この辺はまた別の機会にでも考えたいと思います)

           尾張氏の謎を解く その109に続く
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