尾張氏の謎を解く その139


今回は尾張氏国外発祥説の別説である吉備発祥説に関して見ていきます。以前にも書きましたが、岡山市北区京山2-2-2には尾針神社が鎮座しています。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

由緒詳細は岡山県神社庁ホームページより以下引用します。

当社の創立の年代は詳らかではないが、醍醐天皇延喜5年(905)から編纂された「延喜式」の神名帳に登載(延喜式式内社)されている。社殿背後の台地には高さ1〜2メートルの長大な巨石群あり、これらは天津磐境(あまついわさか)と言われ古代祭祀の遺跡である。また、ご鎮座地一帯は、往古「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部連(尾張連の一族)の居住地で、その祖神「天火明命」を奉斎し、創祀したと言われている。延喜の制では小社に列せられ備前国26社の1社として最古の社である。延喜式神名帳に「備前国二十六座御野郡八座」の中に「尾針神社」とある。…以下略。

神社庁ホームページは以下を参照ください。
http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01091

社名は尾張氏を想起させる尾針神社なのに鎮座地は伊福部氏の関連であり、伊福部氏の祖神である天火明命を奉斎し創祀したとされるのですから、尾張氏ではなく伊福部氏を中心とした書き方になっています。図らずも、前回までで見てきた内容を証明しているように思えてきました。

由緒に「伊福部連(尾張連の一族)」と書かれているのは、伊福部氏と尾張氏のありようが整理されていないために併記した形となったものと推定され、文面の趣旨は明らかに伊福部氏が主体となっています。もう少し詳しく見るため、以下Wikipediaより引用します。

創建は不詳であるが、一帯は古くは「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部連(尾張連の一族)の居住地であったという。そしてその祖神・天火明命を祀ったことに始まるとされている。付近には同じく尾張氏ゆかりの式内社・尾治針名真若比咩神社が鎮座することから尾張氏との関係が示唆されており、伊福部氏が尾張から西遷したとする説や、逆に吉備から尾張へ尾張氏が東遷していったという説がある。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「備前国御野郡 尾針神社」と式内社の記載があるが、当社はその論社とされている。江戸時代には式内社の所在不明となっていたといい、当時の文献では酒折宮(現 岡山神社)の社地が元の境内と記すものもある。現在も岡山神社の末社の内に尾針神社が祀られており、論社のもう1つとされている。明治初年までは「栗岡宮」と呼ばれていたという。明治に入り「尾針神社」と改称した。


境内末社である若宮の祭神が天香山命となり、尾張氏の祖神(とされる)2神が出揃っていること、また社名が尾針神社であることから、ここが尾張氏吉備国発祥説の中心的な場所と理解されます。しかしです。鎮座地一帯は、往古「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部氏の居住地である点は確認されますが、尾張氏の痕跡は見られません。御野郡伊福郷に尾張氏の痕跡が見られないのは、古代の初期において尾張に移動したからだとの説明も可能なので、この問題を考えてみます。

美濃・尾張の検討から彦坐王をリーダーとした東方遠征部隊は主力が伊福部氏で、鏡(=天火明命)を奉じ、大和から尾張へと移動しました。よってその経路には伊福部氏が色濃く存在し、彼らが奉斎する神社には天火明命が祀られていたのです。一方大和から尾張までの経路上に尾張氏の痕跡は皆無となり、尾張氏高尾張邑発祥説は否定されました。同様に考えると、仮に吉備国で尾張氏が発祥したとする場合、どのような経路で尾張に至ったのかを詳しく検証しなければなりません。多分経路と推定される各国にも尾張氏の痕跡はないはずです。

尾張氏大和高尾張邑発祥説と吉備国発祥説のいずれも、途中の経路に尾張氏の痕跡が見られないと言う基本構造は全く同じと思われます。では、四道将軍の派遣に関連して大和の伊福部氏が吉備国に向かったのでしょうか?多分、伊福部氏が吉備津彦命に同行して吉備国に入ったのではなく、美濃或いは尾張に定着した後代の伊福部氏が吉備国に移動したことから、この地が伊福郷となったのです。

その理由は郡名にあり、御野郡は美濃を連想させるのですが、いかがなものでしょう?社名が尾針となっている点も尾張の伊福部氏が移住したからと考えれば納得でき、美濃・尾張の伊福部氏が連れ立って吉備に入った雰囲気が感じられます。

さらに検討を続けます。尾針神社から約1.6㎞北の岡山県岡山市北区津島本町20-8には尾治針名真若比咩神社(おじはりなまわかひめじんじゃ)が鎮座しています。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

同社も岡山県神社庁の記事を引用します。

延喜式神名帳に、「備前国御野郡尾治針名真若比め神社」とあリ、総社神名帳に「尾張針田真若比女神社」、山本氏本に「従四位下尾張針田明神」と記載している式内神社である。本神社の鎮座地の西坂以東の山を半田山と言うのは、針田山の誤で、針田の名称はこの神の御名から出たもので、津島の産土神である。(「め」は口へんに羊) 

神社庁ホームページは以下を参照ください。
http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01046

