尾張氏の謎を解く その133


今回は前回に引き続き、「延喜式神名帳」に「尾張國愛智郡伊副神社」として記載されているのは宇福寺天神社、徳重熊野社、富士浅間神社のいずれなのか、或いは廃絶していて所在不明なのかを探っていきます。

まずは地名から見ていきましょう。神社の社名と地名が結び付いている例は少なからずあるからです。例えば、尾張海部郡伊福郷(現在の愛知県あま市七宝町伊福宮東)には伊福部神社が鎮座しており、地名と社名が結び付いています。今回の問題に関連して同じような例がないかチェックしたところ、「尾張国風土記 逸文」(平凡社)の福興寺の項に以下のような記載がありました。

同じ(尾張の)国の愛知の郡。福興寺。(土地の人は三宅寺と名づける。郡役所より南に去ること九里十四歩、日下部の郷の伊福(いふき)の村にある。)平城の宮に天の下をお治めになった天璽國押開桜豊彦(あまつしるしくにおしはるきとよさくらひこ)命の天皇(聖武天皇)の神龜元(七二四)年主政、外從七位下三宅連麻佐(みやけのむらじまさ)のお造り申しあげた所である。

「尾張国風土記 逸文」は他の書物に引用された形で残っており、福興寺の項は鎌倉時代に書かれた「万葉集抄」に引用されたものです。風土記は700年代の初め頃に編纂されたものですが、逸文も同じ時代か何とも言えません。けれども、引用が鎌倉時代ですから逸文も一応700年代初め頃のものとしておきましょう。

上記した逸文の記事から、愛知郡日下部郷に伊福村が存在すると確認されます。残念ながら伊副神社に関する記載はないものの、愛知郡に幾つもの日下部郷や伊福村があるとは考えられず、愛知郡日下部郷伊福村に伊副神社が鎮座していた可能性は高いと思われます。

他の史料にも当たってみます。900年代初めに成立した「延喜式神名帳」には、既に書いたように「尾張國愛智郡伊副神社」とあり、また承平年間(931年から938年)の「和名抄」には愛知郡の地名として、千竃(ちかま)や日部(くさかべ)などが書かれています。千竃は熱田神宮の謎解きに出てきた場所となります。以上の結果から、愛知郡日下部郷伊福村に伊副神社が鎮座していたと仮定してさらに検討を進めましょう。

愛知郡は現在の名古屋市全域にほぼ相当するので、次に日下部郷の所在地を探す必要があります。とここまで進んで、壁に突き当たりました。残念なことに、愛知郡日下部郷の所在地は不明とされているからです。ただ日下部郷に関して名古屋市西区や名古屋市天白区などの地域ではないかとの説もあるようなので、壁を乗り越えるため、もう一度前提なしに考え直してみます。

例えば、徳重熊野社と富士浅間神社は名古屋市天白区に隣接したような位置に鎮座しています。宇福寺天神社は名古屋市西区のすぐ北側に鎮座しています。郡域や郷域は時代によって変化すると考えれば、この3社はいずれも候補として可能性を持っているように思えます。従って次に検討すべき点は、時代的に最も古い史料と推定される「尾張国風土記 逸文」の記事に上記3社が整合しているかどうかです。

まず、3社の周辺に現在でも日下部の地名があるかチェックしてみます。徳重熊野社と富士浅間神社の周辺に日下部の地名は見られません。ところが、宇福寺天神社の場合その南西数キロのかなり広い範囲に日下部の地名がありました。


稲沢市日下部町周辺の位置を示すグーグル地図画像。

稲沢市には日下部町、日下部北町など多くの日下部を冠した町名があります。「稲沢市史」をチェックした結果、かつての日下部は以下の町を含む広範囲なものと書かれていました。日下部町、日下部北町、日下部南町、日下部東町、日下部西町、日下部中町、日下部松野町日下部花ノ木町を中心として、増田町、六角堂町、北市場町、高重町、奥田町、中ノ庄町、堀田町、七ツ寺町、大矢町、北島町。

「尾張国風土記 逸文」の記事から、地名に関連しそうなもう一つの名前を検討してみます。福興寺に関して土地の人は三宅寺と名づけていました。これは日下部郷の周辺に三宅と言う地名が存在していたことによると考えられます。地図でチェックすると、驚いたことにすぐ見つかりました。位置的には日下部関連の各町の西側です。


三宅の位置を示すグーグル地図画像。

「稲沢市史」によると、三宅は現在の稲沢市平和町三宅から三宅川沿いに、氷室町、坂田町、今村町、西溝口町、板葺町を含む南北に長い郷域とのことです。古代における日下部郷と三宅が上記の町域と重なるかどうか何とも言えませんが、かつてこの辺りに日下部郷と三宅郷があったのは間違いないと思われます。

