尾張氏の謎を解く その126


今回は伊富利部神社の周辺で伊福部氏の痕跡を探します。地図上で少し調べたところ、伊富利部神社から1.5㎞ほど東の愛知県一宮市島村上深田 84には宇夫須那神社(うぶすなじんじゃ)が鎮座していました。社名は別として、同社は伊福部氏との関係がありそうです。


位置を示すグーグル地図画像。

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神社の鳥居と社名を刻んだ石柱。

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拝殿。

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本殿。

由緒は不明ですが、祭神は余曽多本比売命(よそたおびめのみこと)とも五百木之入日売(いおきのいりひめ)ともされています。余曽多本比売命とは誰でしょう?

葛城の掖上宮にて天下を治めた孝昭天皇は、尾張氏の奥津余曾(おきつよそ、瀛津世襲命)の妹である余曽多本比売命(世襲足媛命)を娶り、お生みになった御子が天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)、次に大倭帯日子国押人命(おほやまとたらしひこくにおしひとのみこと)となります。ここから余曽多本比売命は尾張氏の女と理解されます。宇夫須那神社は尾張国の神社ですから尾張氏に関係付けられたのでしょうか?けれども、社名の宇夫須那には何か意味がありそうです。

と言うことで「尾張国風土記逸文」(平凡社)を開いてみると、宇夫須那の社の項がありました。そこには、「尾州葉栗郡、若栗の郷に宇夫須那の社という社がある。廬入姫(景行天皇皇女)の誕生した産屋(うぶや)の地である。それ故に社に名づける」とありました。

「尾張国風土記逸文」によればこの地は廬入姫(いおきのいりひめ)の生誕地となります。廬入姫は「古事記」では五百木之入日売(いおきのいりひめ)と表記され、景行天皇と八坂之入日売命の子となります。兄五百木之入日子は建稲種命の女志理都紀斗売(しりつきとめ)を娶ったとされます。

さてそこで、五百木部(いおきべ、いほきべ)は伊福部であり、既に書いたように伊福部氏は景行天皇の皇子五百木之入日子の名代との説があります。名代に関しては以下Wikipediaより引用します。

名代(なしろ)は、古墳時代の部民制における集団のひとつ。一定の役割をもってヤマト 王権に奉仕することを義務づけられた大王直属の集団である。大王および大王一族の私有民であるという説とヤマト王権に属する官有民であるという説があるが、いっぽうでは公私の区別はまだ明らかではなかったという見解もある。名代には在地首長の子弟がなる。子弟たちはある期間都に出仕して、大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシワデ)にあたった。

谷川健一氏は伊福部氏が景行天皇の皇子五百木之入日子の名代であったとの説には否定的です。確かに景行天皇の時代にこうした部民制度があったとは考えられません。けれども、部民制成立後の大和朝廷において伊福部氏が名代的な役割を担っていた可能性はありそうです。

以上の流れや、宇夫須那神社の鎮座地が伊富利部神社から近い点(古代においては伊富利部神社神域内の可能性もあります)を踏まえると、宇夫須那神社は伊福部氏に関連した神社であると理解され、五百木部が伊福部である点も確認されます。昭和55年に宇夫須那神社境内で古墳後期の鉄製直刀片2が出土したとのことで、鍛冶族としての伊福部氏の片鱗も窺えます。

よって伊富利部神社一帯は、伊福部氏本来の職掌である製鉄・鍛冶のみならず、名代的な役割まで確認できる稀有の場所であったことになります。

五百木之入日子が景行天皇の皇子かどうか、五百木之入日売が景行天皇の皇女かどうかは何とも言い難いものがあります。けれども、五百木之入日子の五百木は伊福部氏と関係する名前で、伊福部氏が五百木之入日子の名代的な役割を持つと推定され、さらに建稲種命の女志理都紀斗売を娶っていることから伊福部氏や尾張氏との関係が見て取れます。

五百木之入日売に関しても、伊福部氏の支配地域内に鎮座する宇夫須那神社祭神は尾張氏系の余曽多本比売命とも五百木之入日売とも言われていることから、伊福部氏や尾張氏との関係が見て取れます。逆の面から見れば、伊福部氏は直接皇族の女性に接することのできる一族だったとも言えるのです。それを裏付ける別の話もあります。

雄略天皇の皇女に栲幡皇女(たくはたのひめみこ)がいました。「日本書紀」の雄略天皇3年夏4月の条に概略以下のような記述があります。

阿閉臣国見(あへのおみくにみ)が、栲幡皇女と湯人(ゆえ、=湯坐)の廬城部連武彦(いおきべのむらじたけひこ)を讒言して、「武彦が皇女を汚し妊娠させた」と言った。武彦の父はそれを聞いて武彦を打ち殺した。天皇の使者から詰問された皇女は「知らない」と答え、神鏡を持って失踪し、五十鈴川のほとりで自らの命を絶った。

ちょっと悲しいお話のようですが、阿閉氏は大彦命の子孫とされ、外交や供膳など天皇に近い場所での職掌を持っています。一方伊福部氏には、火吹部として天皇や皇族のお食事を煮炊きに従事する一族との説がありました。少なくとも後代の伊福部氏に関しては、この説が正しいことになります。

また、阿閉氏と伊福部氏の間では職掌が重複していたと考えられます。阿閉氏が自分たちの職掌を侵されないようにするため、伊福部氏を讒言により蹴落とそうとしたのが上記の話となったのでしょう。

湯坐について谷川健一氏は、「後世に貴人の赤ん坊を入浴させる役目をもつ婦人と解せられるようになったのは、伊福部氏が鍛冶を職業として、火を扱っていたことから、貴人の子どもが銅や鉄のようにつよく育つことの願いをこめたのではないか」と書いています。この視点からも、伊福部氏は皇女と接することのできる一族だったと理解されます。

          尾張氏の謎を解く その127に続く
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