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日本に秘められた謎を解く その8

日本に秘められた謎を解く
08 /14 2010

その7において、平安京遷都に最大の功績があった秦氏は、何の見返りもないまま歴史の闇の中に消え去ったと書きました。彼らが消えた裏には何らかの事情があったと思われますが、その検討は一旦横におき、今日は平安京遷都の経緯を見ていきましょう。

秦氏は雄略朝まで大和の葛城地方などに在住し、五世紀後半頃には岡田、乙訓、深草などを経由して山城国に進出しました。(賀茂氏と同一歩調を取っていたようです)広隆寺のある太秦や伏見区の深草が、彼らの主要エリアです。全国に3万2千社を数える稲荷神社の総元締め伏見稲荷大社も秦氏の創建になるものです。また、桓武天皇が長岡京を造営した乙訓周辺は、秦氏の拠点の一つでした。

彼らが進出したことにより、当時は単なる荒れ野でしかなかった京都が日本の中枢に大変身しました。秦氏は渡来の技術によって葛野一帯の開墾に尽力し、大堰川の築堤工事を推進し、千年の都の礎を築きます。これだけを見ても、彼らの役割の大きさが読み取れるでしょう。

平安京遷都の問題は、桓武天皇の皇位を巡る争いに端を発しています。その争いの中、天災が相次ぎ、桓武自身も病に倒れます。深刻な事態に直面した桓武は、お祓いなどの手を尽くし、天応元年(781年)、ようやく皇位を手中に収めました。そして延暦3年(784年)、まだ造営途中の長岡京に遷都します。

次に後継の問題があります。父光仁の遺言で、早良親王(さわらしんのう)が桓武天皇の皇太子になると決まっていましたが、桓武は自分の息子である安殿親王(あてしんのう)に皇位を継がせようと考えていました。天皇は、早良親王に藤原種継(長岡京の建設長官)暗殺の濡れ衣を着せ、幽閉します。親王は抗議の断食を行い、10日後に最期を遂げるのです。

桓武の思惑通りと思いきや、これから悲劇が始まりました。夫人の藤原旅子が死去したのに始まり、天然痘の流行や伊勢神宮焼失などの大事件が勃発します。これらの事件は、怨霊と化した早良親王の祟りによるものだとの噂が広まり、天皇は怒りを静めるためあらゆる手段を講じます。しかし、見合う効果は得られません。

万事休した天皇は、怨霊の呪縛が及ばない土地への遷都を決断。延暦13年(794年)、平安京への遷都が断行されます。天皇は怨霊の祟りをいたく恐れ、都の造営に当たって二重三重の対策を講じ、平安京は怨霊封じの都となりました。 

しかし、ここでも疑問がついて廻ります。平安京の現実は、怨霊が跋扈する魔界都市のはず。平安京が怨霊封じの都なら、なぜ魔界都市に変貌してしまったのでしょう?どう考えても辻褄が合いません。また、平安京遷都を裏で推進したのは他ならぬ秦氏です。ということは、秦氏も平安京の怨霊封じに一枚噛んでいると考えられます。それにも拘らず、平安京は魔界都市へと変貌しました。秦氏の行動と結果にも、矛盾する部分があるのです。

これらの矛盾こそが、平安京に伏在する大きな謎を暗示しているように思われませんか?


以上、天皇が平安京への遷都を断行した裏には、やはり隠された事情がありそうです。一般に流布した説を白紙に戻し、平安京遷都の真の理由を検討し直す必要があるでしょう。では、怨霊封じの都平安京が一方では魔界都市とされる矛盾は、どのように再構成し直せるのでしょう?謎の真相に迫るにはまず、桓武天皇が構築した平安京の怨霊封じの仕掛けを知る必要があります。

怨霊を封じるため、平安京には前代未聞の仕掛けが構築されています。桓武天皇は山城国葛野郡に都を定めるに当たって、中国の風水思想を用いました。風水によれば、北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白虎を配する地がよいとされます。四神相応の地ですね。京都は三方を山に囲まれ、南に傾斜しています。これは山からの気が都に流れ込み、南へ抜けていく理想的な形。よって京都は、都を構えるに最適な地とされているのです。

次の対策として桓武天皇は、神仏を挙げて怨霊封じの仕掛けを作りました。古代の信仰は山の磐座をご神体とする例が多いのですが、天皇は、京都にある東西南北の磐座の下に『一切経』の経文を埋めます。これにより古代信仰の霊力と、仏の霊験を最大限引き出すことになるのです。

これだけ手を尽くせば天皇もひと安心、とは考えなかったようです。まだ安心できない天皇は、スサノオを引っ張り出します。スサノオに大将軍の名前を与え、都の東西南北に配しました。例えば大将軍八神社ですね。この神社は旧大内裏の西北角に位置していることから、塞神を祀った祭場が、疫神の侵入を防ぐ目的で、王城鎮護の神祠になったもの。大将軍は陰陽道で祀る八将神の一つです。

愈々鉄壁の防御陣が敷かれたと思われるでしょうが、なお不安の種は尽きません。怨霊から身を守るには、鬼門を封じる必要があるからです。鬼門は艮(うしとら)の方角、すなわち北東方面に当たります。そこで、上賀茂神社、下鴨神社の改築を行い、早良親王の怨霊を慰める上御霊神社、辻の神である幸神社などを配置しました。

鬼門の北東ラインは、そのまま秦氏が創建した松尾大社から蚕の社、大内裏、下鴨神社の糺の森、比叡山の日吉大社を直線で結ぶ夏至の日の出遥拝線になります。つまり鬼門ラインに秦氏系か秦氏に関連する神社が並び、都の守りを固める構成となっているのです。
   
鬼門まで封じれば、もう完璧、と太鼓判を押したくなりますが、桓武天皇は最後のダメ押しとして、最澄に比叡山延暦寺を開かせます。比叡山は鬼門の北東ライン延長線上にあるため、延暦寺を平安京守護の大霊場として配置したことになります。

天皇は怨霊を封じるため平安京に鉄壁の防御陣を敷きました。それなのに防御陣は脆くも崩れ、平安京は魑魅魍魎が跋扈する魔界都市に変貌したのです。

さてどうしましょう。平安京の怨霊を封じる仕掛けを見ていくだけでは、謎は全く解けないということになってしまいました。

          ―日本に秘められた謎を解く その9に続く―
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酔石亭主

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