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尾張氏の謎を解く その117

尾張氏の謎を解く
11 /27 2015

彦坐王率いる遠征部隊は尾張神社鎮座地を過ぎてから東へと向きを変え、高座山の山麓付近にまで至りました。高座山麓には尾張氏も関係しそうな五社大明神社が鎮座しており、「熱田神宮の謎を解く その25」にて書いていますので参照ください。

但し、当時の記事は彦坐王の存在など全く念頭になく、内容面に誤りもありそうです。今回は改めて高座山山麓に鎮座する五社大明神社を訪問し、遠征部隊の痕跡があるかどうかを探っていきたいと思います。


五社大明神社の位置を示すグーグル画像。鎮座地は愛知県春日井市高座町1939

高座町の地名やお寺の高蔵寺、高蔵寺の名前が入った多数の施設が、この地域における高座山の重要性を明確に示しています。拡大地図表示をクリックしていただき高座山と一帯の全体像を確認ください。

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鳥居と社号標。

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境内。 静かで清々しい雰囲気に満ちた神域です。

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拝殿。

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本殿。

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同社の祭神を刻んだ石板。

祭神は素盞嗚尊、大碓尊、日本武尊、菊理比売姫、天目一個命で、相殿神に大己貴命、高倉地命がいて、周辺各神社の祭神を寄せ集めたような雰囲気です。これでは、どの神が重要なのかよくわかりません。

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由緒を刻んだ解説石板。内容を以下に記載します。

社伝は明らかでないが、祭神が尾張氏の祖神であることより推してその創立の古い事が知られる。創立当初の位置は不明である。明応2年(1493年)再建の棟札があり、大永8年(1528年)今の地に遷宮されたと伝えられるも、いずれの地からか不詳である。さらに承応4年(1655年)にも再建されたという。明治45年(1912年)日吉社さらに大正7年(1918年)に高蔵社及び厳島社が合祀された。昔、熱田神宮の高倉明神を祀っていたので、高倉地と呼ばれた、又熱田高蔵宮であったとも伝えられる。

由緒の最初に祭神が尾張氏の祖神であると書かれています。けれども、各祭神は尾張氏と直接関係なさそうに思えます。さらに上記由緒内容から彦坐王一行の痕跡を探すのは難しそうな気もしてきました。これは困ったことになりそうですが…。

いや、ちょっと待ってください。彦坐王一行が尾張神社鎮座地から東に方向を変え高座山に至ったとの流れからすると、祭神に尾張神社同様天香山命が含まれるべきで、もしそうであれば一定程度の証明にはなるはずです。

そのような視点から祭神の石板を見ると、祭神ではなく相殿神として高倉地命の名がありました。また由緒を刻んだ解説石板には、昔、熱田神宮の高倉明神を祀っていたので高倉地と呼ばれた。とも書かれています。

高倉地命で思い当たる点がありませんか?そう、高倉地命は高倉下命であり、高倉下命は天香山命の別名であることから、彦坐王の遠征部隊は鏡(天香山命)を奉じて高座山まで至ったと確認されます。(注:以降の記事は高倉地命と高倉下命を適宜書き分けます)また天香山命なら、由緒にあるように尾張氏の祖神となります。

次回で検討予定の東谷山山頂に鎮座する尾張戸神社には「祭神のうち天香語山命(高倉下命)は、庄内川対岸の高蔵山に降り立ち、のち東谷山に移った」との伝承もあり、尾張神社→高蔵山(高座山)→尾張戸神社と、天香山命に関連する流れが窺える内容になっています。

高座山の山名自体が高倉下命(天香山命)に由来している以上、高倉地命は大正7年(1918年)に合祀される前の高蔵社で祀られていたと判断されます。その高蔵社は合祀以前どこで祀られていたのでしょう?五社大明神社自体が高座山の山麓に鎮座しているのですから、高蔵社はその社名や天香山命の伝承からしても高座山山頂に鎮座していたと考えるしかなさそうです。これは後ほど山に登って確認してみます。

五社大明神社の位置を示すグーグル地図画像の説明で、「高座町の地名やお寺の高蔵寺、高蔵寺の名前が入った多数の施設が、この地域における高座山の重要性を明確に示しています。」と書きましたが、高座山の山名の深源には高倉下命(高倉地命)すなわち天香山命の存在があったのです。4世紀前半に起きていたことの痕跡が、現代に至るまで地名の中に残されているのですから、これは凄いと思わざるを得ません。

問題は五社大明神社において高倉地命が相殿神の立場で祀られている一方、由緒では「昔、熱田神宮の高倉明神を祀っていたので、高倉地と呼ばれた、又熱田高蔵宮であったとも伝えられる。」とあり、祭神の中心に据えられていることです。それは「祭神が尾張氏の祖神である云々」と書かれた由緒内容からも窺えます。高倉地命が相殿神に過ぎないのに祭神の中心であるとしたら、明らかに矛盾した部分があります。ところで、五社大明神社の敷地内には幾つかの境内社が鎮座しています。

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本殿右側の境内社。

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高蔵社もありました。

相殿は同じ社殿に二柱以上の神を合祀することを意味し、従って相殿神は主祭神と並んで同じ社殿に祀られている神となります。となると、なぜ五社大明神社の境内社として高蔵社が鎮座しているのか意味がわかりません。奇妙に思えますが、多分過去に様々な混乱があったのでしょう。

では、高倉地命が相殿神に過ぎないのに祭神の中心に据えられている矛盾について考えてみます。高座山山麓に鎮座する五社大明神社はその社名から理解できるように、幾つもの神社が合祀され、どの神が主体(主祭神)となるのか判別しにくくなっています。

けれども、高座山の山名、付近一帯には高蔵寺の名の入った施設が多い点、高座山に天香山命(高倉下命)が降り立った伝承がある点などを総合すると、高倉地命を祀る高蔵社がこの地域で最も重要であったのは間違いありません。ところが高蔵社は大正7年(1918年)と言う新しい時代に合祀されたため、主祭神ではなく相殿神として祀られることになったのです。

そうした経緯はあったものの、高倉地命を祀る高蔵社がこの地域で最も重要であった事実に変わりはなく、結果的に矛盾を来すように見えてしまったのでしょう。由緒に書かれた「熱田高蔵宮云々」は後代になって勢力を増した尾張氏が天火明命と天香山命を自分たちの祖神に取り込んだことに起因する内容だと思われます。現時点で考えれば、高蔵社が奥宮、五社大明神社が里宮の関係になりそうです。となると、やはり高座山の山頂付近には高蔵社の痕跡が残っているはず。早速行ってみましょう。

          尾張氏の謎を解く その118に続く
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