FC2ブログ

尾張氏の謎を解く その141


長く続いてきた尾張氏の謎解きも「その141」をもって終了とします。最終回は尾張氏国内発祥説を検討します。これを考える前に、尾張氏系図の乎止与命(おとよのみこと)以前の部分が後代になって付加されたもの(捏造)である点をもう一度見ていきます。と言うことで、「先代旧事本紀」の尾張氏系図から検討に入りましょう。

「先代旧事本紀」巻五の天孫本紀にはニギハヤヒの十一世孫(注:系図によって何世かは異なっています)として乎止与命が記載され、この命は、尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘の真敷刀俾(ましきとべ、下知我麻神社祭神)を妻として、一男をお生みになった。とあります。次が十二世孫・建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮・本宮の相殿神)で、この命は邇波県君(にわのあがたのきみ)の祖・大荒田(おおあらた)の娘の玉姫を妻として、二男四女をお生みになった。とあります。

乎止与命と建稲種命はその記述内容からして明らかに続いています。ところが、乎止与命はその前の十世孫と続いているような表記になっていません。乎止与命の前は単に十世孫として淡夜別命(あわやわけのみこと)から小縫命(おぬいのみこと)までの人物が書かれているだけなのです。このため、乎止与命は淡夜別命或いは小縫命の子供として一般的には考えられています。

さらに不可解なのは、巻十の国造本紀に記載された内容です。ここには尾張国造(おわりのくにのみやつこ)の項目があり、成務天皇の時代に、天別・天火明命の十三世孫の乎止与命が国造に定められた。とあります。第13代の成務天皇は4世紀後半の天皇と考えられ、一方国造制度は正確には不明ですが、5世紀から6世紀頃に定められたとされています。よって小止与命が国造になるのはおかしな話です。

この点はまあ目をつぶるとしても、乎止与命の子となる建稲種命は第12代景行天皇の時代の人物で、日本武尊の副将軍となって東国征伐に参加しています。第13代の成務天皇期に登場した乎止与命の子である建稲種命が、第12代景行天皇の時代に活躍したとは考えられず、大きな矛盾が生じています。

このように、同じ史料で乎止与命の前後に幾つもの混乱が見られますが、最も大きな問題は、やはり初代尾張国造とされる乎止与命がその前と繋がっていない点でしょう。これは、乎止与命以前の尾張氏系図が創作(捏造)されたものであることを物語っていると見て間違いなさそうです。

以上から、尾張氏に関しては初代尾張国造(とされる)乎止与命を以って始まりとすべきとなりそうです。この時点で尾張南部の年魚市潟周辺地域を拠点とする集団は尾張氏を名乗ったことになります。では、尾張氏発祥の地はどこになるのでしょう?

現在の熱田神宮境内摂社に上知我麻神社があり、祭神は乎止与命になります。乎止与命が実質的な尾張氏初代であり、熱田にて祀られているなら、当然ここが尾張氏の発祥地となりそうですが、そうではありません。上知我麻神社は当初星崎の星宮社周辺に鎮座しており、この地は笠寺台地にありかつては松炬島と呼ばれていました。また社名の知我麻は千竈(ちかま)で製塩の窯が数多くあることを意味し笠寺台地に地名が残っています。

同社は、松炬島から大化3年(647年)に熱田の地に勧請されています。下知我麻神社と松姤社も同様に大化3年に遷座していることから、尾張氏はこの時期に笠寺台地や氷上邑(名古屋市緑区大高町火上山)から大挙して熱田台地に移動したものと考えられます。


松炬島(現在の笠寺台地)の位置を示すグーグル画像。呼続から星崎にかけての一帯が松炬島です。

かつては島状態でした。画像を拡大すると現在でも川に囲まれ、かつての雰囲気が多少は感じられます。


氷上邑の位置を示すグーグル地図画像。

松炬島に関しては「熱田神宮の謎を解く その9」、氷上邑に鎮座する氷上姉子神社に関しては「熱田神宮の謎を解く その10」にて詳しく書いていますので参照ください。

では、肝心要の熱田神宮はどうなのでしょう?熱田神宮史料「朱鳥官符」には、熱田大明神が尾張国の愛智郡の衛崎の松炬嶋の機綾村に大化二年丁未、歳五月一日、天下して鎮座した、と書かれています。

「朱鳥官符」はデジタル化されており、原文は以下のコマ番号5を参照ください。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0357-013206&IMG_SIZE=&IMG_NO=5

大化2年は646年ですが、年代に関して干支を採れば大化3年となり、上知我麻神社の創建と同じになるので、やはり647年に笠寺台地や大高を本貫地としていた尾張氏が大挙して熱田台地に移動したと想定されます。熱田にも松炬嶋の地名が含まれていますが、これは笠寺台地=松炬島から持ち込んだ地名と考えられます。松姤社の松姤は松炬なので、ここからも地名の持ち込みが窺えます。

「朱鳥官符」に書かれた熱田大明神とは天照大神ではなく草薙神剣で、宮簀媛命(宮主媛命で、氷上姉子神社の巫女と考えられ、特定の個人を指すものではなく巫女を意味する普通名詞)がこの時点で草薙神剣を氷上姉子神社から熱田に移したと考えられます。

要するに、熱田神宮の創建は宮簀媛命が蓬莱の地である熱田台地に草薙神剣を遷した孝徳天皇の大化3年(647年)となるのです。裏付けとなるのは二次資料ですが名古屋都市センターの研究報告書(23P)に以下の記事があります。

宮簀媛命は、日本武尊から託された神剣を守るために氷上邑(ひかみむら、尾張氏の本拠地・現在の名古屋市緑区大高町火上山)に熱田神宮の元宮となる氷上姉子神社を創建した。その後、年齢を重ねてきたことを憂えた宮簀媛命は、神剣を末永く祀るにふさわしい地を尾張一族に諮り、大化3年(647)、かねてから尾張氏の斎場であった蓬莱の地(現在の名古屋市熱田区神宮一丁目)に移され、名称も改められた(「熱田神宮」が正式とされたのは明治元年)。 宮簀媛命は尾張国造乎止世命の娘であったことから、この地方に土着して勢力を持ってい た尾張氏一族は、神主や祝(はふり)などといった神職を司り幾世代もこの神社を守り続けたのだった。

名古屋都市センターの研究報告書は以下を参照ください。
http://www.nui.or.jp/user/media/document/investigation/h22/shimin1.pdf

熱田神宮の創建は同社ホームページでは景行天皇の43年(およそ1900年前)となっているものの、実際には1369年前でしかないと理解されます。名古屋都市センターの研究報告書は二次資料なので、この裏付けとなる史料を探しましたが、残念ながら見当たりません。ただ、記載内容は上、下知我麻神社及び松姤社の遷座と完全に連動していることから、正しいものだと推定されます。「朱鳥官符」の記述内容もまた研究報告書の記事の正しさを証明するものとなっています。

以上から、尾張氏の実質的初代である乎止与命は松炬島(笠寺台地)にいたことになり、ここが尾張氏発祥の地と考えても違和感はありません。さらに「熱田神宮の謎を解く その4」で書いたように、松姤社は宮簀媛命と日本武尊の出会いの場であるとされていますが、松姤は松炬であり、出会いの場も松炬島であることを論証しています。これらを総合すれば、尾張氏の発祥地は松炬島及び氷上邑とならざるを得ないでしょう。もう少し広く取れば、鳴海も含む年魚市潟周辺地域となるはずです。

(注:「熱田神宮の謎を解く その45」以降で尾張氏国内発祥説の各説について書いています。内容的には粗雑で今から思えば間違いもありますが、参考としてください。尾張氏尾張国内発祥説は各説があっても、尾張氏の始まりを乎止与命とすれば年魚市潟周辺地域とならざるを得ません)

