尾張氏の謎を解く その109


今回は宮内庁が彦坐王の墓と治定した場所を見に行く予定ですが、まだ別の問題が残っていました。「その105」で以下のように書いた部分です。

方県駅から分岐する飛騨支路のルートと飛騨からの侵入者の問題は後の回で重要になってきますので、頭の片隅にでも留めていただければと思います。

現在は各務郡内の検討に入っているものの、上記のように長良川を渡河する前段階の問題が未着手のままとなっているのです。彦坐王の墓も最重要課題なので、こちらも放置はできません。どちらを先に手を付けるべきか悩ましいところです。そうした場合は両方を同時的に検討するのが最善の解決法ではないでしょうか?

一見無茶な話のようにも見えますが、実は彦坐王の墓は飛騨支路のルートや飛騨からの侵入者の問題と関係しそうにも思えるのです。両方の問題を同時に解決できれば一挙両得となるので、早速彦坐王の(ものとされる)お墓に行ってみましょう。神社に向かって左手に墓へと通じる小道があります。

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随分長い道のりのように感じられます。

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程なくして陵が見えてきました。

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宮内庁の解説板。注意書き程度のものです。

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彦坐王の墓とされる岩。

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もう一枚。

これが本当に崇神天皇の異母弟で、垂仁天皇皇后である日葉酢姫の父にして、景行天皇の外祖父に当たる彦坐王の墓なのでしょうか?彼は丹波や因幡、出雲、近江、美濃、尾張(尾張はまだ書いていませんが…)に遠征した古代の超大物であり、そんな人物の墓にしてはあまりにも粗末すぎます。彦坐王の子・八爪命(神大根王)が被葬者とされる宗慶大塚古墳でさえ全長82mの前方後円墳ですから、最低でも100m超の前方後円墳でなければ筋が通らないのです。

もちろんここが彦坐王の墓と確認できる遺物が出土すれば、認めざるを得ません。前回でアップした伊波乃西神社の由緒には、「明治8年12月に至り、日子坐王陵と確認された」とありましたが、発掘調査でそうした遺物でも出たのでしょうか?多分遺物などなく、墓所の辺りにかつて鎮座していた神社の祭神が彦坐王だったことから、彦坐王の墓に治定されたものと推定されます。

では誰がこの墓に葬られたのか?墓から人物特定可能な遺物が出ていない(と推定される)以上、被葬者が誰かは周辺状況から推理するしかありません。

例えば、彦坐王に近い伊福部氏から探る手もあります。彼らの痕跡が出雲国、因幡国、丹波国、近江国、美濃国などに多いのは、彦坐王に率いられていたからだと思われます。(注:丹波国の伊福部氏系神社に関しては、丹波編で書いたように京都府舞鶴市青井に鎮座する結城神社、兵庫県出石郡出石町中村809に鎮座する伊福部神社、京都府京丹後市久美浜町油池に鎮座する意布伎神社(伊吹神社)などがある)

伊福部氏は彦坐王と密接な関係を持ち、伊福部姓の全国分布は美濃が111人、出雲が36人、因幡が28人で、美濃国が突出して多くなっています。これらの事実に突破口があるかもしれず、じっくり考えていくことにします。

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伊福部氏の分布に関する「高富町市史」の記事。

伊福部氏の分布で疑問に思うのは、出雲や因幡に一定数が存在するのは当然としても、なぜ美濃国にかくも多く集中しているのかという点です。美濃と一口に言っても、その範囲は相当広く、その広い美濃のどこに彼らがいたのかをまず探ってみましょう。

図書館で調べた「高富町史」の備考には、山県郡(山方郡)三井田里が87人と書かれており圧倒的に多くなっていました。一つの里にこれほど伊福部氏が集中しているとすれば、それには必ず何らかの意味や理由があるはずです。では、伊福部氏が集中する三井田里は現在のどこに当たるのか?調べるまでもなく、山県市高富町がかつて山県郡三井田里でした。


高富町の位置を示すグーグル地図画像。

でも、なぜ山県市高富町に異常なほど伊福部氏が集中したのでしょう?答えを得るため「その105」で書いた内容を以下に抜粋します。

彦坐王が東山道の経路を外れたのは飛騨支路の方面に向かうためでした。今回の記事の最初に、「彦坐王の遠征部隊は敵の勢力に対抗する目的で東山道を東に進んだ」と書きましたが、具体性には欠けています。その欠けた部分がここで明らかになります。

