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日本に秘められた謎を解く その7

日本に秘められた謎を解く
08 /13 2010

今回は平安京遷都までの秦氏を概観しつつ、どのような疑問が出てくるか見ていきましょう。

秦氏の祖は始皇帝とされていますので、そこから系図風に書いてみます。
始皇帝―故亥皇帝―孝武皇帝・・・・・功満王―弓月君(融通王)・・・・秦酒公(雄略天皇期の人物)・・・秦大津父(欽明天皇の時代に活躍)、秦川勝(565年~645年頃の人物で秦氏の中で最も有名)、秦嶋麻呂(聖武天皇の時代の人物)、秦朝元(八世紀前半に活躍した人物)、藤原種継(737年~785年)。一方で、徐福―長男・福岡・・・・秦氏、の流れもあります。

始皇帝と徐福はいずれも不老不死にこだわった人物であり、秦氏として自分たちの祖先に設定するには都合がよかったのでしょう。自分たちに都合のよいものは何でも取り込む秦氏の面目躍如ですね。

弓月君に関しては、以下Wikipediaより引用します。

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)とは『日本書紀』に記述された秦氏の先祖とされる渡来人である。新撰姓氏録では融通王ともいう。
『日本書紀』では応神天皇16年に朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化したという。秦の皇帝(始皇帝とされる)五世の孫であり、渡来後、日本に養蚕・機織を伝えたとされる。


秦酒公は、『日本書紀』によれば雄略天皇に仕えた人物で、庸、調の絹や絹織物を献上してうずたかくつんだので禹豆麻佐(うつまさ)の姓をあたえられたとされています。

秦大津父(はたのおおつち)は『日本書紀』によると、深草に居住していた人物です。欽明天皇(539 年~ 571年)が幼少のころ、「大津父という人物を寵愛すれば、壮年になって必ず天下を治められるであろう」との霊夢を見て、深草の里にいた大津父を探し出し、側近としました。大津父はその後大蔵の司に任じられています。

秦氏は養蚕、土地開墾、金属精錬、土木建築、工芸、芸能などあらゆる分野に亘って専門的、先進的技術を持っていました。また呪術にも長けています。

芸能分野では、聖徳太子の支援者だった秦川勝が大和猿楽の祖とされ、能楽の創始者である観阿弥、世阿弥などはその流れに連なっています。

正倉院文書の戸籍帳によると、8世紀初頭豊前国(福岡東部から大分県北部)仲津郡と上三毛郡の9割以上が秦氏でした。秦氏は雄略天皇期までは大和に在住していましたが、それ以降は大挙して北上し岡田、深草、乙訓などに進出、最終的に山城国に入植しています。他には近江や若狭、河内、播磨、三河でも秦氏の影が濃いようです。いずれにしても、ほぼ日本全土に散っていると考えられます。

秦氏は聖武天皇の大仏建立にも関与していました。これに必要とされる金属は銅、金、水銀となります。銅は宇佐八幡に関連する香春神社(禰宜は秦氏系の赤染氏、鶴賀氏)の銅山などから提供しており、水銀は若狭から調達しています。東大寺の初代別当は良弁(ろうべん)僧正ですが、彼も若狭出身の秦氏です。大仏建立には高度な技術が必要だから、この面でも秦氏の支援なしには実現不可能だったと思われます。

また、聖武天皇が恭仁京を造宮した際の功労者が秦嶋麻呂です。天平14年(742年)造宮録として恭仁京の造営にたずさわり、従四位下の位を得て、太秦公(うずまさのきみ)の姓をあたえられました。

桓武天皇が長岡京を造営した際の造営長官藤原種継の外祖父は、秦朝元であり、長岡京のある乙訓は秦氏の支配地域です。そして、彼らは平安京の造営にも深く関与しました。そもそも荒地の山城国(今の京都)を開墾したのは秦氏であり、大内裏は彼らの居住区上に造られたのです。

さらに、平安京の造宮長官は藤原小黒麻呂ですが、資金は岳父の秦嶋麻呂から出ているし、小黒麻呂の妻は秦嶋麻呂の娘で、その子葛野麻呂は、名前を秦氏の支配地域である葛野から取っているのです。平安京遷都の背後にも秦氏の存在がありました。

ここで疑問が湧いてきます。秦氏は、大仏建立、平安京造営などで莫大な資金や資材、労力を提供しましたが、それに見合う見返りを受けてはいません。というか、受けようとする意志もなかったように思えます。これはなぜでしょう?秦氏は無償で何でも提供するボランティア団体だったのでしょうか?もちろんそんなはずはありません。この謎はいまだに説明がつかず、秦氏研究の専門家を悩ませている問題です。

秦氏は日本史上最大・最強の渡来氏族です。しかし彼らが得た地位はその実力に比較してあまりにも低すぎました。このギャップがどこに由来するのか、今日まで様々な議論がなされていますが、答えは得られていないのです。

ただ、酔石亭主の視点から見ると、見返りを受けなかったことや、実力に比較して地位が低い理由は簡単に説明がつきます。

秦氏は現世的な地位や富に全く興味がなかった、彼らの関心は別の方面にあったということです。疑問に対する答え自体は単純なものでした。しかしです。では彼らの関心はどこにあったのか、なぜ彼らは歴史の闇の中に消えていったのかを考えると、途端に一筋縄ではいかなくなってしまうのです。

これは秦氏に関する大きな謎です。だとすれば、上記の謎の中にも、秦氏の秘密に迫る糸口があるかもしれません。

            ―日本に秘められた謎を解く その8に続く―
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酔石亭主

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