邪馬台国と大和王権の謎を解く その2


近鉄桜井駅前で借りたレンタサイクルで駅の北東方面に向かいます。今回の主な目的は欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)跡、仏教伝来の地、海石榴市などの所在地を確認することです。現段階における推測に過ぎませんが、この三ヶ所は同じ地域においてワンセットで存在していたと思われ、その前提で検討します。(注:JR桜井駅前の案内板では金刺宮跡と仏教伝来地がワンセットで大和川南岸にあり、海石榴市は北岸となっていました)


桜井駅の北東方面を示すグーグル地図画像。

高架となった105号線と大和川がほぼ並行しており、105号線が大和川を渡る辺りの高架下に磯城嶋公園があるので行ってみましょう。地図ではゲオ桜井店とある北側付近です。


磯城嶋公園の位置を示すグーグル画像。

画像の大和川と高架の105号線に挟まれた小さな緑地が磯城嶋公園(105号線の南側も同じ公園)で、この公園の一番奥に石碑がありました。やや探しにくい場所になります。かつてはもっと西側の桜井市上下水道部浄水場の敷地内に設置されていたようです。

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石碑です。

右端の石柱に、「磯城邑伝承地」、真ん中の石柱に「欽明天皇磯城嶋金刺宮址」と刻まれています。左端の石碑には、「仏教公傳の地 初瀬川の南に、磯城嶋金刺宮がある。仏教が正式に渡来したのはこの都である、日本仏教発祥の地である」とありました。金刺宮と仏教伝来地がセットになって大和川南岸にあったと確認できる記述で、海石榴市が近くにあれば三点セットの調査完了ですが、JR桜井駅前の案内板では大和川北岸になっています。困りましたね。この問題は後でじっくり考えるとして、なぜ石碑の設置場所がつい最近になって移動したのでしょう?

何らかの調査により、桜井市上下水道部の敷地より現在地の方が金刺宮址となる可能性が高いので、こちらに移転されたのでしょうか?どうもそうではなさそうです。多分、上下水道部の敷地整備により石碑が邪魔になったため公園内に移さざるを得なくなったと思われます。

欽明天皇の宮殿は金刺宮ですが、その前に磯城嶋の地名が入り、磯城嶋金刺宮となっています。従って、金刺宮の位置を知るには、磯城嶋の範囲を特定しなければなりません。磯城嶋は敷島で、日本の国号の別称でもあり、この地の重要性が窺えます。本居宣長は「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」などと歌っています。彼は日本人の心を朝日に照り映えて一瞬の美を示す山桜の花にたとえたのでしょう。敷島が大和の中心であり、同時に日本人の心の中心でもあると理解されますが、心的な側面は横に置き、敷島について具体的に見ていきます。

グーグル地図によれば、大和川右岸(川の北側)に金屋敷島の地名が見られます。磯城嶋金刺宮は前回の案内図によれば大和川の左岸(川の南側)ですが、現代における敷島の地名は大和川右岸(川の北側)であり、こちら側の可能性もありそうです。また前回のJR桜井駅前案内図の右端近くには慈恩寺や忍坂(恩坂)の地名表示が見られますが、表示のない龍谷なども含め中世には磯城嶋とされていたようです。

ちなみに磯城嶋の名は、大和川とその南の栗原川に挟まれた島のような地形から付けられたとのこと。前回の案内図で、南は外山、西は粟殿辺りまでの区画が本来の意味における磯城嶋になるのではと推定します。


奈良盆地に入った大和川流域を示すグーグル地図画像。

拡大地図を表示をクリックし、+を2回程度クリックしてみると、大和川北岸の少し上、天理教の敷地が現在の金屋敷島になっています。また外山、粟殿の位置関係も確認ください。南北に走る169号線の東側、大和川とその南の栗原川に挟まれた一帯が古代における磯城嶋になると思われます。

さてはて、欽明天皇の磯城嶋金刺宮は大和川の右岸、左岸のどちらにあったのでしょう?或いは大和川を少し遡った慈恩寺の辺りなのでしょうか?最初からややこしい問題に当たってしまったようです。別の解説板を見ていきます。

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解説板。

「大和志」、「大和志料」によると現在地付近(大和川南岸)に金刺宮があったことになり、「太子伝玉林抄」によれば、現在地から東北約100mの字垣ノ内にあったとのことです。現在地(磯城嶋公園)から東北100mだと、大和川北岸の慈恩寺になり、大和川の両岸が金刺宮の推定地となってしまいます。

実は磯城嶋公園の住所も桜井市慈恩寺で、その西端部に位置していますが、現在地から約500m北東には内垣内の地名がありました。この内垣内が金刺宮のあった垣ノ内のことでしょうか?内垣内の範囲が大和川の北岸まで広がっていれば、川岸から天理教長谷川分教会の敷地辺りが金刺宮になるのかもしれません。

ただ、桜井市三輪にも出垣内の地名があり、その東側に上市上、北側に上市下の地名があります。上市は海石榴市を意味していると推定され、その場合には金刺宮が出垣内にあった可能性も浮上してきます。実にややこしいですね。


出垣内、上市上、上市下の位置を示すグーグル地図画像。

「大和志料」はデジタル化されており、下巻のコマ番号8に出ていますので以下を参照ください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950814

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コマ番号8です。読みやすいように画像サイズを大きくしています。

これを見ると金刺宮に関して、崇神帝の皇居を磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)と称し址金屋にあり、欽明帝の皇居を磯城金刺宮と称し址同所の山崎にあり、と書かれています。つまり大和川北岸の金屋の山崎が磯城金刺宮となります。JR桜井駅案内板や磯城嶋公園の石碑とは異なる見解です。

けれども「大和志料」のその後には、長谷へ参れば山崎に小堂あり、…中略… 金刺宮は河の向こうに竹原ありそのうちに小社あり、これが欽明天皇内裏の跡なり、などとも書かれています。こちらは川の南岸のようにも思えてしまい、混乱の極致となってしまいました。(注:「大和志料」の記述内容は、酔石亭主の能力ではきちんと読み取れません)

現時点で既に磯城金刺宮の候補地は、桜井市慈恩寺の内垣内、桜井市三輪の出垣内、桜井市外山の上下水道部敷地から磯城嶋公園一帯、桜井市金屋の山崎、桜井市金屋の山崎の川向うなど幾つもの候補が登場しています。金屋の山崎がどこかわからないのが痛いところです。多分地元の郷土史家の方ならわかるはずですが…。

なおあくまで現代における状況ですが、大和川南岸沿いの一部分も桜井市金屋の域内に含まれます。逆に石碑の建っている磯城嶋公園は既に書いたように桜井市慈恩寺となります。あまりにややこしいので、この問題は一旦横に置いて公園内の別の解説板を見てみます。

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仏教公伝に関する解説板。画像サイズを大きくしています。

仏教公伝に関し「日本書紀」では552年とされていますが、538年が有力な説とのことです。

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大和川です。

大和川は大和高原と笠置山地が源流で、初瀬の谷から三輪山の南端部を下り奈良盆地に出た後は蛇行しながら西に向かって流れています。そして盆地内の佐保川など各河川を合わせつつ生駒山系と葛城山系の間を抜け、大阪市と堺市の間で大阪湾に流れ込んでいます。流域は、古代における様々な歴史の舞台となりました。もちろん、古代と現代とではその流路に違いがあり、例えば現在検討中の三輪山南麓から奈良盆地に出る一帯においては、もっと南側を流れていたようです。

三輪山の北側を流れる纒向川と合流するまでは初瀬川の名前が正しいと思われます。ただ本記事では大和川で統一して記載しますので、この点お含み置き下さい。大和川に沿って少し下ると小さな橋があり、解説板がありました。

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大和川に架かる歩行者専用の馬井出橋。

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海石榴市(つばいち)の解説板。

この解説板では海石榴市は大和川南岸の周辺にあったことになります。今までに見てきた石碑や解説板に限って判断すれば、金刺宮と仏教伝来地、海石榴市は大和川の南岸に位置します。もちろん、前回で見たJR桜井駅前の案内板とは整合してはいません。でも、どこに位置するにせよ、上記の三ヶ所が近接した場所にある点は間違いなさそうです。と言うことで、大和川を渡りましょう。川を渡るとすぐに大きな石碑が目に入ります。

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仏教伝来地の石碑。

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解説板。画像サイズを大きくしています。以下に内容を記載します。

ここ泊瀬川畔一帯は、磯城瑞籠宮、磯城嶋全刺宮をはじめ最古の交易の市・海柘榴市などの史跡を残し、「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地でありました。
そしてこの付近は難波津から大和川を遡行してきた舟運の最終地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。
欽明天皇の十三年冬十月、百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契らを遣わして、釈迦仏の金銅像一軀、幡蓋若干、経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。この場所は、仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地であります。また、「推古天皇十六年、遣隋使小野妹子が帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬七十五頭を遣して、海柘榴市の路上で額田部比羅夫に迎えさせた」と記されているのもこの地でありました…以下略

この解説板は大和川北岸に設置されていることから、仏教伝来の百済の使節は大和川北岸に上陸し、すぐ南のつまり南岸の磯城嶋金刺宮に向かったことになりそうです。磯城嶋金刺宮が大和川南岸にあったのなら、港も当然南岸でなければならず、仏教伝来地も南岸となるはずです。困りましたね。別の解説板を読んでみましょう。

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解説板。

金屋から城島小学校にかけての泊瀬川(はつせがわ)一帯は欽明天皇・磯城嶋金刺宮が置かれたところで云々とあります。城島小学校の所在地は桜井市外山330で、仏教伝来地の石碑から大和川を渡ったほぼ真南に位置しています。この解説では場所の特定を避け、大和川北岸、南岸のどちらも磯城嶋金刺宮跡地の可能性があるように書かれています。(注:大和川南岸でも川沿いの一部地域が金屋となっていますが、解説板の設置場所から考えると北岸の金屋から南岸の城嶋小学校にかけて、となりそうです)事態はさらに複雑な様相を呈しているようです。

この解説板のようにあまり難しく考えず、大和川が初瀬谷を抜け奈良盆地に入る辺りの北岸或いは南岸に金刺宮、仏教伝来地、海石榴市があったとしておけば話は簡単ですが…。

         邪馬台国と大和王権の謎を解く その3に続く

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