そう、彦坐王は飛騨からの侵入者に対抗する目的で東山道の経路を外れ方県津神社方面に向かったのです。この問題は後の回で詳しく検討するとして、東山道に戻ります。

彦坐王が経路を外れた東山道は、正木から鷺山を越え僅かに南下しつつ東に進んでいます。そのルートは現在の78号線にほぼ沿っていると考えられ、鷺山→長良高校→長良雄総となります。

方県駅からは東山道・飛騨支路が分岐していたとされます。この場所からどのように飛騨方面へと進むのか頭をひねりましたが、飛騨支路は方県駅→武儀郡の武儀駅→加茂郡の加茂駅のルートとされています。となると、78号線が南北に走る256号に至ったところで北へ向かうしかありません。そのままどんどん北に進むと山に突き当たって行き止まり状態となるので、どこかで東にルートを変える必要があります。

現在の山県市高富町の辺りを東に折れてそのまま進むと武儀川(長良川の支流)を越えることになります。武儀駅の所在地は不明ですが、川の名前が既に武儀川でありこのまま東に進んだどこか、つまり関市内のどこかに武儀駅があったのでしょう。(注:「七宗町史通史編」には比定地が書かれているようです)

そして加茂駅(現在の川辺町下麻生)から飛騨川(木曽川の上流)に沿って遡れば飛騨に至るのです。飛騨からの侵入者はこの逆を辿って美濃に出ようとしたはずです。方県駅から分岐する飛騨支路のルートと飛騨からの侵入者の問題は後の回で重要になってきますので、頭の片隅にでも留めていただければと思います。

いかがでしょう?彦坐王は飛騨からの侵入者を食い止める防衛拠点を現在の山県市高富町に構築し、そこに軍事氏族でもある伊福部氏を配置したのです。そう考える以外に、巨大鉱山もないこの場所に全国で最も数多くの伊福部氏がいることの説明は付けられません。

美濃国における111人の分布は、三井田里以外に関しても実に興味深いものがあります。最も数の多い伊福部は、本簀郡栗栖太里(1)、山県郡片野郷(2)、山県郡三井田里(87)、加毛郡半布里(6)となっています。本簀郡栗栖太里の比定地は不明ですが、候補として本巣市政田・浅木・国領・温井付近、揖斐郡大野町などが挙げられています。これは正しく彦坐王の移動経路上となり仙道の地名もある場所です。

山県郡片野郷は彦坐王とされる墓のある清水山の北側一帯と推定され、もう一つの飛騨からの進入口に当たります。加毛郡半布里は現在の加茂郡富加町とされ、方県駅→武儀駅→加茂駅と続く飛騨支路において、武儀駅(関市内)と加茂駅(現在の下麻生町)の間に位置しています。

では、三井田里以外に配置された伊福部氏の役割は何でしょう?もうおわかりでしょうが、彼らは敵の侵入をいち早く察知し後方部隊に通報する役割を担っていたのです。三井田里も含めた全体を見ると、明らかに飛騨側からの侵入者を食い止めるための措置・布陣であり、彦坐王の戦略性が見て取れます。

備考にある他の伊福部氏族の分布も見ておきます。伊福部君が味蜂間郷春部里で一人。こちらは大海皇子の湯沐邑であった伊福郷のお隣の春日郷と思われます。伊福部君も山県郡三井田里に多く10人。伊福部君族は山県郡三井田里で二人となっています。

なお、上記の人数は「和名抄」などから引いているようです。「和名抄」の編纂は平安中期の承平年間(931年~ 938年)であることから、この内容をもって4世紀前半と推定される彦坐王の時代を推し量るのは無理だとの考え方もあり得ますが、秦氏などで何度も見てきたように古代における氏族の分布が現代まで地続きになっている例は数多くあり、今回も同様に考えればいいと思います。

仁徳天皇の時代になっても、飛騨国には両面宿儺(りょうめんすくな)と言う怪物がいて、大和王権は彼らに悩まされてきました。両面宿儺は「日本書紀」の仁徳天皇65年条に出てきます。彼は顔が二つある異形の人物で、皇命に従わないため、和珥臣の祖武振熊命に殺されたと書かれています。

