尾張氏の謎を解く その119


大和からずっと彦坐王の動きを追ってきましたが、長い旅もようやく終着点に至ったようです。彦坐王の遠征部隊は鏡(天香山命)を奉戴しながら東谷山の山麓までやって来ました。東谷山山頂には尾張戸神社が鎮座しており、主祭神は天火明命、天香語山命、建稲種命で尾張氏の最重要メンバーが揃った形となっています。


尾張戸神社の位置を示すグーグル画像。

尾張戸神社に関しては「熱田神宮の謎を解く その28」、「熱田神宮の謎を解く その29」にて書いていますので参照ください。

同神社に関してWikipediaには以下の記載があります。

祭神のうち天香語山命(高倉下命)は、庄内川対岸の高蔵山に降り立ち、のち東谷山に移ったという。この際に白鹿に乗って渡ったといい、その地に架かる「鹿乗橋」に伝承の名残を残している。

前回でも書いたように、上記の内容は天香山命(鏡)を奉じる彦坐王の遠征部隊がまず高蔵山(高座山)に降り立ち、続いて庄内川を渡河し東谷山に移動したことを意味しています。尾張戸神社に関してWikipediaは以下のようにも書いています。

社伝「東谷大明神草創本基」によると成務天皇5年(135年)、宮簀媛命による勧請と伝わる古社で、尾張国造・尾張氏の祖神を祀ったものである。

さて、Wikipediaより引用した尾張戸神社の二つの記事の間に時間的な断絶がある点を読み取れたでしょうか?具体的には、「祭神のうち天香語山命は高蔵山(高座山)に降り立ち、のち東谷山に移った」の部分と、「宮簀媛命による勧請」と書かれた部分です。どう読んでも、天香山命とその他の神様の鎮座時点は異なると理解されます。天香語山命(高倉下命)は高蔵山(高座山)にまず降り立ち、後に庄内川対岸の東谷山に移って自ら鎮座した形になります。他の祭神は宮簀媛命が勧請したことになりそうです。

彦坐王が活動したのは第10代崇神天皇の時代で、一方、成務天皇は第13代となります。宮簀媛命が本当に成務天皇の時代にいたかどうかは別として、この断絶は、彦坐王率いる遠征部隊が鏡(天香山命)を奉じ尾張に至った時代(4世紀前半)と、後に尾張氏が尾張北部にまで勢力を伸ばし、同地域を支配下に置いた時代(5世紀から6世紀)の差を明確に示していると思われます。尾張戸神社の当初の祭神は、従って、彦坐王に率いられた遠征部隊が奉じる天香山命のみだったのです。

尾張戸神社の場合、祭神に天火明命が加わっているのは、尾張氏が本来自分たちの祖神ではない天火明命を後代になって取り込んだためと推察されます。(注:尾張戸神社を勧請したとされる宮簀媛命は宮主媛であり、尾張氏系図にも現れない単なる氷上姉子神社の巫女と考えられるので、実際には成務天皇よりずっと後の人物と想定されます)

本シリーズの「その1」において以下のように書いています。

尾張国における尾張氏の拠点は尾張南部地域の年魚市潟周辺とされています。ところが、上記の天香山命を祀る神社はいずれも尾張北部地域に集中しているのです。偶然と片付けるには無理があると思えませんか?この矛盾が生じた背後にも考慮すべき事情が秘められているはずで、検討を要する課題となるでしょう。

年魚市潟周辺には熱田神宮や氷上姉子神社(祭神は宮簀媛命)、名古屋市南区本星崎町の星宮社摂社・上知我麻神社(祭神は乎止与命)と下知我麻神社(祭神は真敷刀俾命で宮簀媛命の母)、鳴海神社(主祭神は日本武尊で宮簀媛命、建稲種命を配祀)などが鎮座し、尾張氏の古墳と推定される白鳥古墳、断夫山古墳も存在しています。つまり、年魚市潟周辺には尾張氏の痕跡が濃厚に存在しているのです。

ところが、天香山命を祀る尾張神社や尾張戸神社、東谷山一帯における4世紀の古墳群、犬山市の針綱神社などはいずれも尾張北部地域において集中的に存在していました。同じ尾張氏が祀るはずの神社が尾張国の南北に分断されたような形で存在しているのはなぜかと言うのが「その1」で提起した疑問です。

上記の矛盾が生じた事情はここまでの検討からもう明らかです。彦坐王の遠征部隊が東谷山に至ったのは4世紀前半で、年魚市潟周辺に発祥した尾張氏が勢力を尾張北部にまで伸長させたのは5世紀以降と考えられ、彦坐王の尾張における領域(尾張北部)と尾張氏が発祥した尾張南部の地域差や、彦坐王は4世紀前半で尾張氏は5世紀以降と言う時代差により、尾張の南北が分断されたように見えるのです。これにより当初解けなかった矛盾は解消され答えが完全に出たことになります。また、三角縁神獣鏡の出土が濃尾平野の北部から周縁部に偏っているのも上記の理由によります。

いかがでしょう?天香山命を奉じ彦坐王に率いられた遠征部隊は上記のようなルートを辿り、遂に東谷山山麓に至りました。日本各地を巡り大活躍した彦坐王ですが、彼の人生も東谷山山麓で終焉を迎えることになります。では、崩御された彦坐王はどこに埋葬されたのでしょう?答えは既に書いているのでもうご存知ですね。

彦坐王が眠る場所は、この地において4世紀前半に築造され、古代における超大物に相応しい規模の古墳でなければなりません。そうした前提に立って考えた場合、当て嵌まるのは白鳥塚古墳以外にないのです。白鳥塚古墳に関しては、「熱田神宮の謎を解く その27」にてアップしていますので参照ください。まだ考えが固まっていない時点で書いたこともあり、内容面で不明確かつ曖昧な部分も多々ありますが…。


白鳥塚古墳を示すグーグル画像。

尾張北部を支配下に置いた尾張氏が東谷山山頂に尾張戸神社を創建した理由は明確だと思います。遠征部隊を率いて尾張に入った彦坐王は東谷山山麓の白鳥塚古墳に埋葬され、彼の関係者たちも山頂の尾張戸神社古墳(径27.5mの円墳で4世紀前半の築造)、中社古墳(全長63.5mで4世紀半ば築造の前方後円墳)、南社古墳(径約30mの円墳で4世紀半ばの築造)に埋葬されました。後代の尾張氏はその事実を知ったので、彦坐王たちを見下ろすような東谷山の山頂に神社を建て、自分たちの中に取り込んだ形にしたのです。

尾張戸神社古墳の築造は4世紀前半で白鳥塚古墳と同時期と推定されています。また、南社古墳からは畿内前期古墳の特長を備えた三角形透かし穴のある円筒埴輪の一部、他盾型埴輪が出土し、大和王権との関連が指摘されています。今までの流れからすれば当然の話と理解されますね。

その後の一定期間、東谷山周辺での古墳築造は停止しますが、これは白鳥塚古墳や東谷山の古墳に関係した勢力の衰退によるものと一般的には受け止められています。しかし厳密に言えば、彦坐王一行は外来勢力であり彼らの勢力が衰えたのではなく、彼らが亡くなったことで後に続く者がおらず古墳の築造が停止したことになります。

続いて、彦坐王の墓に比定される白鳥塚古墳の詳細を検討していきましょう。彦坐王の墓に関して「その109」で、伊波乃西神社近くにある墓は粗末すぎて彦坐王のものではない、彼の子供の神大根王でさえ全長82mの前方後円墳なのだから、彦坐王の墓は最低でも100m超の前方後円墳でなければならない、と書いています。白鳥塚古墳の場合、全長115mで愛知県第3位の大型前方後円墳ですから、サイズ面での問題は十分にクリアしています。(注:1位は断夫山古墳で全長151m、2位は青塚古墳で全長123m)

次に古墳の形状から見ていきます。白鳥塚古墳は崇神天皇陵とされる行燈山古墳と古墳の形状などが類似しており、これは既に各研究者により議論され確認されています。また白鳥塚古墳には行燈山古墳と同様に、祭壇と考えられている造出(つくりだし)が存在します。造出に関しては以下Wikipediaより引用します。

大和地域では10期区分の1期~3期の古墳から、墳丘裾周りに方形区画(プレ造出)を設け、後の造出につながるような祭祀を行っていた例がいくつか知られている。奈良県天理市の中山大塚古墳・燈籠山古墳・赤土山古墳では後円部背後に壇状施設が確認され、東殿塚古墳では前方部左(後円部を上にしたときの左)の突出部で祭祀用と思われる土器群が確認されている。また行燈山古墳・渋谷向山古墳では後円部右側くびれ部付近に壇状の地形が実測図から確認でき、四世紀半ばごろまでのプレ造出は設置位置が一定していない。造出は納棺後の祭祀(追善供養)を行うための場であったと考えられている。

以下は名古屋市守山区歴史散歩のホームページより引用しました。大変詳しくて参考になります。

大阪府柏原市、玉手山古墳群(古墳時代前期の古墳群)の全長110m玉手山7号墳と酷似し、また奈良県天理市柳本町、全長242m行燈山(あんどんやま)古墳(伝崇神天皇陵)に周濠部に二ヶ所の陸橋を持つなど縮尺は異なるものの類似しており、埴輪を持たない畿内的特徴を持つこの地方では最古級4世紀前半の前方後円墳であり大和王権との何らかの繋がり、また尾張南部の首長的人物が被葬者ではないかと思われます。また後円部北西、前方部先端北、前方部先端中央の三カ所に突出部(造出し)が見られ、後円部三段、前方部二段築造と判明。

名古屋市守山区歴史散歩のホームページ
http://www.geocities.jp/moriyamamyhometown/moris10-01.htm

古墳の形状が崇神天皇の行燈山古墳に類似しているということは、白鳥塚古墳の被葬者が崇神天皇に近い人物であることを意味します。(注:幕末以前、行燈山古墳は景行天皇陵とされていた)


行燈山古墳を示すグーグル画像。白鳥塚古墳の倍以上あり、さすがにでかい。

彦坐王は崇神天皇の異母弟で、皇族の一人であり、天皇の勅命により派遣された四道将軍の一人丹波道主命でもあります。これほど崇神天皇に近い人物で、しかも尾張の大型古墳に埋葬されている人物は彦坐王以外にないと考えられます。

白鳥塚古墳の被葬者が大和の武人だとの説は既に研究者により唱えられていますが、彦坐王の墓とする説は多分酔石亭主が初めて提起するものだと思います。そうした視点からさらに研究が進むと有り難いのですが……。

でも、日本武尊に関係しそうな名前を持つ白鳥塚古墳の被葬者がなぜ彦坐王になるのでしょう?この問題を別の視点から見ていきます。彦坐王は息長氏と関連しますが、実は日本武尊も息長氏と関連してくるのです。「古事記」における彦坐王関連の系図では、息長水依比売・息長宿禰王・息長帯比売(=神功皇后)・息長日子王が登場します。倭建命(日本武尊)を祖とする系図には息長田別王、息長真若中比売(応神天皇妃)などが出てきます。

古代史における二人の超大物が2系統の息長氏の祖となっているのはなぜでしょう?既にご存知のように、日本武尊は大和王権が各地に派遣した複数の武人の姿を一人に纏めたものとされています。その中で日本武尊に投影された主要な一人が彦坐王だったとは考えられないでしょうか?

このため、本来一人の人物(彦坐王)の子孫である息長氏を彦坐王と日本武尊の子孫に分割せざるを得なくなったのではと推測されます。「日本書紀」が彦坐王に関して隠すような姿勢を見せているのは、そうした事情が背後にあると思われるのですが……。 幕末以前に行燈山古墳が景行天皇の陵墓とされていたのも、上記の錯綜した状況を考慮すればあり得る話と思えてきます。

白鳥塚古墳は尾張における最古級の前方後円墳であり、これ以降尾張の大地に次々と大型の前方後円墳が築造され始めました。彦坐王の尾張に対する影響がいかに大きいか理解されますね。そして5世紀の終わりから6世紀初頭にかけて東海地方最大の前方後円墳・断夫山古墳が伊勢湾を望む熱田台地上に築造されていきます。尾張氏はこの時代に大和王権と緊密な関係を構築したのです。断夫山古墳に関しては「熱田神宮の謎を解く その15」で既に書いていますので参照ください。

断夫山古墳についてWikipediaには以下のように書かれています。

5-6世紀に周辺の海人(当時、伊勢湾は現在より北まで入り込んでいた)に影響力を持っていた尾張氏の首長墓と考えられている。特に、娘である目子媛(めのこひめ)をオホド王(後の継体天皇)に嫁がせた事で天皇の外戚となった尾張連草香(おわりのむらじくさか)が有力視されている。

東谷山に鎮座する尾張戸神社はWikipediaによれば、かつては熱田神宮に次ぐ大社であったともいわれる、とのことです。これが事実だとすれば、尾張戸神社が尾張氏にとって熱田神宮に次ぐ重要性があったことを意味します。

ではなぜそれほど重要だったのか?理由はもうご理解いただけますね。彦坐王と遠征部隊の主力である伊福部氏は、鏡(天火明命、天香山命)を奉じながら大和を出て美濃・尾張にやって来ます。後代の尾張氏は、尾張北部に定着した伊福部氏から彦坐王と鏡(天火明命、天香山命)のストーリーを聞き出し、朝廷の許可を得て自分たちの祖神に取り込みました。

こうした経緯から、彦坐王一行の墳墓の地・東谷山一帯は、尾張氏にとって自分たちの存在の根源に関わる重要な聖地になったのです。そこに熱田神宮に次ぐ大社が建てられたのは至極当然の話と言えるでしょう。

鏡(天火明命、天香山命)を奉じながら大和を出て近江・美濃と移動し尾張に入った彦坐王と伊福部氏の行動は、後になって天火明命や天香山命が尾張に来た話に転化されていきます。尾張氏は天火明命と天香山命を鏡ではなく自分たちの祖神に位置付けたのですから、そうなるのは火を見るよりも明らかです。

その結果、「神社明細帳」では天香山命は葛城国高尾張邑にいたが、東北の地(当国尾張国)に遷って開拓し建国の基礎を固めた、「真清深桃集」では天火明命が大和国葛城山麓「高尾張邑」をご出発され、神武天皇33年3月3日、尾張国の当地に鎮まった、と言った記述が出現することになったのです。

一方現代の私たちは、神様が自分で移動するなどあり得ないと理解しています。そこで、天火明命と天香山命が大和から尾張に来たと言う話に論理的な筋道を付ける必要性に迫られます。真っ先に思い浮かぶのは、遠い昔誰かが両神を奉戴して尾張に移住したことが神様の話に転化したと言う流れでしょう。その誰かとは、当然のことながら尾張氏以外にありません。では、尾張氏の誰が尾張に来たのかが次の問題点となります。この問題も以下のように考えれば比較的簡単に解けてきます。

乎止与命が前世代と接続していない点や初代尾張国造である点、初期尾張氏は葛城(葛木)の名前を冠した女性を妻にしている点などを考慮に入れ、尾張氏は乎止与命の時代に天火明命と天香山命を奉戴して大和葛城から尾張に移住し初代国造になったとの論を提示すれば、筋の通った説明のように見えてきませんか?このようにして、尾張氏が乎止与命の時代に大和から尾張に入ったとする説が出現し、今でもそうした意見が数多く見られるのです。

以上、間違った説がどのような経緯で発生したのかを論証してみましたが、上記のように整理すれば、尾張氏高尾張邑発祥説が間違いであると確認されるはずです。

話は変わります。「その104」で彦坐王の遠征部隊は長良志段見(ながらしだみ)付近で長良川を渡河したが、地名がかなり気になると書きました。気になる理由は白鳥塚古墳一帯の地名にあります。驚いたことに古墳一帯の地名は上志段味(かみしだみ)となっているのです。

一般的に、志段味(しだみ)の地名は東谷山の峰からしたたる水が幅広く溜まるところ、に由来しているそうです。確かに志段味は東谷山からの水が溜まりそうな地形となっていますが、長良志段見は扇状地のような地形で水が溜まるとは思えません。何か別の意味がありそうな気がします。

例えば、楢のどんぐりは飛騨や東北地方では「しだみ」と呼ばれ、古代人も食用にしてきたはずです。この場合の「しだみ」はまずい味=下味に由来しています。これは想像の域を出ませんが、山県郡で飛騨からの侵略者と接触のあった彦坐王の遠征部隊は、その名前を取り入れて長良川の近くの地名とし、同じ地名を東谷山麓に持ち込んだのではないでしょうか?

想像の部分はともかくとして、以上で不破の地峡帯から東に向かった彦坐王率いる遠征部隊の足取りを何とか辿れたようです。それにしても、彦坐王(=丹波道主命)は実に深く尾張氏の謎に関与していますね。彦坐王以外の四道将軍に吉備津彦命がいて、彼も尾張氏の謎に関係していました。四道将軍のうち二人までも尾張氏の謎に関係があったのです。

いや、他にも忘れてはならない将軍がもう一人いました。そう、大彦命です。彼は葛木坐火雷神社の解説板の中で出ています。「崇神天皇ノ御代ノ十年建埴安彦兵ヲ挙ゲテ帝都ヲ襲ハントス仍テ大彦命ハ笛吹連櫂子等ヲ率ヒ奈良山ニ於テ安彦ニ軍ト戦ヒテ和韓川ノ南ニ於テ櫂子ノ射放チタル矢ハ安彦ノ胸ヲ射貫キ之ヲ斃ス故ニ賊軍降テ平定ス依テ櫂子ノ戦功ヲ賞シテ天磐笛及笛吹連姓ヲ給フ」の部分ですね。

崇神天皇の十年に建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃しようとしたので、笛吹連櫂子を率いた大彦命は奈良山で安彦の軍と戦い、和韓川の南において櫂子の放った矢が安彦の胸を貫いた。云々とあります。なお建埴安彦の妻吾田姫は忍坂から都に攻め入ろうとしたので五十挟芹彦命を遣わしてこれを討伐しています。五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)は吉備津彦命の別名となります。櫂子を「かこ」と読めば船頭のことになり、「かじこ」と読めば鍛冶の子とも思える名前です。

大彦命は伊賀国一宮の敢国神社に祀られていますが、何とここには南宮大社より勧請された金山比咩命が祀られています。詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。

当社略記によれば斉明天皇4年(658年)の創建である。本来当地には秦氏が居住して少彦名命を祀り、一方で、大彦命の子孫の阿拝氏は祖神として大彦命を祀った。当初は、当社南方の山(現・南宮山)の山頂附近で祀られたが、後に現在地(同山の山麓)に移された。その後、山頂附近の社殿跡には美濃国一宮・南宮大社より勧請された金山比咩命が祀られたため、その山が「南宮山」と呼ばれた。貞元2年(977年)、金山比咩命の社殿の前の神木に虫食いの痕が「敢國神社と一緒に祀れ」という言葉になって現れたため、神意に従って金山比咩命を敢國神社に合祀したと伝わる。

四道将軍の残る一人は武渟川別(たけぬなかわわけ)で彼は大彦命の子となります。派遣されたのは「古事記」によれば東の方12道となっており、尾張や三河も含まれています。ただ、尾張・三河において彼の活動記録はありません。いずれにしても四道将軍たちは全てが尾張氏や尾張に関連して姿を現わしているのが不思議です。

あれこれ検討してきましたが、彦坐王率いる遠征部隊の検討は以上です。尾張氏高尾張邑発祥説が出てきた背景、大和から彦坐王に率いられ近江、美濃を経由して尾張に入った伊福部氏の行動が、尾張氏が高尾張邑から尾張に来たと誤認されるに至った経緯、尾張氏の祖神は伊福部氏が奉戴していた天火明命と天香山命(どちらも鏡)を尾張氏が取り込んだものである点もこれまでの検証で明らかとなりました。よって尾張氏高尾張邑発祥説は間違いであると確認されます。

ただ、長きに亘って書き続けてきた彦坐王も、その名前は「男にいます王(男王)」であり、この人物の実体を具体的に示すものではありません。また別名の丹波道主命も「丹波道を支配する王」であり、こちらもその実体は不明のままとなっています。崇神天皇の異母弟であり日本各地に遠征して大和王権の威を示した彦坐王ですが、その実体は依然として闇に包まれたままなのです。

いつか彦坐王の実体に光が当たることを期待しつつ、次回からは遠征部隊が二手に分かれた東山道・大野駅(現在の岐阜県揖斐郡大野町郡家)付近にまで場所を戻して、倭姫命を警護しながら一宮方面へと向かった伊福部氏の動きを探っていきます。またこれらの探索から、大和の葛城山麓(高尾張邑)から尾張に移住したのは、尾張氏ではなく伊福部氏であった点をより詳しく検証する予定です。

           尾張氏の謎を解く その120に続く
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