乎止与命がいつの時代の人物か想定するのは困難ですが、国造制度が始まったころと見れば、早くても5世紀以降となります。400年代になって年魚市潟周辺で勢力を増してきた尾張氏は、5世紀以降朝廷の東国支配の先兵になり、伊勢湾の沿岸警備、船舶の提供、人員の提供など様々な支援を行って朝廷との関係を強化し、最終的には尾張国全体をほぼその支配下に置いたものと思われます。

以上で尾張氏発祥地の謎解きは終了ですとしたいのですが、実は自分で書いた内容に納得のいかない部分も残っています。例えば、尾張氏は朝廷に対する貢献が大であったので、天皇家の系図捏造と言う極秘事項にも加担でき、初期天皇や崇神天皇の皇妃が尾張氏から出た形の系図作成も許され(これは尾張氏が大和にいたと見せかけるためのものですが…)、さらに天火明命や天香山命を祖神とすることが可能になったと書いています。

ところがです。以前書いたように、天智天皇の668年、熱田神宮の草薙神剣が新羅僧道行に奪われました。道行は捕まり神剣は熱田神宮に戻されると思いきや、宮中預かりとなってしまうのです。この事件は三種の神器の一つである神剣を自分たちのものにしたかった朝廷側の捏造と考えられます。

天智天皇の時代はそうであったとしても、次の代は天武天皇となります。もうご承知のように、尾張氏は672年の壬申の乱において大海人皇子を支援しました。そのお蔭で大海人皇子は戦いに勝利し天皇に即位できたのです。だとすれば、大海人皇子は天皇に即位した時点で神剣を尾張氏に返還していなければなりません。

ところが実際に返還されたのは朱鳥元年(686年)で、天武天皇の即位からかなりの年月が経過しています。返還の理由も妙なもので、神剣の祟りにより天皇が病に倒れたからとされています。つまり天武天皇の即位から崩御までの間、神剣は返されることなく宮中にあったことになります。

この経緯を見ると、朝廷は尾張氏を軽く見ていたと思わざるを得ません。また壬申の乱において、尾張大隅は自分の私邸を大海人皇子の行宮に提供し軍事面での支援もしています。ところが、「日本書紀」における壬申の乱の記述に彼の名前は出てこないのです。

あれこれ探してみると、天武天皇13年(684年)12月2日では、尾張連など連姓の50氏が宿禰の姓を与えられたとありますが、50氏の中の一つとしての扱いです。持統天皇10年(696年)5月8日には、天皇は尾張宿禰大隅に直広肆の位と水田40町を与えたとあります。しかし壬申の乱の功績により、とは書かれていません。

彼の名前が壬申の乱に関係して出てくるのは、「続日本紀」天平宝字元年(757年)12月9日条で以下のような内容となっています。

従五位上尾治宿禰大隅壬申年功田卅町。淡海朝廷諒陰之際。義興警蹕。潜出関東。于時、大隅参迎奉導。掃清私第。遂作行宮。供助軍資。其功実重。准大不及。比中有余。依令上功。合伝三世。

大意は、大海人皇子が吉野を脱出して関東(鈴鹿の関の東)に出た際、尾張大隅が出迎えて先導し、自分の私邸を掃き清め行宮(不破関近くの野上行宮)として提供し、軍事物資も支援した。その功績は重いが、大功と言うほどではなく、中程度よりは大きいので、上功に当たり、三世に功田を伝える。と言ったところでしょうか。

「日本書紀」において尾張大隅はほぼ無視された形となっており、「続日本紀」でようやく壬申の乱に関係する記述となりますが、功の大小が議論され明らかに軽く扱われています。記紀の編纂は天武天皇の命によりスタートしたものと考えられるので、この時点で初期天皇家の系図捏造が行われ、その作業に尾張氏も加担したとすると、酔石亭主の仮説は史書の内容に矛盾する結果となってしまいます。

ただ、「古事記」の序には舊辞の誤り違えるのを惜しみ、先紀の誤りが混じるのを正すため撰録して献上させた、と言った文面があり、天武天皇や天智天皇以前の段階で既に初期天皇家の系図捏造と尾張氏の加担が実行されていた可能性は十分にあります。と言うか、天武天皇は帝紀(先紀)・旧辞自体の改竄を意図していたとも考えられますので、ここからも初期天皇家の系図捏造は天武天皇以前の可能性が高そうです。

その後の尾張氏は正史に登場することもなく、どうやら熱田神宮の大宮司職を務めるだけの存在になってしまったようです。ところがその大宮司職も平安時代後期に藤原南家の藤原季範に譲ってしまい、尾張氏は祝詞師としての田島氏と惣検校の馬場氏になってしまうのです。Wikiには藤原季範に関して次のように書かれていました。

季範の母の実家である尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る。これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原氏による世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。

この時点で尾張氏の命脈は絶たれたも同然と思われます。PDFのデータで『「熱田神宮大宮司千秋家譜」について』があり、天照大神に始まる系譜が掲載されているので参照ください。
www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f7-4.pdf

「その137」にて伊福部神社の由緒を書かれた熱田神宮の大宮司・角田忠行氏に関して書いていますが、同氏は「熱田神宮略記」を著されており、近代デジタルライブラリで読むことができます。わかりやすく纏められているので、興味のある方は以下を参照ください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1096390

尾張氏に関して別の視点からも見ていきます。熱田神宮の主祭神に関しては「熱田神宮略記」のコマ番号11に記載あり、「天璽 草薙大御剱 一座」となっていました。また相殿神として天照大神、スサノオ、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命の五座が祀られています。ところが現在の熱田神宮ホームページでは以下の記載となっています。

熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)・御神体としてよらせられる、天照大神のことです。

相殿神は「熱田神宮略記」と同じになっています。熱田神宮ホームページは以下を参照ください。
https://www.atsutajingu.or.jp/jingu/about/gosaijin.html

上記から主祭神が「熱田神宮略記」と現在のホームページとでは異なっていると理解されます。現在のホームページでは主祭神が熱田大神で、熱田大神とは草薙神剣を霊代とする天照大神とのこと。この内容には理解しがたいものがあります。天照大神の霊代は鏡のはずで草薙神剣ではないからです。

また主祭神が天照大神なら、相殿神として祀られている天照大神はどうなるのでしょう?熱田神宮の本宮に天照大神が主祭神として、また相殿神として祀られているなど、どうにも理解できそうにありません。相当無理な操作をした結果、矛盾を来すような形になったのではと思われます。

背景を調べてみると、尾張造であった熱田神宮の社殿が明治26年に神明造に変っており、これに伴って祭神のありようにも変化が起きたと推定されます。具体的には、明治時代に大宮司の角田氏が熱田神宮の地位の向上を目的として、社殿を伊勢神宮と同じ形式にするよう政府に働きかけた結果、神明造に変わったとのことです。

角田氏の尽力により熱田神宮は伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟としての地位を得ました。けれども、その代償は大きく主祭神は天照大神となってしまい、尾張氏の最重要神社としてのありようは薄められてしまったのです。

よく理解できないのは、社殿を神明造に変えた(この時点で主祭神も天照大神に変えたはず)のは当時の熱田神宮大宮司である角田氏のはずなのに、同氏が著した「熱田神宮略記」では祭神を草薙大御剱としている点です。背後に何があったのか現時点では不明ですが、角田氏としては祭神の矛盾には目をつむり、熱田神宮の地位向上を優先したのかもしれません。或いは、角田氏が大宮司を退任した後に祭神が変更されたのでしょうか?

角田氏の意図は別としても、結果的に尾張氏にとって重要な神社の主祭神が天孫系になってしまった訳です。天武天皇以降の朝廷が尾張氏を軽く見ていた点は既に書いていますが、この状況が近代になっても続いているように思え、ちょっと複雑な気分になりました。利用されて捨てられて、は現代の人間社会においてもしばしば見られる現象です。尾張氏も天皇家から利用され、用が済んだら打ち捨てられた氏族だったのかもしれません。

何となく悲哀を感じさせるお話になったところで尾張氏の謎解きは終了とします。結論はありきたりの尾張氏尾張国内発祥説となりますが、その論証は独自の視点で書けたのではないかと思っています。
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

邇波 彦(邇波国=丹波)―矢田彦(出雲国)―彦佐須伎(出雲国。津守的)―彌母里(出雲国。葛城 円)―荒田(出雲国の国譲り→科野国造)―依網(筑紫国造)―③蔓木 垂見(尾治国造・蔓木縣有り)―④摩理勢(蘇我馬子。尾治国造・蔓木縣有り→蔓木国造)―毛人(蘇我 入鹿。蔓木国造)―⑤神威 毛人(尾治国造)

摩理勢以降朝廷直轄地
一時、神威 毛人に渡るが、朝廷直轄地化しました。

浦嶼 草香―①尾治 栗原―②多々見―乎己志―乎機与―尾張 稚子(浜子・大隅)

Re: タイトルなし

コメント有難うございます。

伊勢海(安八麿アワチマ)の濃尾平野化
天平6年(734)

4/7 大地震(畿内七道地震では無い)
考古学上の発見からも理解可能です。

阪神・淡路大震災級の大地震が起きたとみられる事を、岡山大の今津勝紀・助教授(日本古代史)と隈元崇・助教授(地震学)が明らかに。

大阪を南北に走る生駒断層帯が動いた直下型、マグニチュード7.0~7.5で、7.3の阪神・淡路大震災並みの程度。畿内七道諸国に遣いを出す必要性は無いのです。


天平17年(745) 畿内七道地震


4/27 この夜、地震、三日三晩に及ぶと有り。美濃国、被害甚大。
5/- この月地震殊に甚だし。水も噴出。

大地大いに震い天下の民衆の家が倒壊し圧死者が多数出、山崩れ、川の閉塞、地割れが無数に発生。濃尾平野も陸地化する。

地震の5日後に、畿内七道諸国に遣いを出し被災状況を調べさせ、陵8か所と功績を有した大人の墓の被害状況を調査させた。さらに同日の招書では政事に欠くることなきよう注意し、徳と政治の欠失を省みる様に詔が出された。

邪馬台ヤムトェ国の場所が特定出来ぬ訳
古代の日本は、中国の東の海上に存在し、当時大陸と向き合った東海地方は、古代中国から東海三神山の地と認識され、海岸線も当時は現在とは異なって居ると視なされました。

秦始皇帝を騙した徐福が流布、工作させたと思われ中国の歴史書に記録される様にさせた。

中国・会稽郡から日本列島を「会稽東治の東」とせ60から70度の方向誤認を誘発させて有り、即ち、会稽郡から実際の「東」を目差して進軍した。倭国がその方向に位置すると判断したのだが、日本列島の位置を誤認したため実際の東には存在し無い、と言う事です。

                呉の孫権は将軍衛温と諸萬直を派遣し、武装兵1万を率いて海を渡らせ夷州と檀州(センシュウ) へ派兵。檀州は大海中に存在。

秦の始皇帝が徐福を遣わし、童児と童女数千人を引き連れ、海渡し、蓬莱の神山と仙薬を捜索させたが、徐福達はこの島に留まって帰参せず。今日、代々子孫が伝わって数万戸にもなり、その州に住む者が時々会稽にやってきて、布を商ったり、逆に会稽郡に住む者が大風にあって漂流し、檀州に着く場合も有るという。しかし此の州は遥かな遠方に有り、
捜しあてることができず、ただ夷州数千の住民を連れ帰っただけに」為りました。

*夷州 は琉球の可能性が高い。会稽東冶之東」(会稽=北緯30度。東冶=北緯26度)に至る地域の東には沖縄県が存在。

伊勢海(湾)
8世紀の聖武天皇時代に巨大地震で陸上化しました。
4世紀天皇族が上陸した場所で、天皇家の原境です。
安八麿アワチマ(後世安八)と呼ばれ国生み最初の島の有る場所です。

大垣は王垣で、天皇族に恭順した弥生人の酋長達が志津山に集合し旧東山道を通り邪馬台国征伐(征西)に向かいます。

道教信奉もあり東海地方(当時は中国大陸に東海は面していたとした)から入国するのが、当然でした。秦始皇帝から逃れた徐福も東海地方から入国しました。

国産み神話の神秘の島

古事記と日本書紀に拠ると、世界で最初に生まれたのが、淡路穂狭別(アワジノホノサワケノ)島 即ち淡路島です。


四極(シハツ)山うち越(コ)え見(ミ)れば
 笠縫(カサヌヒ)の 嶋(シマ)榜(コ)ぎ隠(カク)る
 棚(タナ)無(ナ)し小舟(ヲブネ)

 四極山を 越えて見渡すと
 笠縫の 島に漕ぎ隠れてゆく
 棚もない小さな舟が見える


*嶋榜ぎ隠るとは、周囲を水で囲まれた陸地」の意。

*棚無し小舟とは、両側に棚を付けない小さな舟の事。

*笠縫の島 公式所在不詳。
*四極山 公式所在不詳。

笠縫の島とは、邇波氏が、監視する岐阜県本巣市の"下福島"で、346年には扶餘王族の7人が、一本松から上陸し軽見から伽羅の方向を眺めました。

軽見の海岸で

倭 旨は水平線を眺めて、言います。

此の地は空(韓)国に向かい
朝日の直刺す国
夕日の日照る国
此の地は良き地

上陸した島が下福島
西側の島を福島

と呼ぶのも約束事に為って居る訳です。

長屋王(実は親王)の名前の由来地で、古代伊勢湾の天皇族の真の上陸地です。

其の地域の北方(北方郷)とは、渡来して"来た方"の意味合いが有ります。稲葉郡(イナパ古い伝承の有る場所の意味)が、方県郡には渡来した"方々"の意味合いが有ります。

天皇家の原郷なる場所だったが、九州(九つの島からなる)の自治区を奪う為
伝承地も改竄されたのであります。源 神野天皇(嵯峨帝)の時代から開始します。

*鹿児島県羽島崎神社の太郎太郎祭りも移動したものです。

本巣の船木山、長屋は天皇族の上陸地であり・・・改竄の見られる古伊勢湾図の中島郡の中島の北側の突き出た半島が其処で橋島【イナバ=否む波(陸上化)神社の神橋に表現。】でした。

長屋王親王の長屋も其処から
*船木山古墳出土品は大陸と繋がる証拠を提示してくれるでしょう。

香具山も「伊勢の海の大岩」と有る通り、東海地方に存在したのです。所謂藤原京の為に遷座しました。

香具山が、移転したのは「藤原京」遷都の時で領域内に在る山に代えました。伊予風土記には二つ存在したと匂わせてあります。記紀には鉄が掘れた事も書かれており天神が鹿の犠牲の香りを嗅ぐ山でもあります。国見山とは天皇族の上陸地を臨む山であり、天神に此の日本に永住地を与えて下さった事に感謝する行事だったのです。春日山も移転して行った山であり名古屋市守山区東谷山が其れです。二つの神の山の中間に神領の地名が存在します。

天香具山と御春山(春日山)の麓の蔓木邑。

疑惑「 霞たなびく 」「 鴎が飛ぶ 」?

海抜が低く、小高い丘程度の 奈良県の天香具山では、有り得無い話。外国人が来て 失望する有名な場所です。海が当時存在して、天之香具山の麓迄、内津の入江が入って居た伊勢の海の大石 (岩)が傍らに存在した 天之香具山 だけです。

*鴎(味蜂)の飛来地の味蜂間も近いです。

扶餘王族の上陸地として安八麿アワチマと8世紀に漢字を当て嵌めます。方県(縣)郡とは扶餘王族の「方々」の意味でした。方縣津神社の祀神は扶餘王族です。本巣は、本簀モトスで扶餘王族の皇位継承者が住まう場所でも有りました。

「久方の 天の香具山 このゆふべ 霞たなびく 春立つらしも」神威 人麻呂(柿本 人麿)

「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 國見をすれば 國原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の國は」倭 武大君(応神天皇)

「 國原は 煙り立ち立つ 」
とは…集落だけで無く窯業や製鉄等の産業も関係して居ます。眼下には、 蔓木邑 【 後世に畿内の蔓木国造にする 】が在り 春日山 も見えました。 訓原クニハラ神社が、師勝町井瀬木に有ります。

守山の地には勝川、町田、松河戸、堀ノ内表、六留六反田、神領縄境、大留荒子、大留井高上、南気噴等の集落跡に加え窯業等生産遺跡群が存在してます。
御春山(遷座後春日山。現東谷山)が存在して居ります。


遷座した具体的記述。
天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊豫國(愛媛県)天山 アメヤマ となり1つが大倭國天加具山になったと「伊豫國風土記」逸文に記述。

伊勢の海の大石(国見山)で在る天香具山【遷座後に弥勒山(メシヤの語原が、日本に入る迄にミロフ→ミロクと変化)に為る。(現在の岐阜県多治見市富士見町)】で奈良県に。

「神風 カムカゼ の伊勢の海の大石にや這ひもとへる 細螺 シタダミの 細螺の吾子 アゴ よ吾子よ細螺の這ひもとへり うちてしやまむ」日本書紀

神風とは、登場人物達が、遭遇した暴風雨に為りますが、神ヤハウエに導かれ(暴風雨)伊勢に到着したと言って居り、他ならぬ伊勢海での出来事です。

然して、此の歌から編纂関与したのが、景教徒(東方キリスト教徒))と判断出来ます。

※詩篇18編1~15節参照。伊勢の海の大石=ヤハウエは私の大岩。私は其の元に避難します。神風=ヤハウエ、貴方の鼻息の突風に因って…と有ります。

大石とは、日本書紀で、此の歌の説明として「大石を国見丘に喩えたのである」とされて居りますから国見山の傍に有ると理解出来ます。更に内津の内々神社の奥には、巌屋神社が有ります。内々神社裏の庭園奥に、三大巨石が(中央の天狗岩、古事記岩、景向岩)存在します。

『尾張名所図会』内々神社の条。
「大石を穿ちて壇とし甚だ険しくして登る事容易からず」
※大きいので只、一つの山と見られる。(奇怪な巌)
「這い登る蔦も悩むや天狗岩」
と詠んで72歳の横井也有 ヤユウ (時般 トキツラ )翁は進んだ(内津草1773年)

※日本書紀の歌と同じ感想で、海だった時分は、細螺。内陸時代には、朝顔。と言う訳です。巌屋神社は、天岩屋戸に対応する場所です。

本殿背後に庭園、池の東西に出島が、在り中央に中島【蓬莱、亀島。三石…磐座(奥津、中津、辺津)と三大巨石】が、造られ滝の位置は天香具山付近を差して居ります。当時の此の場所迄、伊勢海が入って居たと無言の証をしてます。

香具山の金(鉄)

倭国に到着した扶餘王族が、食事を提供(餐)された枇杷島(朝日)の方面の海から香具山が夕日に輝く情景で、場所を示す具体的な説明です。

金屋子神祭文に「朝日長者」が砂鉄 コガネ を吹けば鉄の沸く事限り為しと記載されて居る様に「金」が鉄だった時代は遥かに長い。

春日井市東北丘陵一帯の等高線80mライン上に黄金伝承が。

朝日射す夕日輝くその下に鳥の松いけたる金は五万両。

西山製鉄遺跡【五万両山-大草城址中間。下原古窯(味美、白山、御旅所、二子山古墳に供給。猿投窯と技術者往来。須恵器窯)背後高台】金谷浦の地。現桃花園団地一角。

西山の畑地から鉄滓 スラグ 出土(地表面採取可能)磁石使用で、相当量採取可能。新日本製鉄(株)名古屋製鉄所依頼の分析所見は…。酸化鉄が多く。製品としては、玉鋼はチタンを含み強靭。鉱滓残留。亜鉛Zn、銅Cu、マンガンMhと砂鉄成分酷似から原料は砂鉄。倭明の剣一千口分採取地か。