武儀郡に当たる関市下之保の大日山日龍峰寺には、飛騨国にいた両面四臂の異人が高沢山の毒龍を退治したとの伝承も残っています。ただ、仁徳天皇の時代は5世紀前葉と推定され、彦坐王の時代からは100年程度下っています。彦坐王の時代に飛騨からの侵略があったことを示す史料がないか探してみましたが、見当たらないようです。これは痛い部分で、飛騨からの侵略は両面宿儺の存在と伊福部氏の配置から逆に推論したものとなります。

飛騨地方最古で全長86.4mの三日町大塚古墳(高山市国府町三日町)は4世紀後半の前方後円墳とされています。(注:3世紀まで遡れるとの説もあるようです)また、国府町名張にある一之宮神社近くの古墳からは、鉄製の舶載キ鳳鏡が出土しています。これらを考え合わせると、飛騨は4世紀後半頃一旦大和王権に服属し、その後両面宿儺の反乱があったことになります。

彦坐王の時代、飛騨からの侵略があったかを史料で確認するのは不可能ですが、両面宿儺の伝説は大和王権を脅かし遂には討伐された飛騨の豪族の存在を暗示しています。崇神天皇の時代も同様に飛騨の在地豪族が相当強力だったと仮定すれば、王権側としては山県市に防御の軍勢を配置せざるを得ず、彦坐王配下の伊福部氏がその役割を担ったことになります。これはあくまで酔石亭主の推論ですが、似たような例は美濃の他の神社にも見られます。

岐阜市茜部本郷2-67-1に鎮座する比奈守(ひなもり)神社の比奈は飛騨や夷(えみし、古代の日本における東方の異民族)を意味しています。大和王権にとって尾張への侵攻に対する防衛拠点が比奈守神社一帯であり、その東を流れる境川が当時の木曽川で美濃と尾張の境となっていました。鎮座地の地理的重要性が見て取れますね。


比奈守神社の鎮座地を示すグーグル地図画像。

彦坐王が現在の山県市高富町に設置したのが美濃への侵略に対する防衛拠点。美濃を抜かれた場合の尾張への侵略に対する防衛拠点が比奈守神社一帯とすれば、筋の通る考え方になりそうです。

以上、彦坐王は飛騨からの侵攻に対する防御拠点を三井田里(山県市高富町)に構築し伊福部氏を配置したと整理した上で、もう一度伊波乃西神社(いわのにしじんじゃ)に立ち返ります。

伊波乃西神社は岩の西神社を意味し「神祇志料」には岩西神と書かれ、鎮座地も岩田ですから岩に関係があります。けれども同社の近くにある岩を彦坐王の墓とした場合、各地に派遣され大活躍した皇族のものとしてはあまりにも小さすぎますし、社名にも疑問があります。この問題を解く鍵はやはり因幡国にありそうで、丹波編において以下の内容を書いています。

『鳥取市岩吉には伊和神社が鎮座しており、祭神は大己貴神で天照太神、素盞嗚尊が合祀されていますが、「神名帳考証」は祭神を彦坐王としています。この地名、神社名、祭神はとても気になります。後で何か関連が出てきそうな気もします…。』

伊和神社の鎮座地は伊福部氏の宇倍神社から千代川を挟んでさほど遠くない距離にあります。因幡国に鎮座する伊和神社祭神は大己貴神で彦坐王の可能性もあります。そして、因幡国の伊福部氏は彼らの系図によると大己貴神を祖神としています。

伊和と岩は同じ音となり、伊和神社の鎮座地は伊福部氏の宇倍神社に近い場所となる。だとすれば、伊波乃西神社(岩の西神社=岩西神社)の近くにある彦坐王の墓の実体は伊福部氏の誰かではないかとも推定されますが、とても断言するには至りません。

次に、伊波乃西神社の社名を考えてみます。伊波乃西の「西」を位置関係と考えた場合、神社の配置は墓所のほぼ南となるため、本来なら伊波乃南神社にすべきものと思われます。この疑問の答えは「各務原市史」を見ても、「西」は位置関係ではなく仏教の西方浄土と同じとの観点で書かれており、はっきりしません。もっと視点を広げてみる必要があるでしょう。

既に書いたように、美濃における伊福部氏は山県郡三井田里が突出して多くなっていました。三井田里は現在の岐阜県山県市高富町に相当し、古代東山道から北へ向かい続いて東に折れる東山道飛騨支路のルート上にあります。

さてそこで、美濃における伊福部氏の密集地帯である三井田里(山県市高富町)付近に何かヒントがないでしょうか?地図を睨めっこしていたら、高富町の東側すぐ近くに山県岩や山県岩西の地名を発見しました。


山県岩西の位置を示すグーグル地図画像。

ここから何が想定されるでしょう?そう、彦坐王のものとされる墓は、山県岩西に配置されていた因幡国系伊福部氏の長が実際の被葬者だったのです。だから伊波乃西神社の神名は岩西神になると推定されます。

このように考えると、伊福部氏が飛騨からの侵攻を防ぐ部隊として山県市高富町一帯に配置され、山県岩西にいた彼らの長が後に伊波乃西神社の鎮座地に埋葬されたことになり筋も通ってきます。また古墳が小さい点も納得できることになります。

他の筋からも探っていきましょう。山県岩西の西側は山県岩となっています。実は美濃国の山県郡には出石郷があり比定地ははっきりしていませんが、岐阜県岐阜市山県岩だとする説があります。出石と言えば、丹波編で既に見てきた出石神社の鎮座する但馬国出石郡出石郷があり、ここには伊福部神社が鎮座しています。詳細は「その62」を参照ください。祭神は素盞嗚尊で、天香山命と伊福部宿袮命を配祀しています。

出石の地名は岡山県にもあります。それが備前国御野郡出石郷で、現在の岡山市北区出石町一帯とされています。実に面白いのは、郡名が御野郡で美濃国に通じる地名である点です。御野郡には伊福郷もあり出石町西側の岡山市北区伊福町一帯が比定地となり、そのすぐ近くの岡山市京山2丁目には尾針神社が鎮座しています。

但馬国における伊福部神社の場合祭神は天香山命で、彦坐王に率いられた大和の伊福部氏が関係しているのでしょう。備前国の尾針神社は天火明命であることから、吉備津彦命に率いられた大和の伊福部氏の関係と思えるものの、地理的な面を考慮すると当初は因幡国系の息吹く民(伊福部氏)の居住地だったところへ、尾張から天火明命を祀る伊福部氏が移住したのかもしれません。色々な可能性がありうまく整理はできませんが、出石の地名と伊福部氏は何らかの繋がりがありそうな雰囲気です。

以上のように各要素を総合すれば、彦坐王の墓の実体は因幡国系伊福部氏の長が埋葬された古墳と考えて間違いなさそうです。では、彦坐王の墓はどこにあるのでしょう?彦坐王の軍勢が美濃・尾張遠征部隊である以上、彼らの終着地点=尾張に墓があるはずで、詳細な検討は彦坐王が尾張に行き着いた後とします。

既に書いたように、長良川を渡った各務郡にも飛騨からの侵入経路が存在します。場所は彦坐王の墓があるとされる清水山の東の狭い平地です。


位置を示すグーグル画像。この一帯から北にかけてが山県郡片野郷とされています。

ここから何が見えてくるでしょう?当初高富町に近い岩西に配置された伊福部氏の長が、上記の侵入口を塞ぐため清水山の山麓に配置換えされ、亡くなってから彦坐王の墓とされる場所に埋葬された、とは考えられないでしょうか?

以上、今回で書いた記事の内容はやや苦しい部分があるものの、彦坐王は飛騨からの侵攻に対する防御拠点を山県郡三井田里(山県市高富町)に構築し、因幡国系の伊福部氏を配置した。彦坐王の墓とされるものの実体は山県岩西に配置された因幡国系伊福部氏のものである、と整理できそうです。

さて、岐阜市に入ってからの彦坐王は、飛騨側からの進入路を塞ぐ目的で移動したように思えてきます。飛騨川の下流は木曽川となります。仮に飛騨からの侵入者が川を下った場合、敵勢力を食い止める場所は愛知県に入った犬山市辺りとなります。従って、各務郡に進軍した彦坐王は清水山から南下して同郡の平野部に入り、そこから東へと進路を取って犬山方面を目指すことになるでしょう。

           尾張氏の謎を解く その110に続く
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