邪馬台国と大和王権の謎を解く その14


前回は纏向遺跡の中核部を見ると共に、大雑把ではありますが考古学的な視点からも検討してきました。けれども、それだけでは遺跡内の居館群が卑弥呼のものなのかどうか明らかにはできません。やはり史料面での検討が不可欠なのです。(注:卑弥呼の墓ともされる箸墓古墳に関しては後の回で検討します)と言うことで、今回は「魏志倭人伝」など中国側史料から黎明期の日本の姿を探っていきます。まずは卑弥呼の時代をその前後も含めて概観してみましょう。

紀元100年頃の倭国は元々男王が治めていましたが、後漢の桓帝、霊帝のとき中国国内と倭国が乱れ、その年代は147年から189年となります。「後漢書」の倭伝によれば178年から184年の間、倭国は戦乱のさなかにありました。戦乱を終わらせるために、国々の王たちが相談し女王が共立されます。卑弥呼の登場ですね。

「魏志倭人伝」には、共立され女王となった卑弥呼に関して「年己長大」と書かれています。長大とは35歳から40歳を意味しており、共立時点で既に35歳以上の年齢に達していたことになります。女王共立を戦乱が終わったと推定される185年にした場合、卑弥呼の死去年は248年頃とほぼ確定されていることから、没年齢は100歳前後となり、「年己長大」の記述は筋が通りません。

女王共立が185年で、その時点の年齢を10歳と仮定すれば、生没年は175年~248年頃となり73歳前後で人生を終えた計算になります。これでも当時としては大変な長寿ですが、何とか妥当な範囲に落ち着いたと言えるでしょう。(注:共立を190年と見れば68歳となります)この場合「年己長大」を、大人の判断が下せるまでに成長していたとの意味で理解することになります。いずれにしても、死去年を248年頃で動かせない以上、そうした見方をするしかありません。

卑弥呼は239年に使者を魏に派遣し、鏡などの下賜品と金印紫綬(きんいんしじゅ)の「親魏倭王」印を賜ります。247年には使者を帯方郡に派遣。その後248年頃に亡くなりました。続いて男の王が立ったことからまた殺し合いが始まります。争いを鎮めるため卑弥呼の宗女である台与が女王に擁立され平穏が戻り、貢物を魏に献上したところで「魏志倭人伝」の記述は終わりとなります。

卑弥呼の死後、大きな墓の築造、男の王を立てる、再度の戦乱、台与の擁立、魏への朝献と色々なイベントが発生していることから、年代は書かれていないものの、250年代初め頃までの時代が「魏志倭人伝」に描かれているのは間違いなさそうです。

「晋書」によれば、台与は266年に晋に使者を派遣していますが、それ以降女王国は中国の史書から消え去ります。(注:邪馬台国は「魏志倭人伝」に一回しか出てきません。ほとんどの記述は女王国となっています。邪馬台国と女王国の関係は後で詳しく検討します)

晋は司馬炎が魏王朝の元帝から禅譲を受けて265年に建国されました。晋への使者の派遣は新らたな王朝に祝意を伝えるものであったと理解されます。従って、180年頃から266年までの日本に関しては、結構詳しく中国側の史書に記されていることになります。

以上が2世紀から3世紀にかけての日本の大雑把な動きですが、これだけでは何一つ理解できないことから、「魏志倭人伝」やその他の中国側史料も含めもっと詳しく見ていきます。本ブログでは史料の必要部分を抜粋するだけなので、全体の内容はネットで検索してください。幾つかのホームページに原文と現代語訳が掲載されています。以下のホームページは比較的読みやすく、また長いものでもないので、是非全文に目を通しておいてください。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm

さて、「魏志倭人伝」には帯方郡から日本に至り、日本国内を移動するルートが順を追って記載されています。これが邪馬台国の所在地論争の元となっている実に厄介な部分です。最初に行程が書かれた部分のみを抜粋します。

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。又渡一海、千餘里至末盧國。東南陸行五百里、到伊都國。東南至奴國百里。東行至不彌國百里。南至投馬國、水行二十日。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。

上記を順番に整理すると以下のようになります。

帯方郡→南東水行7000余里→狗邪韓国→1000余里→対馬国(対馬)→1000余里→一大国(壱岐)→1000余里→末廬国(唐津市)→東南500里→伊都国(糸島市)→東南100里→奴国(博多付近)→100里→不弥国(宇美町或いは飯塚市)→南水行20日→投馬国→南水行10日・陸行1月→邪馬台国(女王の都とする所)

帯方郡から邪馬台国に至る行程の中で、色々問題がありそうな部分は赤字としています。帯方郡と狗邪韓国は現在の朝鮮半島に当たります。郡の正確な位置はよくわかっていませんが、ほぼソウル辺りで狗邪韓国は釜山近辺と考えればいいでしょう。九州における各国の比定地は一般的なものを書いただけで、詳しい検討はしていません。


韓国と九州の位置を示すグーグル地図画像。

帯方郡を現在の南北朝鮮の国境付近と設定すれば、使節はそこから朝鮮半島南端まで船で下り、次に東に向けて航海を続け釜山近辺から対馬を目指したと考えられます。もちろん出発地点に関して、もっと南との説もあり正確な特定は困難です。次に、行程の後の記述を見ていきます。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。…中略…此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

女王国より北は、その戸数、里数を簡単に記載できたが、それ以外の国は遠く隔絶していて、詳細を得られない。(中略部分は幾つかの国名が書かれています。)これが女王(国)の境界の尽きるところである。その南に狗奴国があり、男性が王となり、官には狗古智卑狗があり、女王(国)に従属していない。郡(帯方郡)より女王国に至るには一万二千余里である。

行程に関しては以上の通りですが、読んでいて非常に奇異に感じられる部分があります。帯方郡から不弥国までの距離を合計してみると1万7百余里になります。次に帯方郡から女王国までの距離は、上記の赤字部分通り1万2千余里となっています。

それなら、なぜ不弥国から女王国まで南へ1300余里(1万2千余里-1万7百余里=1300余里)と書かなかったのでしょう?またなぜ不弥国の次に女王国ではなく投馬国と邪馬台国が出てきて、しかも水行の行程が合計30日、陸行1月となったのでしょう?そもそも、邪馬台国は行程の部分で一度出てくるだけで、後は女王国の記載となっています。邪馬台国と女王国は同じなのか或いは別なのでしょうか?

また不弥国までの距離表示は里数だったのに、なぜ投馬国と邪馬台国の部分が日数表示に変わったのでしょう?不弥国から女王国まで1300余里のはずなのに、女王国と邪馬台国が同じ国とした場合、水行合計30日、陸行で1ケ月必要なら、1300余里どころの距離ではなくなってしまいます。この距離感からすれば、女王国と邪馬台国は別の国と考えるしかありません。つまり、魏志倭人伝」の記事には距離表示と距離そのものに大きな問題や矛盾があり、それは投馬国と邪馬台国に関係しているのです。

行程記事の次に、「女王国より北は、その戸数、里数を簡単に記載できた云々」とありますが、これも辻褄が合いません。行程を見ると、不弥国の次が南の投馬国でその南が邪馬台国となっています。従って、女王国と邪馬台国が同じ国との前提において、「女王国より北は」の部分は前の行程記事に対して矛盾はありません。

ところがです。「その戸数、里数を簡単に記載できた」の部分は、行程記事における投馬国と邪馬台国への距離が里数ではなく日数表示となっていることから、全く矛盾しています。やはり、女王国と邪馬台国が同じ国との前提で考えることはできないようです。

これら、投馬国と邪馬台国に関係する大きな矛盾は何に起因するのでしょう?例えば、投馬国と邪馬台国の部分はより新しい時代の情報で、後から挿入されたものなのかもしれません。その前提で、行程記事から投馬国と邪馬台国の部分を削除し、酔石亭主が勝手に作った「不弥国から女王国まで南へ1300余里」の文面に入れ替えてみます。すると次の文面である「女王国より北は、その戸数、里数を簡単に記載できた云々」にうまく繋がっていきました。

さらに、邪馬台国に関して女王の都とする所と書かれていることから、「魏志倭人伝」の編者は女王国と邪馬台国を同じ国だと思い込んでいた可能性が指摘されます。だから、行程記事において不弥国の次に女王国と書かず、より新しい情報である投馬国と邪馬台国の部分を挿入してしまったのでしょう。

以上、「魏志倭人伝」の編者は女王国と邪馬台国が同じ国だと誤認し、不弥国の後に「南至投馬國、水行二十日。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」と言う、より新しい時代の情報を後から挿入してしまいました。そうした誤認や新情報の挿入により、行程記事が矛盾だらけのものとなったのです。

次に、女王国と邪馬台国が同じ国ではないと見られる点を、別の角度から検討してみます。数多くの書籍や論考は、邪馬台国に関して卑弥呼の国との前提で議論を展開しています。ところが「魏志倭人伝」を読むと、邪馬台国の名前は一度だけしか出ておらず、女王が都とする所と記載されているだけです。

一方の女王国は5回も出ており、「伊都国の代々の王は皆女王国の統治下にある」、「女王国より北は、その戸数、道里を簡単に記載しえた」、「(帯方)郡より女王国に至るには1万2千余里」、「女王国より北は特に一大率を置き」、「女王国の東に海を渡ること千余里」などの記載が見られます。(注:「女王より4千余里」の記載もありこれは女王国と読めるし、他にも女王の記載で女王国と読めるものがある)

女王国関連のどの記事を見ても、「魏志倭人伝」全体の中心に女王国があるように書かれており、卑弥呼は邪馬台国ではなく女王国にリンクすべき存在だと思われます。

さて「魏志倭人伝」は、卑弥呼を倭の女王、倭王などと形容して書いています。これは「伊都国の代々の王は皆女王国の統治下にある」との文面からも理解できるように、卑弥呼は女王国にいて、北九州のほぼ全域に相当する「倭(国)」を支配下に置いていたことを意味するのでしょう。

卑弥呼が登場する前の記事にも、「女王国より北は特に一大率を置き」…中略…「(女)王が使者を京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国に派遣する場合や、帯方郡の郡使が倭国に来訪するときは、皆港において点検し、文書や賜物を女王に詣でて伝送するので、誤りはない。」などと書かれ、その少し後に、「その国は本は男子を王としたが、倭国の大乱が何年も続いたので、卑弥呼を王として共立した」との主旨の文章がありました。

上記の赤字で書いた「その国」とは、文脈から判断して女王国を意味していると理解されます。また女王国が倭国を代表する地位・立場にあった点も明確になります。但し「魏志倭人伝」には、女王(国)の境界の尽きるところの南に狗奴国があり、女王(国)に従属していないとも書かれおり、全てが女王国の支配下であった訳ではないと理解されます。

以上を総合すると、卑弥呼は女王国の女王であり、倭国のほぼ全体を支配していたことになります。(注:実際の統治は補佐役の弟と考えられる)この場合の倭国は、既に書いたように九州の北部地域を指しているものと考えられます。

ここまでの検討から、「南至投馬國、水行二十日。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」の部分は新しい時代の情報が後から挿入されたものであり、「魏志倭人伝」の編者は女王国と邪馬台国を同じ国だと誤認していると判明しました。この誤認が発生した経緯は以下のようなものだったと推定されます。

「魏志倭人伝」の編者がほぼ編纂を終了していた段階で、投馬国と邪馬台国に関する新情報(より新しい時代の情報)が伝えられた。これは既に書き終えていたものとは別の情報だった。その情報によれば、邪馬台国は女王の都とする所だった。「魏志倭人伝」の編者は、新しい情報を付け加えることにしたが、その時点で女王国(卑弥呼が女王)と邪馬台国(女王の都とする所)を同じ国だと勘違いした。このように考えれば、行程記事における矛盾の原因は明確となる。(注:上記は具体的な根拠に欠けているので、後の回でもっと詳しく検討します)

以上、今まで邪馬台国と卑弥呼は密接不可分のものとして考えていましたが、それは大きな間違いでした。邪馬台国と卑弥呼が密接不可分でない以上、邪馬台国九州説、邪馬台国畿内説と言った議論の立て方自体が不適当なものとなりそうです。固定観念に捉われていては古代史の解明はできないと思い知らされます。ここでは、卑弥呼の国は北九州にあった女王国であり、邪馬台国は女王の都とする所で遠く離れた別地域の国の可能性があると仮定しておき、さらに検討を進めましょう。

なお、行程部分で出てくる各国の正確な位置はさて置いて、不弥国までは北九州の話だと理解されます。それは、不弥国(宇美町或いは飯塚市)の一つ前が奴国(博多付近)であり、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)の出土推定地が志賀島とされていることからも確認されます。また行程記事の伊都国(糸島市)に関して、代々の王は皆女王国の統治下にあると書かれており、この点からも卑弥呼の女王国は北九州にあったと理解されます。

         邪馬台国と大和王権の謎を解く その15に続く
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