尾張氏の謎を解く その125


今回は伊富利部神社を見に行きます。同社の鎮座地は愛知県一宮市木曽川町門間北屋敷3714。祭神は若都保命で、誉田別命が合祀されています。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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石の鳥居。

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赤い鳥居の手前に石と木製の燈籠が交互に並び、鮮やかな赤色が目を引きます。

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鳥居と社名を刻んだ社号標。

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神門。神門も鮮やかな赤色で、独特の雰囲気を醸し出しています。

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拝殿。

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横側から撮影。

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解説石板。

伊冨利部神社は伊福部氏の祖神若都保命を祀る。命は天孫瓊々杵尊の御兄神天火明命の裔弟彦命の御弟神に座します。云々とあります。これだけでは不十分なので別の資料をチェックします。Wikipediaには以下のような記述がありました。

伊冨利部氏(伊福部氏)に関わる神社である。一説によると、伊冨利部氏は大和国葛城山より尾張国のこの地域に移り住み、祖先を祀ったという。672年の壬申の乱では尾張国の伊冨利部氏は大海人皇子に協力していることから、伊富利部神社はそれ以前と推測される。

この記述で赤字にした部分はかなり重要な問題を孕んでいます。伊福部氏が葛城山から尾張に移り住んだとすれば、移住前の居住地は高尾張邑以外にありません。高尾張邑には葛木坐火雷神社が鎮座し、これは笛吹神社に火雷社が合祀されたものと考えられています。そして笛吹連の笛吹は伊福部氏に関連する職掌ともされています。やはり葛木坐火雷神社(笛吹神社)は大和岩雄氏が書かれたように伊福部氏の関係する神社だったのでしょうか?この問題は「その21」で以下のように書いています。

上記に関して大和岩雄氏の「神社と古代民間祭祀」(白水社)には、「大海氏と伊福部氏は大和の葛城の忍海で葛木坐火雷神社を祀っていた(くわしくは拙著『天武天皇論(一)』参照)」と記載されていました。

「その21」ではより詳しく論考していますので是非ご参照ください。さて、同社の主祭神は火雷大神と天香山命で、天香山命は伊福部氏に関係しますが、火雷大神はどう考えればいいのでしょう?火雷大神は天香山命の父となる天火明命に比定できるかもしれません。なぜなら雷神は伊福部氏との関連も想定され、「その21」で書いたように「常陸風土記逸文」には伊福部の神が雷神として描かれているからです。

葛木坐火雷神社の背後にはやはり伊福部氏の存在があったのです。そして彼らの祖神は天火明命ですから、火雷大神=天火明命と考えてもそれほど違和感はありません。

葛木坐火雷神社は伊福部氏と関係するとの前提で次の議論に進みます。Wiki に書かれた「伊福部氏が大和国葛城山より尾張のこの地域に移り住んだ」との説は極めて重要な部分であり、その真偽や出典を確認する必要があります。と言うことで、一宮市中央図書館で「伊冨利部神社由緒」をチェックしたところ、Wikiよりも詳しく書かれていました。内容は以下の通りです。

伊冨利部の御社は、伊福部(いほりべ)と読み上古伊福部の連は天孫瓊々杵之尊の御子なる天火明命九世の御孫、弟彦之命の御弟公、若都保命(わかつほのみこと)を御祖とす。天火明命は鏡を作る技術を持ち、若都保命は金属製錬の技をつたうると、伊冨利部の連は大和葛城山麓より尾はり田の国に国郡の主として、このあたり土器野なる地に居住し、其の祖を祭り業を行へり。時代は弥生後期古墳前期頃と学者の指摘する所なり。また、天武天皇13年(685)伊福部氏に宿祢の称を給いしは、すぐる壬申の乱に村国男依と共に美濃尾張二万の軍勢を中心として活躍せし功績によるものか。また桓武天皇延暦12年(793)平安京新都御造営には大内裏12門の内殷富(いんぷ)門、美濃、尾張之伊福部氏之造と続日本記、日本記略等古書にも見えたり。かくしてその祖を祀り伊冨利部天神と申しこの地方に栄えしなり。

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伊冨利部神社由緒の記事。画像サイズを大きくしています。

赤字部分を参照ください。ここでも天火明命は鏡と関連付けられています。天火明命=鏡はもはや否定できそうにないと思われます。

次の赤字部分は酔石亭主の視点を裏付けるものとなっています。「伊冨利部の連は大和葛城山麓より尾はり田の国に国郡の主として、このあたり土器野なる地に居住し、」の部分ですね。この記述から、かつての大和国高尾張邑から尾張に移住したのは尾張氏ではなく伊福部氏だった、と確認されます。大和から近江、美濃、尾張へと続く経路上に伊福部氏の痕跡は多数ありましたが、尾張氏の痕跡が何もないのはその証明の一つになるでしょう。

尾張南部を拠点としていた尾張氏が5世紀以降勢力を尾張北部に伸ばし、彦坐王や伊福部氏の存在と彼らが奉戴した鏡(天火明命)について知り、自分たちの中に取り込んで祖神を天火明命としました。これは朝廷の許可を得た上での話であるのは言うまでもありません。その間の事情は既に詳しく書いていますが、読み返してみるとやや不明瞭な部分もあるので、天皇家と尾張氏の系図捏造、葛城族の問題などをもう一度整理し以下に赤字で纏めてみました。

もうご存知のように乎止与命以前の尾張氏系図は、彼らが葛城(高尾張邑)にいて葛城族や初期天皇家と密接な関係があるように見せかけるため捏造されたものです。しかし、天皇家が尾張氏の勝手な系図捏造を許すはずがありません。許可されるはずのないものが堂々と書かれているなら、それは天皇家から認められた、或いはそうするように強いられたと考えるしかなく、その背後には天皇家自体に初期部分の系図を捏造する意図があったのです。

では、どんな意図が天皇家にあったのか?大和の葛城地方には天皇家以前に葛城族の小国家がありました。後代の天皇家は記紀を編纂する際(或いはそれ以前の帝紀・旧辞作成の際)、葛城族の宮殿や陵墓があった地を初期天皇の宮殿・陵墓に充てました。その結果、葛城族の主要エリア一帯に初期天皇の宮殿や陵が密集する形となったのです。

具体的に見ると、第二代綏靖天皇の宮殿は高丘宮で一言主神社の近くに位置することになりました。第三代安寧天皇の宮殿は大和高田市三倉堂・片塩町でかつては葛下郡(かつらぎのしものごおり)に属しています。(注:橿原市四条町との説もあり)第五代孝昭天皇の宮殿は御所市池之内で、陵も御所駅南と忍海に近い場所となっています。第六代孝安天皇の宮殿は御所市室で、陵は孝昭天皇陵の東に位置しています。神武天皇の宮殿と陵は橿原ですが、これを御所市柏原と考えれば、綏靖天皇陵や第四代懿徳天皇、第八代孝元天皇の宮殿、陵も柏原となります。

以上、天皇家は葛城族の存在を奪い取った形で初期天皇の系図に組み入れ、捏造したことになります。けれども当時、葛城地方に葛城族の小国家があった記憶が人々の中にまだ残っていたはずです。葛城族は崇神天皇期に一旦滅ぼされたものの、その後葛城襲津彦の時代に復活し雄略天皇の御代まで天皇家と肩を並べる存在だったからです。

本来は葛城族のものを天皇家が取り込んだのですから、葛城山麓においてそれ以外は何もない形にせざるを得ず、一帯は土蜘蛛(=葛城族)がいて神武天皇の軍勢に殺されたと言う形で貶めたものと思われます。でも、それだけではあまりにも見え見えです。天皇家が見え透いた捏造に手を染めたとの批判を避け、系図をよりもっともらしく見せかけるため、彼らはさらなる一手を打つ必要がありました。

かつて葛城族の小国家が存在していた記憶を完全に消し去れないなら、葛城族の実在を認めつつも天皇家より格下に見せかけるしかありません。そこで朝廷は当時の有力豪族・尾張氏に目を付けます。朝廷は尾張氏に、葛城族が尾張氏と婚姻関係にあるような系図を捏造させたのです。

尾張氏の系図を見ると、初期の5人の尾張氏系人物が葛木姓(葛城姓)の女性と通婚しています。具体的には、天忍人命は角屋姫(葛木出石姫)、天忍男命は賀奈良知姫(葛木の国津神・剣根命の娘、剣根命は「日本書紀」によると神武天皇の時代に葛城国造となった)、天戸目命は葛木避姫、建額赤命は葛城尾治置姫、建諸隅命は諸見己姫(葛木直の祖・大諸見足尼の娘)を妻としています。

もちろん天皇家も尾張氏に対する見返りを用意しました。それは尾張氏を天皇家の系図に部分的に組み込むことでした。尾張連の祖の瀛津世襲(おきつよそ)命は別名葛木彦命で、別名から見ると「葛城の男」となってしまい、尾張氏と葛城族が融合したような名前です。(注:瀛津世襲の名前を分解すると、瀛津からは宗像海人系の匂いが漂い、それを世襲したのが尾張氏なのかもしれませんね)

そして彼の妹の世襲足媛(よそたらしひめ)命は考昭天皇の妃となり、考安天皇の母になっています。また、第10代崇神天皇の皇妃は尾張連の祖・尾張大海媛 (おわりおおしあまひめ、別名葛木高名姫命)となっています。では、これで尾張氏は満足したのでしょうか?

尾張北部にまで勢力を伸ばした尾張氏は、彦坐王と伊福部氏の遠征部隊が鏡(天火明命と天香山命)を奉戴して尾張に入ったことを知っていました。天皇家の系図捏造に加担した見返りとして、尾張氏は天照大神の御魂である天火明命と御子・天香山命を尾張氏の祖神とすることを願い出たものと推定されます。尾張氏を天皇家の系図にも組み込んだ以上、この要望はさほど抵抗なく許可されたのではないでしょうか?

このような経緯により天火明命と御子・天香山命を祖神として、天皇家と葛城族に婚姻関係を持つ尾張氏の初期系図捏造が完了したのです。事実上の尾張氏初代は乎止与命で、それ以降の系図は信憑性が高く、一方乎止与命以前の系図は乎止与命と接続せず捏造ではないかとの説は既にあります。しかしその根拠までは提示されず、単に乎止与命とそれ以前が接続していない点を理由にしています。けれども酔石亭主の視点を導入することで、乎止与命以前と以後が接続していない謎も解明できるのです。

以上の策により朝廷は、葛城族の存在を認めつつも尾張氏と繋げることで天皇家より格下に置くことができました。このようにして天皇家は、葛城族の宮殿・陵墓を自分たちの祖先のものとして初期系図の中に取り込み、さらにその事実を闇の中に葬り去ったのです。

ここに天皇家と尾張氏の系図捏造は完璧なものとなりました。でも、まだ不十分な点が残ります。初期の捏造系図からすると尾張氏の本拠地は葛城邑となるはずです。ところがその痕跡は葛城地方のどこにもなく、あまりにも不自然な形となっています。そこで、尾張氏は葛城にいたと見せかける工作が必要となってきます。

このため、「日本書紀」の神武天皇期において、高尾張邑の土蜘蛛を葛の網で殺したので葛城邑と号した、との記事を登場させ捏造地名である高尾張邑を出現させました。しかし高尾張邑は本来の地名ではないため、出現と同時に消し去ったのです。これは葛城族を土蜘蛛と貶めるだけでなく、尾張氏が葛城邑に存在しているかのように見せかける実に実に巧妙なやり方だと思います。その巧妙さによって、尾張氏は高尾張邑に発祥し、乎止与命の時代になって尾張に移動したなどと言う説が現代に至っても残る結果となりました。

伊福部氏は自分たちが大和の高尾張邑から尾張に入った事実だけでなく、奉戴していた天火明命、天香山命をも尾張氏に奪われる形となりましたが、当時は尾張氏に従属する立場となっていたことから、尾張氏同祖として朝廷に申告するしかありませんでした。ちょっと悲しさが漂いますね。