尾治針名真若比咩神社の祭神・尾治針名真若比咩命とはどんな神様なのでしょう?それを知るために、尾張に立ち返ります。名古屋市天白区天白町平針大根ケ越175には針名神社が鎮座しています。同社の主祭神・尾治針名根連命(おわりはりなねのむらじのみこと)は天火明命の十四世孫とされ、尾治針名真若比咩神社の社名・祭神と極めて近いものがあり、両神の関係が見て取れます。また既に見てきた犬山市に鎮座する針綱神社の祭神も同じ尾治針名根連命です。尾治針名真若比咩神社と針名神社の関係を探るため、早速針名神社を見に行きましょう。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

IMG_1691_convert_20151231103123.jpg
鳥居。

IMG_1693_convert_20151231103215.jpg
参道です。

IMG_1694_convert_20151231103311.jpg
紅葉が綺麗でした。

IMG_1695_convert_20160105133830.jpg
神門です。

IMG_1697_convert_20151231103628.jpg
由緒記。画像サイズを大きくしています。

ごく一般的な由緒で、取り立てて特別な内容は書かれていません。

IMG_1699_convert_20151231103751.jpg
拝殿。

コンクリ造りですが立派な社殿と言えるでしょう。神域感は十分にある境内です。

IMG_1701_convert_20151231103819.jpg
解説板。画像サイズを大きくしています。こちらの方が詳しくてわかりやすい。

針名神社の歴史
針名神社の創建は古く、延喜式神名帳の「従三位針名天神」の記載により、今から約1100年以上前と推察できます。
「延喜式」とは、延喜5年(905年)に醍醐天皇の命により編纂が開始された「養老律令」の施行細則を集大成した全五十巻に及ぶ古代法典であって、この「延喜式」の第九巻・第十巻に記載されている神社のことを式内社と呼び、針名神社も式内と冠しているのはこの史実によるものであります。
社地の元々は現在地より約800メートル北、天白川左岸の元郷に祀られておりましたが、慶長年間(1612年頃)に徳川家康の命により平針宿が成立したと同時期に現在の社地に遷し祀られたとされています。
主祭神の尾治針名根連命(おわりはりなねのむらじのみこと)は、尾張氏の祖先神で尾張国一宮の真清田神社の御祭神でもある天火明命(あめのほあかりのみこと)の十四世孫にあたり、父の尻調根命(尾綱根命)とともに犬山市の針綱神社にも祀られていて、古代豪族尾張氏の氏神と考えられております。
…以下略

針名神社は立派なホームページがあるので詳しくは以下を参照ください。
http://www.harina3.or.jp/history/

由緒を見ても、尾治針名真若比咩神社との関係までは書かれていません。国会国立図書館デジタルライブラリで尾張志をチェックしたところ、コマ番号3に以下の記載がありました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764866

針名神社
平針村にまして今は天神社と申す神名式に愛智郡針名神社本國帳に同郡従三位針名天神とある是なり祭神は尾治ノ針名連と神祇宝典に書せ給へるがことし針名ノ連は天孫本紀に天火明ノ命十四世ノ孫尾治ノ弟彦ノ連次尾治ノ針名根ノ連次意乎巳ノ連此連ハ大雀朝ノ御世爲大臣供奉と見え姓氏録左京神別下檜前舎人ノ連の條に火明命十四世ノ孫波刹那乃連公の後也とも見え尻調根ノ命の二男也神名式に備前ノ國御野ノ郡尾治ノ針名ノ眞若比女ノ神社といふある眞若比女ノ命ハ天孫本紀尾治氏ノ世系をかける條にはもらせれとこの針名連公の御妹か又は御女なとにもやあらむさて針名はもとこの尾張國の地名にてそこによれる御名なるへし今は此名廃れて考ふへきよしなし延喜神名式に見えたる上野國群馬ノ郡榛名ノ神社に同例の地名なから祭神は此所と異なるにかあらむ此平針村今の民家及神社寺院ともにもとは郷の北の方元郷といふ所にありしを後にここにうつしたれは古代よりの坐地にはあらす旧址は今世に元大神と呼來れり神主を村瀬右近と云


読みにくい内容ですが、「備前ノ國御野ノ郡尾治ノ針名ノ眞若比女ノ神社といふある眞若比女ノ命ハ天孫本紀尾治氏ノ世系をかける條にはもらせれとこの針名連公の御妹か又は御女なとにもやあらむ」の部分が重要で、両社の関係が示されています。

由緒には、眞若比女ノ命は天孫本紀の尾張氏系図には載ってはいないが、針名連の妹か御女(妻)ではないかと書かれ、針名神社祭神との関係が想定されており、両社の間に何らかの繋がりがあると理解されます。さらに調べを進めます。国会国立図書館デジタルライブラリで特選神名牒をチェック結果、尾治針名真若比女(咩)神社に関して以下の記載がありました。

尾治針名真若比女神社
祭神 尾治針名真若比女神

今按岡山藩神社書上に此社北方村の四日市御崎宮地に建たるは寛永四年の事にて一宮の社務大森氏の本社の廃地を歎きてかりにものせし也平賀元義が雑録に此祭神尾張連にて伊福氏祖神なり備前邑久郡に尾張郷あり尾張氏伊福氏も本国にありて其祖神を祭れるなり尾張国山田郡尾張神社愛智郡針名神社伊福神社ありて尾張に尾張氏伊福氏あり備前御野郡にも尾治針名真若比女神社ありて共に同じと云りさて本郡の北方金山笠井山より引続きて東西に斜なる山を半田山と云は針田山の音便にくつれたるにて針田神社ましし故なりさればこの半田山に清地を擇で宮地を定むべきにや又考るに津島天神社福井天神社ありもしくは津島天神ならんかと疑へる注進状に津島村と定めたるは武断に近し彼針田山の地いとよしありて聞ゆれば猶よく尋ねまほし


国会国立図書館デジタルライブラリは以下を参照ください。コマ番号は403。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919019

上記で重要なのは「此祭神尾張連にて伊福氏祖神なり備前邑久郡に尾張郷あり尾張氏伊福氏も本国にありて其祖神を祭れるなり尾張国山田郡尾張神社愛智郡針名神社伊福神社ありて尾張に尾張氏伊福氏あり備前御野郡にも尾治針名真若比女神社ありて共に同じと云り」の部分です。以下現代文に書き直します。

尾治針名真若比女神は尾張連であり、伊福部氏の祖神である。備前邑久郡には尾張郷があり、尾張氏と伊福氏が本国(備前国)に存在していてその祖神を祀っているのである。一方、尾張国山田郡には尾張神社が鎮座し、愛智郡には針名神社と伊福神社が鎮座していて、尾張には尾張氏と伊福氏が存在している。備前御野郡にも尾治針名真若比女神社が鎮座していて共に同じと言える。

吉備国は持統天皇3年(689年)に備前国、備中国、備後国に分割されています。驚いたことに、尾治針名真若比女神は尾張連であり、伊福部氏の祖神であると書かれています。尾治針名真若比女神は尾張氏の系図にはなく、伊福部氏の系図にも見られません。つまり、尾張氏と伊福部氏のどちらにも関係ありそうで関係なさそうにも見えると言う、ややこしい状態となっています。

その点はさて置いて、上記の由緒は尾張と備前には尾張氏と伊福部氏がいて、それぞれが祖神を祀っていることから、尾張と備前は同じだとしている訳です。ここから、伊福部氏が尾張から西遷したとする説や、逆に吉備から尾張へ尾張氏が東遷していったという説が出てきたのは言うまでもありません。既に書いたように、4世紀頃の古代に吉備から尾張氏が尾張へ東遷したなら、その経路を特定し経路上に尾張氏の痕跡が見られるはずですが、そうした痕跡は何もなく、伊福部氏が尾張から西遷したと考えるしかなさそうです。

この場合においても、伊福部氏が尾張から西遷した経路上に伊福部氏の痕跡があるのかとの疑問が出てきます。答えは、そうした痕跡などない、となります。なぜなら、伊福部氏の西遷は600年から700年代の頃と考えられるからで、この時点では交通網も整備され、各地に痕跡など残さず移動が可能となっているのです。

ここで尾張と備前の比較検討をしてみます。尾針神社の鎮座地は吉備国(後の備前国)御野郡伊福郷で、そのすぐ近くには尾治針名真若比女神社が鎮座しています。尾張国愛知郡の針名神社の近くには徳重熊野社と富士浅間神社が鎮座しており、富士浅間神社の鎮座地はかつての伊福村であった可能性があります。伊福村があったかどうかは別としても、伊福部氏が居住していたのは間違いないと思われます。

つまり尾張と備前のごく狭い地域において、伊福部氏の居住地内に尾張氏の神社が鎮座している構図となっているのです。全く同じ構図の中で選択肢は、伊福部氏が備前から尾張に移住したか、尾張から備前に移住したかのいずれしかなく、この移住に尾張氏が加わっていた可能性もあります。そう考えれば、結論的には尾張から伊福部氏が備前に移住した、それに尾張氏も加わっていた可能性があるとするしかなさそうです。

なぜなら、天火明命十四世孫の尾治針名根連命は実在するとして5世紀初頭の人物と推定されるからです。5世紀初頭の人物の娘かも知れない尾治針名真若比女神が神として祀られるのは多分6世紀以降になるはずです。吉備国で発祥した尾張氏が尾張に来たと仮定した場合、その時期が6世紀以降であれば遅すぎるため、これをもって尾張氏吉備国発祥説が正しいとはなりません。

纏めれば、美濃・尾張の伊福部氏と尾張氏の一部がいつの頃かは不明だが多分6世紀の終わり以降吉備国(7世紀の終わり以降なら備前国)に移住し、これが尾張氏吉備国発祥説の元になったと考えられます。以上で、尾張氏国外発祥説の一つである吉備国発祥説は成り立たないことが明確となりました。

IMG_1707_convert_20151231103934.jpg
最後に紅葉をもう一枚。針名神社の近くですが境内ではありません。

                尾張氏の謎を解く その140に続く
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる