松炬島散歩


松炬島(まつきょじま、表記・読み方は色々あり)は古代における初期尾張氏の拠点と考えられる場所ですが、この地名は過去のもので、現在では笠寺台地と称される一帯に相当します。台地内は名鉄線が通っており、南北の範囲は下の画像でほぼ呼続駅と本星崎駅の間となります。古代においては、年魚市潟(あゆちがた)と入海に囲まれ島状態であったため松炬島と呼ばれました。今の言い方では「たいまつ島」となります。

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松炬島の大雑把な範囲を赤で囲いました。画像サイズを大きくしています。

松炬島一帯は製塩が盛んな場所で、塩をつくる際に数多くの塩釜で夜通し火が焚かれたのが地名由来になっているのかもしれません。この地にある千竈(ちかま)と言う地名がそれを表現しているように思えます。(或いは敵の襲撃に備え松明を灯した…)熱田神宮の境内社となる上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)、下知我麻神社(しもちかまじんじゃ)もこの松炬島から大化3年(647年)に熱田に遷座しています。上知我麻神社には宮簀媛命の父で尾張国造・乎止與命(おとよのみこと、乎止与命)が祀られており、この人物が実質的な尾張氏初代と考えられることから、酔石亭主は松炬島を初期尾張氏の本拠地としている訳です。

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上知我麻神社。

現在では両脇に鎮座する大国主社(大黒様)、事代主社(恵比須様)にスポットライトが当たり、毎年1月5日における両社の祭「初えびす」には大勢の商売繁盛を願う人々が詰めかけます。それはそれでいいことではありますが、肝心の乎止与命の存在が忘れ去られているのは実に嘆かわしい事態です。実質的な尾張氏初代の乎止与命に思いを馳せ、尾張国創業祭りでもここで開いたらどうかなどと思ってしまいました。なお、下知我麻神社祭神は乎止与命の妃・真敷刀俾命(ましきとべのみこと)となります。

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下知我麻神社。

過去には松炬島北端部の呼続駅周辺と南端部の本星崎駅周辺を訪問しており、「熱田神宮の謎を解く その8」、「その9」で詳しく書いていますので参照ください。内容面は今読むと思い付きで書いただけの部分もあり、冷や汗物ですが…。

前置きが長くなりましたので、早速松炬島に行ってみましょう。以前に行った場所は北端部と南端部なので、今回はほぼ中央部に焦点を当てることとします。


位置を示すグーグル地図画像。

地図画像では右端に天白川が見えています。ほぼ真ん中に地下鉄鶴里駅がありますね。よく見ると、鶴や桜の名前が付いた地名が数多くあり、この地名は持統上皇の東三河行幸に関連してきます。また、弥生町とか貝塚町などの地名もあり、名前を見ただけでも弥生時代に関係すると理解されます。

取り敢えずは、地図画像の楠町と表示ある場所に行ってみましょう。そこには巨大な楠があり、それが地名となっているのです。地図画像を拡大いただき「コープ楠』と表示ある場所の左隣が村上社で、そこに巨大楠が神のごとく鎮座しています。社殿は楠を守るため移動させたとのことです。

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村上社のクスノキ。ほぼ全景です。

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下の位置から撮影。大きな石碑が気になります。

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歌碑でした。

桜田へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る

桜(地名)の田へ鶴が鳴き渡ってゆく。年魚市潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴き渡ってゆくよ。

この歌の作者は高市連黒人(たけちのむらじくろひと)で、旅先で詠んだ八首の一首となっています。

上記の万葉歌から、鶴田や元桜田町の地名は大宝2年(702年)、持統上皇の東三河行幸に従駕した高市連黒人が三河からの帰路に詠んだ歌に由来していると理解されますね。持統上皇の東三河行幸は謎が多く「東三河の秦氏」シリーズの中でかなり詳しく取り上げていますので、ご興味があれば参照ください。

さて、高市連黒人はどのような立ち位置でどちらを向いてこの歌を作ったのか考えてみましょう。約800年前の鎌倉街道・中の道は、ちょうど村上社の天白川を挟んだ対岸辺り(古鳴海)から船でこの楠を目印に川を渡ったルートとされます。

鎌倉街道の中の道ルートなどは以下に非常にわかりやすく書かれているので参照ください。今後も参照したいと思っています。
http://www.matimoyou.com/15matukozima/15matukozimar.html

高市連黒人の時代に楠はまだなかったのでしょうが、ほぼ同じルートで入海状態の天白川を渡し船で渡り、松炬島に上陸したのでしょう。そして台地に登り村上社辺りから天白川方面を見下ろすと桜邑の地に田が広がっていた。(多分狭い田圃だったと思いますが)

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村上社辺りから東側(天白川方面)を見下ろした画像。かなりの急坂となっています。

画像の交差点の先はもう田圃だったはずで、そのすぐ先は入海状態の天白川となります。そこで空を見上げると、鶴が東から西に桜邑の田に向かって鳴きながら渡っている。高市連黒人は松炬島東端の台地上に立って東側を眺めていることから、松炬島の西端の先となる年魚市潟は見えていないはずです。多分この場所から西側を見ても木々に邪魔されて年魚市潟は見えないと思われます。彼は鶴が餌を採るために年魚市潟方面に飛んでいるのだと考え、年魚市潟は潮が引いたらしいと想像し、そこから上記の歌が生まれたのでしょう。

ここまで村上社を通してざっと松炬島の全体像を見てきました。松炬島は古代の話だと思われるでしょうが、実は現代においても一日だけ松炬島が出現しています。そんな馬鹿なと言われそうですが、以下の図を参照ください。

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1959年の伊勢湾台風による湛水日数図。

この湛水日数図で、やや右寄り下方の白いお芋のような形に見える部分が松炬島です。周囲の灰色は1日だけ海水が滞留したことを示しています。本記事の最初にアップした松炬島を赤丸で囲う地図写真と比較いただければ、ほぼ同じになり、正しくこれが現代の松炬島と理解されます。資料は以下の名古屋市ホームページからお借りしました。
http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000036021.html

伊勢湾台風は東海地方に甚大な被害をもたらしましたが、それにより古代における尾張の地形がはっきり浮かび上がってくるのには驚かされます。

次回も村上社のクスノキの写真をアップします。
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