結局、天火明命を祖神とする尾張氏の発祥地は大和高尾張邑で、乎止与命の時代に大和から尾張に移住したとの説は、以下の要素が組み合わさって形成されたと理解されます。

1 尾張氏が天皇家による葛城族の宮殿・陵墓取り込みと系図捏造に協力し、地名及び系図上で高尾張邑に存在しているように見せかけたこと。
2 彦坐王に率いられた伊福部氏は鏡(天火明命、天香山命)を奉じて大和高尾張邑から尾張に入ったが、自分たちの奉戴していた神を尾張氏に奪われた形となり、加えて大和から尾張への移動も、結果的に尾張氏のものと誤認されてしまったこと。

上記は現段階における纏めとご理解いただいた上で、話を由緒に戻します。由緒の記事に、伊福部氏が尾張に移動したのは弥生後期古墳前期頃と記載あります。弥生時代後期は100年から200年頃で、古墳前期は4世紀頃ですから期間が長すぎて明確ではありません。彦坐王の移動と絡め、伊福部氏が尾張に移動したのは古墳時代前期の4世紀前半としておきましょう。但し、伊富利部神社古墳、宇夫須那神社古墳、富塚古墳など周辺一帯の古墳は古墳時代後期から終末期の築造とされ、伊富利部神社の創建自体は同時期とも考えられます。

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境内の古墳。

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解説板。

表記は伊冨利部古墳で読み方は「いぶりべ」となっています。

彼らは平安京造営時にも貢献したようで、大内裏12門の内殷富門(いんぷもん)を美濃と尾張の伊福部氏が造ったとのことです。殷は栄えて豊かなことを意味し、富はこの場合伊福部氏を意味すると推定されることから、伊福部氏が富栄える門と言うことになりそうです。

伊福部氏は以上のような動きの中で、現在の一宮市に到達し、尾張北部に定着したものと思われます。真清田神社に伊福部氏や金山彦の姿は見られないものの、社名の真清が曇りのない鏡を意味するのは、彼らの影響があるからに他ならないと思われます。

地図を調べたところ伊富利部神社周辺には、一宮市浅井町江森金糞、一宮市木曽川町門間金屎、一宮市木曽川町門間金塚など金属精錬に関係する地名が多くありました。金屎とは鉱石を精錬する時に出る滓。鉱滓。鉄を焼いて打ち鍛える時に飛び落ちる滓を意味します。一宮市内に鉱石を産出する山などないので、この地の伊福部氏は金属精錬を職掌にしていないと思っていましたが、それは大きな間違いでした。鉱石は多分美濃赤坂金生山やその他の鉱山から送られてきたのでしょう。

同社一帯は平安時代、上門間荘(かみかどまのしょう)と呼ばれていました。門間(かどま)は神社の門前の土地を意味しています。「 古代尾張氏の足跡と尾張国の式内社」によれば、大阪府門真市(かどまし)の門真は当地から移った社が地名になったとしていますが、本当なのでしょうか?

かつての伊富利部神社は広大な敷地を有し、解説石板にも「周囲一里に達する神域なりと言伝えらる。」と記載あります。記載内容からすると、一帯は尾張における伊福部氏最大の拠点だった可能性が高そうです。伊福部氏の職掌は既に見てきたように幾つかありますが、彼らの動き方や伊吹山周辺の地名、伊富利部神社周辺の地名から、美濃・尾張の伊福部氏は金属精錬系の職掌名に関連する部が主要メンバーと見てほぼ間違いなさそうです。

さて、伊富利部神社が尾張における伊福部氏の最重要拠点だったとすれば、地名以外にも伊福部氏に関係する痕跡があるように思えます。周辺には伊福部氏を連想させない社名の神社も幾つかありますが、それらの中に伊福部氏の痕跡がないかチェックしてみましょう。もしかしたら、金属精錬系以外の職掌を示す痕跡などが見つかるかもしれません。

           尾張氏の謎を解く その126に続く
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