尾張氏の謎を解く その110


前回、両面宿儺に関連して和珥臣が出てきました。実は彦坐王は和珥臣の実質的な祖とも言えそうな存在であり、第9代開化天皇と、和珥臣遠祖の姥津命の妹・姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子となります。

彦坐王の後裔の多くは古代天皇の皇妃となっており、彼の娘・狭穂姫(さほひめ)命は垂仁天皇の皇后。孫の日葉酢媛(ひばすひめ)命が垂仁天皇の後皇后。玄孫の息長帯比賣(おきながたらしひめ、=神功皇后)命は仲哀天皇の皇后となりました。いかに彦坐王が古代の超大物であるか理解されますね。(注:彦坐王=丹波道主命を横に置いて一般的な系譜で記載したものです)

そして両面宿儺を誅したのは前回で登場した和珥臣の祖武振熊命であり、既に書いたように三井田里戸籍には丸部(わにべ)も見られます。両面宿儺と関連する彼の出現にはある種の必然性があったのです。

「神祇志料」に岩西神と書かれる伊波乃西神社の陵墓が超大物・彦坐王の墓としてはあまりにも小さすぎるし、両面宿儺を誅したのは和珥臣の祖武振熊命で、彦坐王との関係も想定されます。よって、飛騨の在地豪族である両面宿儺を誅殺した武振熊命も被葬者候補の一人と言えるかもしれません。

美濃国における和珥氏には和珥部君手(わにべのきみて、生年不明 - 文武天皇元年(697年)9月)がいます。彼も村国男依同様壬申の乱で活躍しました。和珥部君手に関しては以下Wikipediaより引用します。

壬申の乱において、君手は舎人として大海人皇子に仕えたと考えられており、大海人皇子が挙兵を決断したとき、君手は吉野にいた皇子のそばにいた。皇子自身か行動をおこす2日前、6月22日に、和珥部君手は村国男依、身毛広と3人で美濃国に先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨郡(安八郡)の湯沐令多品治に連絡し、まずこの郡を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。

あちらでもこちらでも、時代を越えて密接に関係してきますね。また正倉院にある御野国山方郡三井田里戸籍(大宝2年、702年)には、三井田里戸籍の五百木部君木枝と村国奥連小竜売の婚姻が記載されています。これは三井田里の伊福部氏と各務郡の村国氏の婚姻を意味しています。三井田里戸籍には九種類の部があり、壬生部、秦人部、丸部(わにべ)などが見られます。秦氏は各地で顔を見せているようです。

さて、彦坐王の遠征部隊は伊波乃西神社の前を通り過ぎ、現在の93号線にほぼ沿った形で南下していきます。彼らは東海北陸自動車道を過ぎた辺りで、進路を東に向け進軍を続けたと想定されます。その先には、伊福部氏と関係しそうな蘇原伊吹町の地名が見られるからです。(注:長良雄総の少し先で長良川を渡河し日野に入ったとすれば、その先の各務原市那加柄山町には4世紀後半から5世紀築造の柄山古墳、岐阜市琴塚には景行天皇妃の墓とされる5世紀頃築造の琴塚古墳などがあります)


蘇原伊吹町の位置を示すグーグル地図画像。

蘇原の地名にも何か意味がありそうに思え調べてみると、伊吹町のすぐ近く各務原市蘇原古市場町5丁目1番地に加佐美神社(かさみじんじゃ)が鎮座していました。以下の由緒は神社庁より部分引用します。
http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=780&shrname=%E2%98%85%E5%8A%A0%E4%BD%90%E7%BE%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%98%85

蘇我石川麿公は往古曽原の県主たりし時百姓を撫綏、勧励老少大懷、因而、薨去後神霊、崇敬、し祭祀奉るとあり、「蘇原」の地名は、蘇我氏の領有に由来するといわれており、この蘇原に在住この地域を治めました。後に大和朝廷の財務を握り、帰化人氏族を統治し(境内に阿弥陀堂)また今の西側駐車場に根本寺が有ったように、進んで仏教を取り入れるなど、当時の進歩的派の代表であり、大化改新後右大臣となり大化5(649)年没。墳墓(当神社西に蘇原宮代町二丁目)の丘にあり宮塚と呼ばれています。なお、近くに(清住町)式内社飛鳥田神社(正三位下飛鳥田大神)があり、蘇我氏との深い関係が伺えます。

蘇原の地名は、蘇我倉山田石川麻呂などの蘇我氏が治めていたことに由来し、近くには式内社飛鳥田神社(祭神は飛鳥田大神)も鎮座しているとのことです。これは蘇原飛鳥町の地名と関係しています。各務原における幾つもの地名に古代の匂いが濃厚だと理解されますね。飛鳥田神社の由緒は神社庁より引用します。

各務原市内の式内社の内、最も位の高い正三位の当飛鳥田神社で有ります。蘇原古市場町北山の小山にあり、この山の麓に展開する集落に「飛鳥」の名が今も続いていることや、神社境内から展望される一帯の風景が大和の飛鳥地方の風景に類似していることなど、同じ古市場町に有る加佐美神社の社格が当神社に次いて高く御祭神として祀り、また近くの寺島町に今も礎石を残す山田寺が有り大和朝廷で活躍した蘇我倉山田石川麿公によって創建されたと伝えられていることなどを考えると、この蘇原庄は、大和朝廷の勢力と深いつながりを持ったであろうことが想像されます。

軍勢はさらに南下して各務山(鏡山)の北側か南側を東に向けて進み、遂には美濃と尾張の境となる木曽川に出ます。川を渡れば尾張国の犬山に入るので、彼らの長旅も終着点が近くなってきました。次回も彦坐王の軍勢が移動した各務原市を検討します.。

          尾張氏の謎を解く その111に続く


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