朝日射す夕日輝くその下に黄金三升。
狩山戸製鉄遺跡。
(小牧市桃花台丘陵。高根のホウトク産業付近)

白瓷系土器破片も出土。
天之香具山麓の高蔵寺【高倉山から変更されると、南東の山が高座 タカクラ 山と付される。高倉明神→高倉寺→高蔵】の高森山(山頂は古墳)。高座山の麓に五社大明神に天目一箇 アマノマヒトツ 神(金属製鉄神。砂鉄使用製鉄)を祭る。

高森山には、マンガン鉱山(狸掘採掘跡現存)
鉱山跡に接して鉄分の濃い分厚い褐鉄鉱(別名鬼板層・高師小僧。水酸化鉄の鉱物集合体)の脈が浮出。

山下(高蔵寺高校一帯)造成中に沢山の高師小僧(褐鉄鉱)で露頭としてはかなり大きい。
製鉄実験で、充分用を成す事を証明(褐鉄鉱…鉄素材)
高蔵寺中学校裏側で過去、豊富な砂鉄層が在り磁石で、幾らでも砂鉄が採れた。
多治見地区(弥勒山=天香具山)にも黄金(鉄)伝承存在(金山彦の石碑)。

西尾道永居住の大草城址から谷一つ隔てた所にも製鉄遺跡が…。

香具山祭祀と地神祭祀
東谷山(御春→尾治→尾張山)から天香具山へは、鹿乗の船着き場から、犠牲の鹿(花鹿)を乗せて向かいます。

忌 文山は、645年に倭 建(天武帝)の即位式の為、三野後国の香具山に神幣賦課。


神宝(鏡、玉、鉾、楯、木幣、麻)調達氏族。天之香具山は、字の通り天の神に香を具える山で、神が香を嗅ぐ山でも有ります(創世記8章20~21節)。

頂上を切り開いて、祖先の上陸した地を見て(360度のパノラマ。りを聞き、天の神(ヤハウエ)に感謝して羊の犠牲(寒羊を持ち込み犠牲にしてましたが、草を食い尽くす為、鹿にされます)を捧げる山だったのです。祭壇は、切石が使えず、天香具山の土から煉瓦を作り【天香具山の土で平瓮ヒラカ(白瓷)】積み上げた物です(出エジプト20章24~25節)

戦勝祈願の際にも、同じ行為をしました。

紀記には、天香語山命が、高尾張(御春山)の対岸、高倉山*(天香具山)に降臨して往来したと言う。

*愛岐三山は、一ノ倉、二ノ倉、三ノ倉と呼ばれて居り物部氏と関連が有ります。
東谷山の傍らの高倉山は別です。

倭 旨【扶餘王族 騎馬民族の傀儡王。合議政治の実質的な王(大人)の君で大君】―得玉―浦嶼 弟彦(三野後国。香具山管理)―金―坂合―草香

浦嶼 坂合―物 目(三野後国造。香具山管理。倭 武大君を邇波 明国彦の攻撃からスキタイの矢部隊で救出し戦功)―荒山―尾輿―目―萬呂(石上)―乙萬呂―振萬呂―物部 直国

口外無用です。

Re: タイトルなし

膨大な内容のコメント有難うございます。

ただ、これだけの量だとコメント欄にお書きいただくより、ご自身のブログかホームページを立ち上げられて世に問われる方がいいのではないかと拝察いたします。
私自身に関してはこのところやや忙しく、検討したい課題はあるものの、古代史関連の論考を行う時間がありません。そのため、水石や名古屋城の記事でお茶を濁している次第です。
プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2019/08 | 09
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる