邪馬台国と大和王権の謎を解く その4


磯城嶋金刺宮、海石榴市、仏教伝来地の問題では一定の結論は出せたものの、悪戦苦闘を強いられてしまいました。こんな体たらくで邪馬台国と大和王権の謎が解けるのか不安になってきます。逆に見れば、それほどこの地域には面白い謎が詰まっているとも言えそうです。

さて、日本古代史における最も面白い謎が詰まっており、最も重要な聖地と考えられるのが、大和川と纏向川に挟まれた三輪山西麓一帯(水垣郷)となります。その南端部に当たる金屋は崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)があったとされる場所です。磯城と言う地名が元になった敷島は日本の古い国号でもありました。ここからも一帯の重要性が窺えます。

磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)は「古事記」によれば師木水垣宮であり、東が三輪山、西、南、北が大和川と纏向川に囲まれた水垣の宮(水によって防御されている宮)を意味していると思われます。もちろんこれは政治的・軍事的視点からの字義解釈であり、一般的には一定の地域を神聖なものとして区画する垣や、神事を行う場所の垣を意味しています。

つまり、東が三輪山、西、南、北が大和川と纏向川に区画された水垣郷は、政治的、軍事的、祭祀及び宗教的な意味における古代日本の大聖地となっているのです。位置関係は桜井市立埋蔵文化財センターが発行した以下の三輪山西麓ガイドマップを参照ください。

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三輪山西麓ガイドマップ。画像サイズを大きくしています。

この地図で、三輪山、大和川、纏向川に区画された水垣郷の位置関係が明確に理解されます。水垣郷内には多くの遺跡が見られますが、全く遺跡がない部分もある点は要注意です。郷内には金屋、三輪、茅原、芝、箸中の五つの地区があり、いずれも重要なので順次巡っていく予定です。一帯の解説は以下の桜井市立埋蔵文化財センターのホームページを参照ください。
http://www.sakurai-maibun.nara.jp/yorimichi/yorimiti001.html

記紀においては神武天皇が初代となりますが、実質的初代とされるのが崇神天皇です。天皇の宮殿である磯城瑞籬宮は「その2」でアップした「大和志料」の城島村の項によれば、金屋にあることになります。けれども、金屋の範囲は結構広いのでもう少し絞り込む必要があります。あれこれチェックした結果、桜井市観光協会のホームページには以下の記載がありました。

江戸中期の史書である大和志(1736年)に、「三輪村東南志紀御県神社西に在り」と記されている…以下略

ホームページは以下を参照ください。
http://www.sakurai-kanko.com/%E5%90%8D%E6%89%80%E6%97%A7%E8%B7%A1/%E5%B1%B1%E3%81%AE%E8%BE%BA%E3%81%AE%E9%81%93/%E5%BF%97%E8%B2%B4%E5%BE%A1%E7%9C%8C%E5%9D%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

三輪村の東南で、志紀御県神社(志貴御県坐神社)の西となれば、宮殿跡の位置はかなり絞り込めそうです。その跡地がどこにあるのかをチェックするため、金屋に向かいましょう。


金屋一帯の位置を示すグーグル画像。

画像の下側に金屋敷島とあり、この一帯が磯城瑞籬宮の最有力候補地だと思えます。理由は、崇神天皇の磯城瑞籬宮は金屋にあったとされ、加えて敷島は日本の古い国号となるからです。さらに、金屋敷島なら三輪村の東南で、志貴御県坐神社の西に位置しています。結論的には天理教敷島大教会の敷地付近が磯城瑞籬宮跡地となりそうです。志貴御県坐神社は表示ありませんが和悦館の東側になり、地図の+印をクリックいただければ表示されます。と言うことで、天理教会を少し見ていきます。

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天理教の門。背後は巨大な敷島大教会の建物です。

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背後には優雅でなだらかの曲線を持つ三輪山が聳えています。

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三輪山をズーム。

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天理教の大教会。

残念ながら、きれいに整地され磯城瑞籬宮の痕跡は何もありません。

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大教会をズーム。ともかく立派過ぎて驚かされます。

敷島大教会の所在地は桜井市金屋806-1となります。三輪山西麓ガイドマップによれば、三輪駅辺りを北限として南限の天理教会までの広い区域が三輪遺跡となっていました。三輪遺跡がそのまま磯城瑞籬宮とは思えませんが、この一部が宮殿跡になるのでしょう。

教会の間の道を抜け坂を登ると、崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、志貴御県坐神社が伝承地)跡地に至ります。志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社は山の中になり、宮殿を設置できるようなスペースはないはずなので、実際の宮殿跡は既に書いたように、現在では何の痕跡もない天理教敷島大教会の敷地内或いはその周辺にあったと思われます。

あくまで想像ですが、天理教は古代の天皇の宮殿や有力豪族の居館跡地に教会を建てているような気がしてなりません。例えば粟殿においても、桜井郵便局のすぐ近くに天理教談山分教会(所在地は桜井市大字粟殿487番地)がありますし、桜井市慈恩寺の内垣内近くにも長谷川分教会がありました。天理市の天理教会本部一帯は物部氏に関係する重要な場所となっています。敷島大教会の場合は大神神社との関係も想定されます。まあ、これは本題と関係ないので次に進みましょう。

さて、大教会の間の小道を抜けると志貴御県坐神社の鳥居が建っていました。

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鳥居。左側は天理教会の建物。

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天理教会の建物。

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志貴御県坐神社の鳥居。

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解説板。

磯城瑞籬宮跡(しきみずがきのみやあと)とあり、わかりやすい説明になっています。ここがいかに交通の要衝であったか理解される内容です。

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拝殿。

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宮跡を示す石柱。

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本殿。

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磐座でしょうか。

崇神天皇の宮殿跡とされる志貴御県坐神社を見てきましたが、すぐに幾つかの気になる点や疑問が頭に浮かびました。まず、宮殿跡地とされる志貴御県坐神社祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと、以降ニギハヤヒと表記)となっています。ニギハヤヒは物部氏の遠祖であり、三輪山の主である大物主神はその名前からしても、ニギハヤヒを意味すると考えられます。一方で、神武天皇大和平定の中に出てくる弟磯城が、「日本書紀」に「弟磯城、名は黒速を磯城県主となす」とあることから、祭神は弟磯城の可能性も否定できません。

崇神天皇は日本古代における実質的な初代天皇とされています。そして、三輪山は古代日本における最大の聖地であり、その聖なる山を正面から望む三輪山西麓もまた神聖な場所と言えるでしょう。それなのに、崇神天皇の磯城瑞籬宮は三輪山西麓正面ではなく南に偏った位置にあります。西麓正面に宮殿を築かなかったのはなぜでしょう?天皇の陵墓もまた同様に三輪山西麓の正面ではなく、大和川に合流する纏向川の北側に築造され三輪山山麓からは外れています。やや違和感があり気になるので、この問題を少し考えてみます。

志貴御県坐神社の社名は志貴御県すなわちこの地域(磯城=志貴)の県を意味し、磯城県主(しきあがたぬし)は「先代旧事本記」の天孫本紀によると、ニギハヤヒ7世孫の建新川命又はその兄十市根命の子である物部印岐美公を倭志紀県主の祖としています。言い換えれば、物部氏の遠祖となるニギハヤヒの子孫を祀る神社の足下に崇神天皇の宮殿があることになります。それも当然で、崇神天皇自身、「日本書紀」によれば、母の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は物部氏の遠祖大綜麻杵(おほへそき)の娘となります。

一方、初代の天皇とされる神武天皇の皇后は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で、 大物主神の子である事代主神の娘に当たります。「古事記」では、大物主神と勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)の子が比賣多多良伊須氣余理比賣媛(蹈鞴五十鈴媛命)となります。こう並べると両天皇は大物主神(ニギハヤヒ)との関係が深く、しかも似たような雰囲気が漂います。気になる点は他にもあります。

「日本書紀」によれば、神武天皇と崇神天皇はいずれも「はじめて国を治めた王」という意味を持つ始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)の別名で呼ばれています。

崇神天皇と神武天皇はいずれも物部氏の遠祖であるニギハヤヒの強い影響下にあり、同じ別名で呼ばれていました。いかがでしょう?両天皇は同一人物と見做せそうに思えてきませんか?それはさて置き、ここでは崇神天皇はニギハヤヒ(実際にはその後裔となる物部氏)の影響をまぬがれない立場にあった点を押さえておきましょう。

以上の検討結果から、大物主神(ニギハヤヒ)を祀る聖山・三輪山の西麓正面に崇神天皇の宮殿が存在せず、陵墓も同様に三輪山西麓の正面ではなく、大和川に合流する纏向川の北側に築造された理由が明確になります。

崇神天皇が三輪山麓の金屋に宮殿を開いた初期段階において、大物主神の神威は崇神天皇を圧していました。このため、物部氏が三輪山を祭祀する大和川と纏向川に挟まれた一帯に宮殿の建設や古墳の築造をするなど、たとえ天皇であっても不可能だったのです。三輪山西麓ガイドマップの写真を見ると、周囲には数多くの遺跡や古墳があるのに、三輪山西麓正面は見事に空白となっているのがその事実を物語っています。

大物主神と崇神天皇に関連する問題は邪馬台国と初期大和王権を巡る謎にも繋がってくるはずなので、ご留意いただければと思います。

         邪馬台国と大和王権の謎を解く その5に続く
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