邪馬台国と大和王権の謎を解く その3


前回は磯城嶋金刺宮、仏教伝来地、海石榴市の所在地に関してどうしようもなく悩まされました。悩んでいても仕方ないので、今回は仏教伝来地碑の場所から199号線に入り少し進み右折します。この道は多分山の辺の道となるはずです。


大和川北岸を示すグーグル地図画像。

地図画像に海石榴市観音堂とあります。名前からしても海石榴市と関係しそうなので、行ってみましょう。すると観音堂へ曲がる角に解説板が立ててありました。

011_convert_20160608051245.jpg
解説板。内容は以下に記載します。

ここ金屋のあたりは古代の市場海石榴市のあったところです。そのころは三輪・石上を経て奈良への山ノ辺の道・初瀬への初瀬街道・飛鳥地方への磐余の道・大阪河内和泉から竹ノ内街道などの道がここに集まり、また大阪難波からの舟の便もあり大いににぎわいました。春や秋の頃には若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣(うたがき)は有名です。後には伊勢・長谷詣でが盛んになるにつれて宿場町として栄えました。

解説板は金屋周辺を古代の海石榴市があったところとしており、「その1」でアップしたJR桜井駅前の案内板と一致する記述となっています。海石榴市、磯城嶋金刺宮、仏教伝来地が三点セットとなっている前提で考えれば、これらが大和川北岸と南岸のどちらにあったのか、今もって特定できないことになります。

015_convert_20160608052557.jpg
海石榴市観音堂。

014_convert_20160608050439.jpg
狭い境内の様子。境内にある黒っぽい石は青面金剛のようで、寛政と読めます。

013_convert_20160608052419.jpg
解説板です。観音堂に曲がる角の解説板と概要は同じです。

海石榴市観音堂を出て海石榴市の関連しそうな場所を探します。桜井市三輪には前回で書いたように上市下、上市上、出垣内の地名がありました。この周辺で何かヒントがないかチェックしたところ、上市下の120mほど北に恵比寿神社が鎮座していました。


鎮座地を示すグーグル画像。社名表示はありません。

IMG_2698_convert_20160608050653.jpg
恵比寿神社の鳥居。

IMG_2699_convert_20160608050739.jpg
拝殿です。

IMG_2701_convert_20160608050822.jpg
境内社の琴比羅神社。

IMG_2702_convert_20160608050855.jpg
解説板。

日本で最初に開けた海石榴市(つばいち)ゆかりの流れを汲む恵比寿神社、と書かれています。恵比寿神社は海石榴市とどんな関係があるのでしょう?多分、市の守護神的な役割を担ったのではないかと思われます。恵比寿は七福神の一人で、福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神とされます。しかしこの信仰の始まりは平安時代以降と思われ、古代の話ではありません。

恵比寿神社鎮座地は一応大和川北岸になりますが、地域的には三輪であり、海石榴観音堂のある金屋とは場所が異なります。ただ恵比寿神社の場合は、海石榴市の可能性がある上市下の約120m北側に位置することから、一定の根拠は有しています。どうにもややこしいですね。

こうなると何か別の資料を参考にするしかありません。恵比寿神社鎮座地から直線距離で600mほどの桜井市立埋蔵文化センターにて参考資料を探します。すると、「三輪山を仰いで」と言う地図付きの資料がありました。早速購入して読んだところ、「海石榴市」に関しては桜井市大字金屋付近とあり、金屋集落の東側にある海石榴市観音堂だけが、往時の市の名をとどめている。と書かれています。

また「恵比寿神社」に関しては社伝によれば、「延長4年(926)の長谷山崩れの際に金屋付近が流失し、海石榴市がなくなるに及んで市場を三輪に開くようになり、市神もここに遷したとされる」とのこと。この新情報は参考になりそうです。

上記の記事は、926年に長谷山が崩れて土石流が大和川を流れ下り、金屋にあった海石榴市が壊滅的な打撃を受けたので、三輪の恵比寿神社付近に海石榴市を復活させたと読めます。だから恵比寿神社の真南に上市下、上市上の地名が残っているのです。

但し、上市下、上市上の海石榴市は926年以降のものであり、かなり後の時代の話となってしまいます。また、上市下、上市上の地名が平安時代頃に移転した海石榴市にちなむものであれば、近くの出垣内に金刺宮があったとは考えられません。上市下、上市上、出垣内一帯は欽明天皇の時代における海石榴市、仏教伝来地、金刺宮とは関係ないと確認されます。

海石榴市の場所には時代による変遷があると理解した上で、もう少し金刺宮の所在地を検討していきましょう。ここからは、地名を頼りに探っていくことにします。大和川の南岸には粟殿の地名があります。最初は(あわどの)だと思っていましたが、実は(おおどの)と読むとのこと。となると、栗殿は大殿となり、天皇のお住まいである宮殿を意味していそうに思えてきます。


栗殿の位置を示すグーグル地図画像。

栗殿の区域内をチェックすると粟殿宮元町、粟殿北大宮町、粟殿南大宮町などの地名が存在していました。宮元も大宮も宮殿と関係しそうな言葉です。やはり粟殿とは大殿であり、「日本書紀」の崇神天皇6年条には、天皇の大殿(みあらか)の内に並祭る。と言った記事があることからも、粟殿は宮中を意味していると考えられます。

粟殿一帯の地図を見ても、現地を見て回ってもそれらしき痕跡はもちろん皆無です。全くの推測ですが、地名の位置関係からして桜井郵便局の東側辺りがかつての金刺宮ではなかったかと想像します。となると、海柘榴市や仏教の伝来地も粟殿近くにあった可能性が指摘されます。

218_convert_20160608050537.jpg
栗殿の域内にある大神神社の写真。

近くには天理教談山分教会があります。大神神社や天皇の宮殿候補地の近くにはなぜか天理教の施設が多いように思えてきました。

ここまでの検討で欽明天皇の磯城嶋金刺宮は粟殿にあった可能性が浮上していますが、地名だけでは決定打になり得ません。この問題をもう少し別の視点から捉えるため、時代により変遷がある海石榴市の場所から押さえていきましょう。日本国の実質的初代天皇である崇神天皇の宮殿・磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)は大和川の右岸(北岸)の金屋に位置しており、それは「大和志料」にも書かれている通りです。

大和川北岸に当たる金屋の一帯は中国大陸と朝鮮半島からの情報や文物が北九州、瀬戸内海、難波津を経て大和川を遡り、大和へともたらされた極めて重要な交通路の終着点になっています。(注:これは大和川南岸でも同様です)その他にも山の辺の道、上ツ道、山田道、初瀬街道などが交差する交通の要衝でもありました。

そうした場所の特性からさまざまな物資や物産が周辺に集まり、また各地に運ばれたため、日本国最古の交易市場が成立しました。それが海柘榴市(つばいち)です。さらに、海石榴市の名前は三輪山に多く自生する椿にちなんでいるとされます。

市の名前が三輪山の椿にちなんでいるとすると、当初の海石榴市は崇神天皇の宮殿・磯城瑞籬宮伝承地となる金屋(大和川の北岸)にあった可能性が高くなります。つまり、実質的な初代天皇となる崇神天皇の宮殿付近に市が立ち、それが後代になり海石榴市として発展していったと推定されるのです。古代初期からある時期に至るまで海石榴市は金屋にありました。では、海石榴市観音堂の名に象徴される金屋の海石榴市は、いつ頃別の場所に移転したのでしょう?

海柘榴市の名前が最初に登場するのは「日本書紀」の武烈天皇即位前記となります。この間の事情を以下Wikipediaより引用します。

仁賢天皇7年正月3日に立太子する。同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。

泊瀬列城宮の所在地は桜井市出雲で大和川上流の北岸となります。仁賢天皇の石上広高宮所在地は天理市石上町で大和川周辺からはかなりの距離があります。歌合戦云々はフィクションだとしても、武烈天皇が皇太子のとき、既に大和川北岸に居住していたのかもしれず、その流れで宮殿を泊瀬列城宮に定めた可能性があります。そうした点を勘案すると、第25代で500年代初め頃の人物と想定される武烈天皇の時点においても、なお海柘榴市は大和川北岸の金屋にあったような気がします。石上広高宮の詳細は以下を参照ください。
http://ryobo.fromnara.com/palace/p024-1.html

一方Wikipediaを読むと、海石榴市に関し古代道である山の辺の道の起点に当たる場所として以下の記述がありました。

現在のその道の起点は、海石榴市(つばいち、椿市:つばきのいち)である。古代には、海石榴市の八十(ヤソ)の衢(ちまた)と称されたところで、桜井市粟殿(おおどの)を中心とした地域であった。平安時代中期の延長4年(926年)には椿市観音堂付近が起点の地になった。

Wikiの記事では、海石榴市は桜井市粟殿を中心とした地域とあります。粟殿は既に検討してきたように、金刺宮の有力な所在地候補となっています。ここまでの検討で、少しずつ霧が晴れてきたような気がしてきました。

あくまで推定ですが、崇神天皇の時代に海石榴市の原型となる市は金屋にあり、第25代・武烈天皇の時代になってもなお市は金屋にあったと思われます。そして第29代・欽明天皇の時代になって金刺宮が大和川南岸となる粟殿に建てられました。

これに伴って金屋にあった海石榴市も宮殿に近い粟殿付近に移転したと考えられます。仏教の伝来は欽明天皇の時代なので、伝来地も大和川左岸(南岸)となるはずです。従って、欽明天皇の時代には海石榴市、仏教伝来地、磯城嶋金刺宮のいずれも、現在の粟殿付近にあったことになりそうです。

一旦大和川南岸に海石榴市が移転した以上、それ以降も海石榴市は粟殿近くにあったのでしょう。けれども時代が下った延長4年(926年)、大和川を流れ下った土砂流によって市は破壊され、三輪の上市下から上市上付近に移転したのです。その証明となるのが既に書いた恵比寿神社の社伝です。ただ社伝には金屋付近が流失し、海石榴市がなくなるに及んで市場を三輪に開くようになり、と書かれていました。この文面に従えば、三輪に移転する以前は金屋に市があり、粟殿ではないことになります。

酔石亭主は土石流の被害を受けた海石榴市は粟殿にあったと考えています。理由は金屋が三輪山山麓であり多少標高が高く、土石流が流れた場合被害を受けやすいのは平地となる粟殿と推定されるからです。地図で見ても大和川と栗原川に挟まれた一帯は幾筋もの小河川が見られ、粟殿付近では特に多くなっています。

以上を纏めれば、崇神天皇から欽明天皇の前まで海石榴市は金屋にあり、欽明天皇が粟殿に宮殿を建てたことから海石榴市は粟殿付近に移転し、仏教伝来地も粟殿付近となる。延長4年(926年)の土砂流により粟殿の海石榴市は壊滅し、三輪の上市下、上市上付近に移動した。となります。このように考えれば、ややこしさの極致とも言える磯城嶋金刺宮、海石榴市、仏教伝来地の問題もほぼ整理できるのではと思います。

        邪馬台国と大和王権の謎を解く その4に続く

スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる