邪馬台国と大和王権の謎を解く その6


今回は平等寺のすぐ近くに鎮座する神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)を訪問します。ここは小さな社に過ぎませんが、かなり大きな謎があるようです…。鎮座地は奈良県桜井市大字三輪字御子宮となり、位置関係は前回のグーグル地図画像を参照ください。

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鳥居と社殿。

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社殿。

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斜めから撮影。

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解説板。

同社に関して、「日本の神々 4」(白水社)には大和岩雄氏による長く詳しい論考が掲載されています。こんなに小さな神社にそれだけの紙面を割いているのはよほどややこしい問題があるからでしょう。同書にはまず鎮座地の問題が書かれており、以下のような内容になっていました。

『延喜式』神名帳の城上郡「神坐日向神社 大、月次新嘗」は現在、三輪山麓の本宮の少し南の通称「御子森(みこのもり)」に鎮座するとされているが、中世以来の諸書は三輪山の山頂「神の峰」に坐すとし…中略…内務卿山県有朋に対して「摂社神坐日向神社ト摂社高宮神社ト名称互二誤謬二付訂正御届」を提出している。

上記を簡潔に書けば、現在は三輪山山頂に高宮(こうのみや)神社が鎮座し、山麓に神坐日向神社が鎮座する形になっているが、これは誤りで、山頂が神坐日向神社であり、山麓が高宮神社なので訂正してほしいとの届けが出された、と言うものです。ところが当局はこの訴えを受け入れず、今も山頂が高宮神社で、山麓は神坐日向神社になっているとのこと。

一般的に山頂(奥宮、本宮)で祀られていた神が、山頂では何かと不便なので里にて祀られるのはよく見られるケースです。また、神坐日向神社鎮座地の隣には神主高宮氏の屋敷があると同書に書かれていることからしても、現在山麓に鎮座している神坐日向神社は高宮神社であり、山頂が神坐日向神社であるのが本来の姿だと言えそうです。(注:神坐日向神社周辺に高宮氏の屋敷は見当たりませんが、近くに高宮の地名があるのでグーグル地図を参照ください。この地名からしても、今いる場所は高宮神社だと思えてきます)

次に祭神の問題があります。神坐日向神社祭神は櫛御方(くしみかた)命、飯肩巣見(いいかたすみ)、建甕槌(たけみかづち)命 の3座となっています。「古事記」では、大物主大神から意富多多泥古(大田田根子)へと続く系譜の中で、大物主大神と活玉依毘売との間に生まれた子、孫、曾孫が上記の祭神となっています。ただ、大和氏が指摘するように、この三座は文献史料からは三輪との関係が認められません。

文永2年(1265年)に大神家次が書いた「大神分親類社鈔並附尾」には、三輪上神社(神坐日向神社)の祭神は日本大国主命で神体は杉木となっています。弘化3年(1847年)の標札には幸魂奇魂神霊とあります。幸魂奇魂は大己貴命の幸魂奇魂が大物主神となるので、大物主神の神霊となりそうです。いずれにしても、三輪山の山頂にて朝日を拝するのが神坐日向神社で、神体山・三輪山を山麓で拝するのが大神神社と言った関係になるようです。

なお、高宮神社の祭神は日向御子となっていますが、大和氏によれば、「もともと『延喜式』が神坐日向神社の祭神を日向王子とするからである」とのこと。これらから、三輪山の祭祀の根源には太陽信仰があったと理解されます。三輪山と太陽信仰の部分は本シリーズの謎解きとも関連しそうなので、もっと詳しく見ていきましょう。

大和氏によると、「延暦23年(804年)に伊勢神宮の宮司大中臣真継が神祇官に提出した『皇大神宮儀式帳』には、天照大神は垂仁天皇のとき「美和乃御諸宮」で奉斎され、この宮から宇太・伊賀・淡海・美濃をめぐって伊勢に入ったと記されている。つまり、天照大神はいったん三輪山に鎮座してから伊勢へ移ったというのである」とのことです。「皇大神宮儀式帳」はデジタル化されているので、以下のコマ番号3を参照ください。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0003.html

また「倭姫命世記」には、「(崇神天皇)五十八年 辛巳、倭美和乃御室嶺上宮(やまとのみわのみむろのみねかみのみや)二還テ二年間奉斎是時豊鋤入姫命」とありました。「倭姫命世記」はデジタル化されていますので、以下のコマ番号8を参照ください。
https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103266932-001.pdf

上記の御室嶺上宮とは明らかに神坐日向神社を意味していることから、驚いたことに豊鋤入姫命は、大物主神を祀る三輪山で天照大神を二年間も祭祀していたことになります。天照大神は太陽神なので、太陽信仰に関係する三輪山にて祭祀されても不思議ではありません。けれども、男神アマテラスとされるニギハヤヒ=大物主神と女神アマテラスである卑弥呼=天照大神が同じ三輪山において重なっていた点は注目に値します。

これを大物主神(ニギハヤヒ)系の物部氏と天照大神(卑弥呼)系の邪馬台国と言う構図で考えると、両者は同じ場所において同じ太陽信仰を持っていたと確認されます。この点も重要だと思われますので、記憶に留めておいてください。(注:ここでは仮に卑弥呼系の邪馬台国としていますが、実際には違うようにも思われ、後の回で詳しく検討します)

大物主神(ニギハヤヒ)が太陽神(男神アマテラス)である点を大和氏の記述から引用します。同氏は「天照大神と前方後円墳の謎」(六興出版)において、「三輪山々頂には、日向神社があり(今は山麓にある)三輪山信仰に太陽信仰があることは、「アマテルの神としての三輪の神」に詳述したが、三輪の神大物主神は…」と書いています。この内容からも、一般的に蛇神とされる大物主神(ニギハヤヒ、アマテルの神)は太陽神でもあったと理解されます。

ニギハヤヒ=大物主神と卑弥呼=天照大神は同じ三輪山において重なり、また両神が共に太陽神である点を他の視点からも見ていきましょう。例えば、纏向遺跡内にある纏向石塚古墳の中軸線は、東は三輪山山頂、西は鏡作坐天照御魂神社を通り、古墳の位置から見て三輪山山頂に昇る朝日は立春、立冬に当たっています。(注:グーグル地図で三輪山山頂から鏡作坐天照御魂神社に線を引いたところ、確かに石塚古墳の中軸線上を通っていました)

石塚古墳は埋葬施設が発見されていないので太陽を祭祀する祭祀場(祭壇)である可能性も指摘されています。また、石塚古墳はニギハヤヒを祖とする物部氏が被葬者と推定され、それを前提に考えれば古墳の中軸線が三輪山山頂に至ることに筋が通ってきます。(注:石塚古墳と物部氏の関係は後の回で詳しく検討します)

鏡作坐天照御魂神社も同様に太陽信仰と関係します。鏡は太陽を象徴し、また天照大神は鏡(八咫鏡)そのものとなります。崇神天皇は天照大神(八咫鏡)を宮中から外に出すのですが、宮中で祀るための八咫鏡のコピー(複製品)を作ることになりました。その際の試作鏡が同社において天照国照彦火明命として祀られています。鏡作坐天照御魂神社の祭神・天照国照彦火明命は「先代旧事本紀」では天照国照彦火明櫛玉饒速日命で、名前の中にニギハヤヒが入っています。

以上、鏡作坐天照御魂神社においても天照大神とニギハヤヒが重なっており、また太陽祭祀の面でも纏向石塚古墳の中軸線が、東は三輪山山頂、西は鏡作坐天照御魂神社に至ることから両神は重なっていました。大物主神(ニギハヤヒ)系の物部氏と天照大神(卑弥呼)系の一族、崇神天皇の三者が三輪山の太陽信仰を軸として密接に関わっていると理解されますね。鏡作坐天照御魂神社に関しては「尾張氏の謎を解く その24」にて書いていますので参照ください。

他の例も見ていきましょう。世阿弥(1363年~1443年)は秦河勝の後裔と称し、秦元清と自署していましたが、彼の謡曲に「三輪」があります。その謡いの最後の一節は、「思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一體分身乃御事、今更何と磐座や」となっています。これは伊勢の天照大神と三輪山の大物主神が、実は同体であるなど、わかりきったことで、なぜ今更改めて言う必要があるのか、と言った意味になります。

「三輪」には天照大神と大物主神が重なるどころか、同体として描かれていました。時代は大きく下るものの、室町時代においてもそうした考え方が底流にあったと理解されます。もちろん天照大神と大物主神の深い関係は、それぞれの神を奉斎する一族の関係として捉え直す必要があり、後の回で検討予定です。

なお世阿弥の娘婿は金春禅竹ですが、世阿弥の「花伝書」に、「此ノ門前(秦楽寺)ニ金春屋敷有リ。其ノ内ニ天照太神ノ御霊八咫鏡陰ヲ移シ給ト云伝也。」と書かれていることから、秦楽寺の門前に「金春屋敷」があったとの伝承が存在し、さらに天照大神まで登場しています。詳細は「尾張氏の謎を解く その29」を参照ください。

以上で、ニギハヤヒ=大物主神と卑弥呼=天照大神は同じ三輪山において重なり、また両神が共に太陽神である点は確認されました。三輪山の太陽信仰に関連しそうな部分は「尾張氏の謎を解く その33」、「尾張氏の謎を解く その34」などでも書いていますので参照ください。

「その34」においては以下のように書いています。

多神社だけでなく鏡作郷に鎮座する各鏡作神社も太陽信仰に関係し、石見の鏡作神社からは三輪山山頂に昇る冬至の日の出を拝することができ、日の出ライン上には他田坐天照御魂神社が鎮座しています。つまり、多神社から鏡作坐天照御魂神社にかけての一帯は太陽信仰の地であり、両神社に挟まれたような位置にある秦楽寺周辺も太陽祭祀に関係があると見て間違いなさそうです。

ちなみに、三輪山と、箸墓古墳を結ぶ線(少しずれるが檜原神社もある)を延長すると、笠形を経て笠縫邑と推定される秦楽寺に至ります。檜原神社は、崇神天皇6年に宮中で祀られていた天照大神を豊鍬入姫命に託して遷座させた笠縫邑(元伊勢第一号、笠は太陽を象徴する)の比定地の一つです。

しかし、尾張氏の謎解きなどで以前にも書きましたが、秦氏の氏寺である秦楽寺境内には天照大神を祀る笠縫神社が鎮座しているので、秦楽寺一帯を笠縫邑と考えるべきでしょう。世阿弥の「花伝書」に、秦楽寺の門前には金春屋敷があって、その内に天照太神の御霊、八咫鏡陰を移し給う、との文章があるのは、境内に鎮座する笠縫神社が関係していることによると考えられます。いずれにしても、檜原神社と笠縫神社がほぼ同じライン上に鎮座しているのは、偶然とは言い難いものがあります。

あくまで仮定の話ですが、箸墓古墳の被葬者を邪馬台国畿内説に従って卑弥呼(天照大神)と考えると、太陽信仰の中心となる三輪山、卑弥呼(太陽神である天照大神)が被葬者の箸墓古墳、その天照大神の最初の遷座先・笠縫邑が一つのラインで結ばれることになり、見事に筋が通りそうにも思えてきます。ただ、このラインは箸墓古墳の中軸線の延長上にありません。中軸線は穴師坐兵主神社を通り背後の穴師山へと続いています。

穴師坐兵主神社の元の鎮座地は弓月ヶ嶽の頂上近くとされ、弓月ヶ嶽の候補地は竜王山(586m)、穴師山(409m)、巻向山(567m)があり特定されていませんが、箸墓古墳からの中軸ラインを踏まえれば多分穴師山(409m)になるのでしょう。(注:この問題の詳細は後の回で検討します)

穴師坐兵主神社は垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったともされており、倭姫命は豊鍬入姫命の後を受け、天照大神を各地で奉斎し、最終的に伊勢の地に鎮座させています。以上から、箸墓を軸として豊鍬入姫命と倭姫命のラインが繋がっているようにも見え、両姫は箸墓古墳の被葬者と関係の深い人物になりそうです。(注:箸墓の被葬者を卑弥呼などと仮定して書いていますが、現段階ではまだ特定していない点お含み下さい)

また弓月ヶ嶽の名前からは秦氏の弓月君が連想され、秦楽寺と同様に天照大神関連ラインに秦氏の関与が感じられます。もちろん秦氏の関与は後の時代にはなりますが…。いずれにしても、三輪山や箸墓を中心として非常に複雑な関係性が窺えるので、これらの問題も後の回で検討してみます。

さて、太陽信仰に関係する三輪山が天神地祇と天皇霊の鎮まる聖山であることは、「日本書紀」にも何度か出てきます。ところが天武天皇、持統天皇以降、天皇霊を祀る部分が伊勢神宮に遷されたことで、三輪山は地祇(国つ神)のみを代表する存在へと変容してしまいました。奇妙に思えるのは、持統天皇以降明治天皇に至る間、天皇が伊勢神宮に参拝されていない点です。皇祖神天照大神から綿々と引き継がれてきたはずの天皇霊ですが、その霊を祀る伊勢神宮に代々の天皇が参拝しなかったのはなぜでしょう?幾つもの疑問を抱えつつ、三輪駅方面に下ります。

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三輪駅方面に下る道から見た耳成山。

       邪馬台国と大和王権の謎を解く その7に続く
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