「尾張国地名考」の「正生考」には、「御宅の遺址はいま西の宮とよぶ所是なり大石夥しくあり其邊の水田にも飛散たりみな御宅の礎石なり此宮に近年牛頭天王を祭れり君山翁の張州府志を撰書に就て巡村の頃までは外宮豊受大神を祀るよし也」と書かれていました。御宅(三宅)の遺跡が西の宮と呼ぶところにあるようで、地図上で探してみましたが発見できず残念です。

三宅は屯倉で、大化以前の大和朝廷の直轄領を意味し、官家、屯家、屯宅などとも表記します。本来は農産物などを保管する倉庫から出た言葉で、後に農産物の耕作地や耕作する田戸、田部なども含めるようになりました。

実は日下部も大和朝廷の直轄領を意味しています。宇福寺天神社南西数キロに日下部郷があり、その西側一帯には三宅の地名があって三宅川も流れていました。つまり、日下部郷と三宅郷を一括りに朝廷の直轄領と考えれば、稲沢市南東部の広い範囲が朝廷の支配地域になってしまうのです。

一方、徳重熊野社と富士浅間神社の周辺に三宅や屯倉、日下部の地名は見当たりませんし、この一帯は山間部に近く農業生産性は低そうで、直轄領を置くような場所ではありません。まだ断定はできませんが、宇福寺天神社が他の2社より有力な候補となりそうな気配です。

次に重要なのが、日下部郷の位置関係を示す、郡役所より南に去ること九里十四歩、日下部の郷の伊福(いふき)の村にある。との逸文記事です。郡役所とは郡家(こほりのみやけ)、郡衙(ぐんが)のことで、国の下部組織である郡の政務を司る場所を意味します。郡役所から南に9里は約4.5㎞となります。従って、3社の北約4.5㎞に郡役所がありそうかどうかをチェックする必要があります。と言っても、現在日本各地の郡役所所在地はほとんど判明しておらず、あくまで推定に過ぎませんが…。

まず、徳重熊野社と富士浅間神社の北約4.5㎞には窯業の生産地以外に何もなく、愛知郡役所があるような場所とは到底考えられません。一方、宇福寺天神社南西の日下部から北4㎞弱には国府宮駅があり、ここは中島郡で尾張国の国衙があった場所となります。具体的な地名としては国府宮駅の西側一帯の稲沢市松下が該当します。

驚いたことにこの辺りには国衙の地名もあったとのことで、地図画像で見るとコープ国衙などと言う名前のアパートも出てきます。またその西側は三宅川の上流部となり、朝廷の直轄地であった三宅郷とも川で接続していました。中島郡役所の所在地は不明ですが、国衙の近くに郡役所があると考えるのは合理的ではないでしょうか?現在でも愛知県庁のお隣が名古屋市役所となっています。


国府宮駅の西側一帯を示すグーグル地図画像。

徳重熊野社と富士浅間神社の場合、古代東海道に近い位置に鎮座している点が特筆されそうです。中島郡日下部郷に至った伊福部氏がさらに南下して尾張海部郡伊福郷に向かう途中、甚目寺の少し南辺りで一部のメンバーが古代東海道に入り、2社の鎮座地付近にまで至ったとも考えられます。もちろんこの動きは、彦坐王の生きていた時代よりかなり下った時点のものと推定されます。

うんと大雑把に検討した結果、宇福寺天神社が式内社・伊副神社である可能性が高そうですが、まだとても断定はできません。なぜなら宇福寺天神社の南西数キロにある日下部郷や三宅郷は、いずれも愛知郡ではなく中島郡内に所在するからです。郡域は時代によって変わると考えればこの問題はクリアされますが、単なる推測にすぎないので、もう少し詳しい検討が必要となります。

次に日下部郷と宇福寺天神社の位置関係を見ていきましょう。例えば稲沢市日下部町から宇福寺天神社までは直線で僅か2.4㎞程度しかありません。日下部郷のどこか(多分日下部郷と三宅郷の境界付近)にかつて鎮座していた伊副神社が遷座して現在の宇福寺天神社になったと考えても、さほど違和感はなさそうです。伊副神社は「本国神名帳」の記載では伊副天神であり、その意味でも宇福寺天神社は有力です。よって、宇福寺天神社の元の鎮座地(と推定される)日下部郷に焦点を当てて検討を進めます。

日下部郷の実像を探るため稲沢市日下部町の周辺を地図でチェックしたところ、愛知県稲沢市日下部中町6丁目に草部(くさかべ)神明社が鎮座していました。宇福寺天神社の鎮座する北名古屋市宇福寺天神から草部神明社までは、直線で僅か3㎞の距離しかありません。同社の由緒内容が参考になるかもしれないので、早速行ってみましょう。


草部神明社の位置を示すグーグル地図画像。

草部=日下=日下部で、Wikiには日下部氏に関して、「日下部氏 - 古代大和朝廷に臣従し建部氏や壬生部氏等とともに軍事的部民であったとされる。」と書かれています。

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草部神社境内。

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鳥居と境内。

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拝殿。

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境内図。

画像サイズを大きくしています。境内図によれば、手水舎のところに由緒を書いた解説板があるようです。後で見に行きましょう。

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本殿。

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手水舎にある解説板。画像サイズを大きくしています。

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解説板。画像サイズを大きくしています。

解説板が非常に長文で詳しいのは検討の助けになり有り難いのですが、長すぎて一枚の写真に納まりません。しかも、手水舎の上に斜めに掲げられており、ガラス板があるため背後の景色が少し写ってしまいました。二つ目の解説板は部分的に消していますが、これは酔石亭主のカメラや手が映り込んでしまい、みっともないので消したものです。消した部分は以下に赤字で書き出した由緒内容で青字にしています。なお、以下に書いたのは抜書きで全文ではありません。

祭神 天照皇大神 豊受大神

由緒
神社の記録が伝わっておらず正確なところは不詳であるが、社号「草部(くさかべ)」は地名の「草部郷(くさかべごう)」、伊勢神宮荘園名の「草部御厨(くさかべみくりや)」に由来すると考えられる。江戸時代初頭の尾張藩資料(寛文(かんぶん)村々覚書(おぼえがき))に当神明社に関する記載があるため、三百年余前に神明社として当地に鎮座されていたことは確かである。神明社は、古代末から中世(主に平安後期から鎌倉期頃)に伊勢神宮の荘園「御厨(みくりや)、御園(みその)」が各地に設置され、そこに伊勢神宮から分霊を迎えることにより各地に勧請(かんじょう)された。その後、室町時代や江戸時代には、伊勢信仰の高まり、伊勢神宮大麻の普及などに伴い、新田開発地への神社勧請の際などに、伊勢神宮荘園以外の地にも広く祀られるようになった。当社は、中世の「草部御厨」の地に鎮座されている神明社であることから、七百年~九百年前頃に伊勢神宮荘園に勧請された神明社の一社と思われる。

草部神明社が今に伝える尾張中島郡日下部の千五百年の歴史
当地の歴史
現住所は愛知県日下部中町六丁目。この地域は、古代(五世紀頃)に天皇家(大王家)の直轄領である「日下部(くさかべ)」が置かれたところと考えられており、大和朝廷成立への尾張地方の関わりを今に伝えている。平安中期の国郡郷名を伝える「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」、長光寺の記録(地蔵堂の露盤銘「草部郷長光寺」)などから、古代から中世には現在の日下部地区を中心に六角堂、北市場、増田、奥田東部、清須北部などを含む稲沢市内東南部にかけて「草部郷」が存在したと考えられており、草部神明社の社号がその歴史を伝えている。中世には、伊勢神宮の荘園である「草部御厨(みくりや)」が置かれ、江戸期には国府庄日下部村となる。明治以降の大里村日下部などを経て現在に至る。

草部と日下部の意味と由来
草部(草香部の略語)と日下部は同意語で、神武天皇東征の故事「孔舎衛坂(くさかえのさか)の戦い」の地「河内(かわち)国・草香(くさか)村」の名に由来する。
「草香」は古代に「日下」とも表記され、古事記序文には、「日下」を「くさか」と読む旨の注記がある。草香を日下とも記述する理由については、草香の地が難波から見て日が最初に照らすところ(日の下)であるとの説や、大和朝廷成立前の物部王国が草香周辺にあったため(漢字の「日下」には「東方の国」の他、「天下」「都」の意味がある)との説がある。
なお、「日下(ひのもと)の草香(くさか)」が「日本(ひのもと)の倭(やまと)」に転じ、「日本」の国号につながったとの説も有力である。
「部(べ)」は、大和朝廷における人民支配の制度で、天皇家が私有する「御名代(みなしろ)」や豪族が私有する「部曲(かきべ)」などがある。「日下部」は、古事記や日本書紀などによれば、仁徳天皇の皇子「大日下王(大草香皇子)」、同皇女「若日下王(雄略天皇の皇后)」の御名代で、大和朝廷の拡張に伴い、全国に広く設置されていった。

全国の主な日下部
愛知県稲沢市日下部付近(当地)
尾張氏本拠地(真清田神社の付近)の草部で、尾張連草香やその娘で継体天皇妃の目子媛(日下媛との説あり。安閑・宣化天皇の母)との関わりもあり得る。

他の神社では見られないほど詳しく書かれています。まずはとても興味深い草部神明社の由緒内容を検討していきます。

由緒には「この地域は、古代(五世紀頃)に天皇家(大王家)の直轄領である「日下部(くさかべ)」が置かれたところと考えられており、」とあります。雄略天皇の皇后に草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)がいて、中島郡の日下部郷は皇后のために設置された名代(特定地域の居住民に、王族の名や、その居所にちなんだ名を冠したもの)の部であり、彼女の生活の資養に充てられた料地となりそうです。よって日下部氏は、料地の管理のため配置された軍事部民とも考えられ、伊福部氏との共通性も見られます。

また日下部郷は尾張連草香(おわりのむらじくさか)とその娘の目子媛(めこひめ)が関係していそうです。仮に両者が中島郡日下部郷の出身であるとすれば、尾張草香は朝廷の直轄地の管理者として頭角を現した人物となります。由緒はさらに、「草香を日下とも記述する理由について、大和朝廷成立前の物部王国が草香周辺にあったためとの説がある。」としています。すなわち草香や日下は物部氏と関連しているのです。

酔石亭主も「熱田神宮の謎を解く その19」で、尾張草香と目子媛は物部氏ではないかとの疑問を提示していました。二人が仮に中島郡日下部郷ではなく愛知郡日下部郷の出身だったとしたら、物部氏である可能性はさらに高くなります。由緒にはまた、目子媛は日下媛との説あり。との記述も見られます。これは「神皇正統記」に安閑天皇の母日下媛は草香連の息女なり、と書かれていることによります。

ただ、朝廷の直轄地としての日下部と、物部氏に結び付いた草香や日下は分けて考える必要もありそうです。朝廷の直轄地としての日下部は中島郡日下部郷でしょうが、尾張草香と目子媛の話は中島郡ではなく、愛知郡における日下部郷の話と考えるべきなのです。いずれにしても、中島郡日下部郷にこれだけの歴史が秘められているなら、その前段階において伊福部氏の痕跡があってもおかしくはありません。

問題は草部神明社の鎮座地一帯が解説板に見られるように、尾張中島郡日下部であることです。一方「尾張国風土記 逸文」は福興寺に関して愛知郡日下部郷伊福村としており、郡名が異なっています。(注:和名抄では中島郡日部、愛知郡日部の表記です)「延喜式神名帳」では愛智郡に伊副神社があると書かれています。どれも帯に短し襷に長し状態ですが、これらをどう解釈するかもう一度考えてみましょう。

既に書いたように、逸文には土地の人が福興寺を三宅寺と名づけ、郡役所から南に9里14歩の日下部郷伊福村にあると記載されています。三宅は屯倉とも表記され、朝廷の直轄領にある役所や倉を意味しています。尾張中島郡日下部は解説板にもあるように朝廷の直轄領となっています。草部明神社の約6㎞西には三宅川が流れ、その一帯のかつての地名は三宅村でした。

さらに郡役所から南に9里は約4.5㎞となります。尾張国の国衙があった国府宮駅近くに郡役所があったとして、そこから草部明神社までは4㎞弱の距離となっています。仮に徳重熊野社と富士浅間神社を伊副神社に充てると、その北4.5㎞は窯業生産地以外に何もないような場所となってしまいます。

尾張国における伊福部氏の本拠地は伊富利部神社一帯ですが、ここからほぼ真南に13㎞ほど下ると日下部郷となり、さらに南に7㎞ほど下るとあま市七宝町伊福に至り伊福部神社が鎮座しており、由緒には伊福天神とも申すと書かれています。

この位置関係や史料面での検討から判断して、地名問題を横に置いた場合、尾張国中島郡日下部郷に伊福村があり、そこに伊副神社が鎮座していたとするのが整合性のある見方となりそうです。酔石亭主は上記の見方が正しいとしたいのですが、そう簡単には問屋が卸さないと思いますので、別の視点からも検討を続けます。

                 尾張氏の謎を解く その134に続く
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草部神社付近は日下姓がとても多いのですが、読みは「ひのした」なんですよね。

Re: タイトルなし

日下には「ひのした」だけでなく、「にっか」、「ひか」、「ひげ」などあらゆる可能な読みがあります。
日下姓は愛知県では稲沢市と安城市に集中していますね。
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