邪馬台国と大和王権の謎を解く その16


今回からは「魏志倭人伝」の撰者やその編纂年代を通して女王国と邪馬台国の謎を追求していくことにします。「魏志倭人伝」は「三国志」のほんの一部分に過ぎず、撰者は陳寿と言う魏とは敵対関係にあった蜀の役人で後に西晋に仕えた人物となります。生没年は233年~297年で、「三国志」は280年から290年の間に書かれたとされています。陳寿の詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%AF%BF

陳寿の経歴からすると、魏に関してはさほど詳しくない人物であり、別の史料から引用した形で「魏志倭人伝」を撰録したのでしょう。別の史料として可能性があるのは魚豢(ぎょかん、ぎょけん)が著した「魏略」で、後漢の滅亡から明帝(在位は227年~239年)に至る歴史が雑文的に書かれています。「魏略」の成立は魏の終わり頃の265年前後と推定されますが、はっきりしません。

魚豢は民間の学者であるため、国家間の外交資料は入手が困難と思われ、陳寿が書いた「魏志倭人伝」にある外交部分は、魏から晋へと伝わった公式記録、資料などを参照した可能性があります。他には、倭国への使節や役人が書き留めたメモ類や、晋に来た倭人の話なども取り入れたものと思われます。倭人からの話は、多分何人かを経由した伝聞的情報になるのでしょう。

「魏志倭人伝」の記述の中には、これら情報源や正確度が異なる幾つもの情報が混在している可能性があります。そうした構成が混乱を招き、不整合に感じられる部分が出てきているのです。後代の私たちは矛盾する内容を再構成し、矛盾のない形にして読み解く必要がありそうです。

伝聞情報の例を見るため、前回でも書いている「隋書」の倭国伝を再度取り上げましょう。そこには、「夷人不知里數、但計以日。」と記載ありました。意味は、東夷の人(倭人)は里数(距離を数字で表示すること)を知らない、ただ日を以って計っている。となります。「魏志倭人伝」において、投馬国と邪馬台国への行程は日数で記載されていました。中国側の使節が実際に投馬国と邪馬台国を訪問したのであれば、その距離は日数ではなく数字(里数)で表示され、公式記録にも残されたはずです。そうなっていないのは、この部分の記述が公式な記録に基づくものではなく、晋の誰かが倭人から聞き取りした内容を書いているからに相違ありません。

よって、「魏志倭人伝」に書かれた投馬国と邪馬台国関連の情報は、陳寿に届くまでにかなりの人数が間に入り、不正確なものになったと考えられます。またこれらの情報は邪馬台国が大和国であることから、実質初代の崇神天皇が権力を握り始めた290年頃(「魏志倭人伝」がほぼ完成した頃)の新しいものになるはずです。(注:崇神天皇の推定年代は後で検討します)

「魏志倭人伝」は基本的に魏時代(220年~265年)における倭国について書かれたもので、実際に書き込まれた最後の年代は247年となっています。ただ、その後に卑弥呼の死去や、墓の築造、再びの戦乱、台与の擁立記事などが見られるので、年代は書かれていないものの250年過ぎ頃までを取り上げているように思えます。

ところが「魏志倭人伝」の記事には、上記のように晋が建国された265年以降の情報も混在し、加えて伝聞的なものだったため正確性に乏しいものとなってしまいました。投馬国と邪馬台国関連の記述がその前の行程記事に整合せず、矛盾だらけで浮いているように見えるのはそうした事情によるのです。

「隋書」には邪馬台国が大和国であることを証明するような記事があり、具体的には「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」と書かれた部分です。意味は、「(日本国の)都は邪靡堆(やまと)にあり、魏志の説に則るなら、邪馬臺(やまと)ということになる。」と言ったところです。推古天皇の時代、5回以上遣隋使が派遣され、隋からの使者も来訪しました。彼らが大和の実際の位置関係を熟知していたとしても、何ら不思議ではありません。

例えば「日本書紀」の推古16年(608年)夏4月条には、小野妹子が隋より使人裴世清・下客12人を伴って筑紫に着き、6月15日、裴世清らが難波津に上陸し、難波高麗館(こまのむろつみ)の脇に造った新館に入ったとあります。その後の幾つかの記述に続いて、以下の内容が見られます。

秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺飾騎七十五匹、而迎唐客於海石榴市術。

秋八月の辛丑(かのとのうし)の朔癸卯(ついたちみづのとのうのひ、3日)に、唐の客が京に入った。この日に、飾騎(かざりうま)七十五匹を遺して、客を海石榴市の術(ちまた)に迎える。

いかがでしょう?海石榴市とあることから裴世清(はいせいせい)は間違いなく大和の地に来ており、その位置関係も明確に把握していることになります。「隋書」の倭国伝にも、翌年(608年)、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。との記事があり、「日本書紀」の記述にほぼ対応しています。従って、「隋書」の編纂者は倭国の都が大和にあることを知ったうえで、その都である邪靡堆(やまと、大和)を「魏志倭人伝」の説に則れば邪馬臺(やまと)と言うと書いている訳です。

ここからも邪馬台国は畿内にあったと理解されます。と言うか、邪馬台国=大和国であり、邪馬台国とは大和の国そのものだったのです。邪馬台国が大和国を意味する場合、それは「魏志倭人伝」が完成した290年頃であり、既に畿内において初期の大和王権が成立していたことを意味します。290年頃は実質な初代となる崇神天皇が権力を持ち始めた時期に当たり、大和王権の勃興期と言えそうです。ただこの年代だと、卑弥呼や台与の時代よりかなり下ってしまう点は留意が必要です。(注:これらの問題は後の回で詳しく検討します)

邪馬台国が大和国だとすると、邪馬台国手前の投馬国は吉備が該当します。纏向遺跡からは吉備の特殊器台が出土しており、吉備との関係が想定されるからです。また吉備(岡山県倉敷市矢部)にある楯築遺跡(たてつきいせき)は、2世紀末から3世紀初めにかけての墳丘墓であり、先進地域だった吉備全体で5万余戸は当時の実情からはかけ離れていますが、他との比較の意味においては、左程おかしくはありません。

邪馬台国の7万余戸も畿内全域と考えれば、実数はともかく他との比較においては、ある程度納得できます。(注:中国の記述は白髪三千丈のきらいがあるので、実際の戸数は割り引いて考える必要はありそうです。研究者によれば弥生時代後期の日本の総人口は50万人から70万人であり、九州と近畿がそれぞれ約10万人とのことです。邪馬台国が7万余戸で一戸当たり3人としても、21万人ですから、多すぎるのは明らかです)

邪馬台国への行程で水行合計30日は、北九州から瀬戸内海を船で渡り、途中投馬国(吉備)など何カ所かに停泊しただけでなく、難波津にある邪馬台国(大和国)の出先に一行が逗留し、何日間か接待を受け十分な休息もとったうえで、大和川を遡り大和に到着したと考えればより現実的な日数となります。

既に書いたように、「日本書紀」の推古天皇16年夏4月条によれば、使節の裴世清らは難波津に上陸し、難波高麗館(こまのむろつみ)の脇に造った新館に入っており、このケースと同じように考えればいいのです。もちろん上記はずっと後の時代の話です。けれども、「魏志倭人伝」時代の船旅はもっと大変だったはずで、瀬戸内海を渡り切った後、使節も十分な休息をとる必要があったと推定されます。

問題の陸行1月は、一般的には一日の間違いとされ、例えば大和への到着を夕方と考え、翌朝上陸地点から纏向の地に行くことで計算上は一日になるのかもしれません。いずれにしても、陸行1月は倭人から聞き取った伝聞情報に過ぎないことから、実際がどうであったのか不明と言う他ありません。

以上、はっきりしない部分も多々残りますが、邪馬台国は大和の国を意味し畿内にあった点は間違いなさそうです。では、邪馬台国は女王の都とする所、はどう解釈すればいいのでしょう?それだけではありません。邪馬台国=大和国なら、邪馬台国と大和王権の関係は一体どうなるのでしょう?

        邪馬台国と大和王権の謎を解く その17に続く
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