邪馬台国と大和王権の謎を解く その17


「魏志倭人伝」には、邪馬台国に関して女王の都とする所、と書かれていました。今回はこの意味するところから検討を始めます。

邪馬台国が大和国であり、大和王権の成立は卑弥呼の時代より下ってしまうとの前提で考えると、女王に該当しそうな人物は卑弥呼の後継宗女となる台与しかいません。(注:女王的に見える神功皇后に関しては非常に重要な人物なので別途書きます)従って、邪馬台国(大和国)は卑弥呼の後継宗女となる女王・台与が都する所、と考えられ、その場合台与は卑弥呼の死後女王の位を継承し、ある時点で大和に東遷したことになります。

この問題に関しては、多くの場合邪馬台国の東遷と言った観点から取り上げられていますが、酔石亭主の視点では、女王国の女王・卑弥呼の後継者・台与が大和に東遷した、となります。邪馬台国は大和国なので、その邪馬台国が大和に東遷するなどあり得ないのです。

では、台与はいつの時点で北九州にある女王国から大和に東遷したのでしょう?多分二つの可能性が考えられます。「晋書」の倭人伝には、晋の泰始の初め(多分266年)に遣使し、通訳を重ねて貢を納めた。と書かれており、この年以前の段階で東遷していた可能性があります。例えば、卑弥呼が248年に死去し、国が乱れた後の250年頃に北九州を出て大和に遷したケースです。もう一つのケースは晋の建国から少し後の、267年頃が想定されます。どちらがより正しそうかは後で考えてみます。

まだ明確ではありませんが、「魏志倭人伝」に書かれた「邪馬台国は女王の都とする所」の意味は、邪馬台国(大和国)は畿内(大和)にあり、大和に東遷した女王・台与が都とする所と仮定した上で、引き続き検討を進めていきます。ただ、この視点自体にも矛盾した部分が含まれるので、もっと詳しく見ていく必要があります。

既に書いたように陳寿の没年は297年であり、「魏志倭人伝」も彼の死から7年も前の290年頃までに完成したと推定されます。よって陳寿は、魏が終わった後の晋の時代における情報(265年から290年頃に至る日本の情報)を書き加えることが可能な立場にありました。「魏志倭人伝」のどの記述がそれに当てはまりそうなのか、順を追って見ていきましょう。

「魏志倭人伝」には247年時点で倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王が不和であること、その後卑弥呼が死んで大きな墓を造ったこと、男王が立って国内がまた戦乱状態となり、混乱を収めるために台与が擁立されたことなどが書かれています。台与が女王になったのは、卑弥呼の死後に起きた様々なイベントを考慮すると、250年代に入ってからと推定され、中国においてはまだ魏時代の話となります。

倭の情報はその後も別の史料に書かれています。例えば、「晋書」の武帝紀泰始2年(266年)11月己卯には、「倭人、来たりて方物を献ず。」とあります。もちろん陳寿は倭人が来た情報を得ていたでしょう。日本側の史料でも、「日本書紀」の神功皇后摂政66年条に、「この年が武帝の泰初(始)2年で、10月に倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ。」との対応する記事が見られます。(注:「日本書紀」が泰始を泰初と書き間違えたのは、晋書の倭人伝に「泰始、遣使重譯入貢。」とあることに起因すると思われる)

上記における倭の女王とは時代的に見て当然台与となります。(注:「日本書紀」が神功皇后を卑弥呼・台与と重なるように書いている問題は後で検討します)

以上から、少なくとも陳寿は魏から晋へと政権が移った266年までの情報は得ていたと推定されます。問題は266年以降、中国側の史料に日本に関する明確な記述が見られないことです。もちろんその後も、様々なルートから倭国に関する情報が入り続けてはいたのでしょう。ただそれらは、公式記録には載らない断片的な伝聞情報でした。

時代を266年まで下ってきたので、次に台与の東遷時期を検討します。台与の大和東遷は250年頃、或いは267年頃の二つのケースがあると書きました。仮に250年頃だとすると、その情報は魏の公式記録に掲載されてしまう可能性があります。ところが邪馬台国(大和国)に関しては行程が日数表示となっており、公式記録に基づかないものとなっています。

従って、台与の大和東遷は晋の時代となった267年頃の可能性が高く、邪馬台国の情報は東遷後のある時点で晋の誰かが倭人から聞き取った、断片的な伝聞情報となります。この断片情報に東遷の事実は含まれておらず、その結果、邪馬台国は女王が都とする所、との内容のみが「魏志倭人伝」に書き加えられたと理解されます。

以上から、260年代後半頃までの日本について陳寿が知っていた可能性は高いと思われます。問題は邪馬台国が大和国である以上、この国名は前回で書いたように290年頃の畿内一帯を意味している点です。そうなると別の問題も発生します。邪馬台国は女王の都とする所、の女王は台与を意味しますが、彼女が290年まで生きていたとは考えられず、矛盾が生じることになるからです。(注:台与が290年まで生きていない点は後で書きます)

晋が建国された 265年から陳寿により「三国志」が成立する290年頃までの日本は、実質的初代の崇神天皇が部分的に関係する時代となります。尾張氏の謎解きでは一定の計算により崇神天皇の没年を330年頃としましたが、もちろん確定はできないので4世紀前半とざっくり書いています。

史料面でこれに近い年代をチェックすると、崇神天皇の没年は「古事記」の干支では戊寅となり、258年か318年が有力視されます。崇神天皇陵とされる行燈山古墳は4世紀前半の築造とされていることから、二つの候補のうち318年を没年とするのが妥当だと考えられます。

崇神天皇の存在が「魏志倭人伝」の中に取り入れられている場合、その推定編纂時期(280年~290年の間)から判断して、少なくとも290年頃には一定の権力を握っている必要があります。「日本書紀」によれば、崇神天皇は19歳で皇太子となっている点を考慮すると、270年頃が生誕年となります。つまり崇神天皇は270年頃に生誕し、290年前後に皇太子となって一定の権力を握り、318年に崩御したことになります。

これらの年代は全部仮定から入っていますが、崩御の年齢が48歳前後と妥当性のあるものになっています。では、290年頃の日本が邪馬台国の国名だけでなく、もっと具体性のある内容で「魏志倭人伝」の中に取り入れられているのでしょうか?関係しそうに思える部分を以下に書き出します。

南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。

投馬国に至るには南に水行二十日、官は彌彌、副は彌彌那利>、五万余戸ほどある。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。

邪馬壹国の女王の都とする所に至るには、南に水行十日、陸行一ト月。官には伊支馬があり、次を彌馬升、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮である。七万余戸ほどある。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。…中略…自郡至女王國萬二千餘里。

女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載できたが、その他の国は遠く隔絶しており、詳細を得られなかった。…中略…帯方郡から女王国にまで至る距離は一万二千余里である。

上記の、「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮、」と書かれた部分に注目ください。この記事の内容を二つに分けて考えます。

まず邪馬台国への行程を書いた部分から見ていきましょう。そこには、邪馬台国は女王の都とする所とあります。大和の女王的な存在である神功皇后の在位年は、書紀紀年では201年から269年となり、この年代から判断すると「日本書紀」は皇后を卑弥呼と台与の二人に充てていることになります。

従って、神功皇后の死去年を台与の死去年に適用すれば269年となります。台与が290年には生きていないと書いた理由はここにあります。(注:神功皇后の問題は非常にややこしいため、後の回で詳しく書きます)また同時に、台与を箸墓の被葬者に充てられる可能性も浮上してきます。(注:箸墓の築造年代は後の回で検討します)

卑弥呼に関して神功皇后の在位年から見ると、201年に女王に共立されたことになり、例えば190年を生誕年とすれば、生没年が190年~248年頃となって年齢は58歳前後ですから最も妥当な線と言えます。但し、倭国の乱が184年頃に終わり、そこから16年も経過した後に女王となるのはあまりにも遅すぎます。まあ、卑弥呼に関しては没年が明確になっているので、この情報があるだけで良しとしておきましょう。

さて、既に書いたように台与の東遷は267年の可能性が高く、その2年後の269年に亡くなっているとすれば、邪馬台国は女王が都とする所で行程は水行十日陸行一月との記事は、267年から269年の間の伝聞情報が元になっていると考えられます、但し、既に書いたように邪馬台国は290年頃の畿内一帯を意味しています。この問題を一旦横に置けば、260年代のほぼ全体が「魏志倭人伝」に取り入れられていると確認できることになります。次に、その時点から20年以上先の290年頃の情報まで取り入れられているかを見ていきましょう。

「魏志倭人伝」には、「官有伊支馬(いきま)次曰彌馬升(みまし、みまと)次曰彌馬獲支(みまかき)次曰奴佳鞮(なかで、ぬかて)」と書かれた記事があります。この部分はいつ頃の日本について記述したものなのでしょう?上記で三番目の官(最高位の執政官と推定)に彌馬獲支(みまかき)と言う人物の名前が見られます。これは崇神天皇の諡号である御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)と酷似していることから、同一人物ではないかと考えられます。

もちろん、名前の類似だけから彌馬獲支=崇神天皇とするには強引すぎるので、何か他に彌馬獲支=崇神天皇を支持できる情報がないか探る必要があります。台与の没年の269年から崇神天皇が権力を握る290年までに20年ほどの空白期間があります。この20年の空白期間において、一人の在位期間を10年程度と考えれば、二人分の期間に当たります。

そこでもう一度「魏志倭人伝」を参照します。彌馬獲支(崇神天皇)の前に伊支馬と彌馬升と言う二人の官がいますね。「魏志倭人伝」においては、この二人の官の存在により20年の時代差が明確に表現されていました。従って、彌馬獲支は崇神天皇の可能性が高いと理解されます。(注:「官有」の4人に関して位の高い順に書かれた可能性も指摘できますが、例えば投馬国に関して、官は彌彌、副は彌彌那利と言った形で位の順を表現していることから、邪馬台国の場合は最高位の執政官を就任の順に記載していると考えられます)

崇神天皇は290年頃に権力を握っていると推定されることから、「官有」以降の部分に関しては、260年代の終わりから290年頃までの日本の情報が書かれていると判断されます。また、全部仮定から出発した崇神天皇の推定生没年、270年~318年も正しい可能性が高くなっています。

ここまでを整理すると、以下のようになります。
「魏志倭人伝」は基本的に卑弥呼が死んで、宗女・台与が女王となった250年頃までを記載しているが、陳寿の「三国志」編纂は290年頃までに成立していることから、台与が大和に東遷した267年から269年の時代や、290年頃に皇太子となった崇神天皇の情報まで取り込んでいる。それが「魏志倭人伝」に書かれた投馬国と邪馬台国、及び「官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支」の記事であり、ここに投馬国と邪馬台国の記事が他の行程記事から浮いているように見える原因がある。また行程記事の次にある、女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載しえたが云々の内容が行程記事と整合しない原因も、最も新しい投馬国と邪馬台国の情報を挿入してしまったことによる。

これでようやく、北九州にある女王国の女王は卑弥呼であり、その宗女となった台与は267年頃大和に東遷し、邪馬台国(=大和国)成立前の大和の女王になったと確認されました。、台与に関して、邪馬台国(=大和国)成立前の大和の女王になったと書いた理由は以下の通りです。

「邪馬台国は女王の都とする所」の記事に関して、「女王の都とする所」の部分は、267年頃に大和へ東遷し269年頃死去した台与が都としていた場所を意味しています。一方「邪馬台国の」の部分は290年頃の邪馬台国(大和国)を意味しています。従ってこの短い一文の中に、二つの時代が混在していることになります。上記の記事は伝聞情報がベースとなっているため、混在は避けられなかったと判断されます。

ちなみに、彌馬獲支(崇神天皇)の前には伊支馬と彌馬升と言う二人の官がいることから、邪馬台国(大和国)の成立を台与が大和に東遷した時点(267年~269年頃)に置くことも可能です。けれども、崇神天皇が実質的初代天皇との前提を保持する以上、台与の東遷は邪馬台国(大和国)成立以前と言うことにしたいと考えます。

次に、陳寿が邪馬台国の方位に関して、不弥国及び投馬国の南と言う大きな間違いを犯した理由を考えてみます。「魏志倭人伝」には、その道程(注:帯方郡から女王国まで1万2千里の道程)からすれば女王国は会稽(かいけい)の東治(とうち)の東に当たる。と書かれています。会稽の東治とは福建省の福州市の説があり、そのまま東に線を引くと沖縄本島の那覇市付近に女王国があったことになってしまいます。最も有力な紹興市と考えた場合でもその東は屋久島付近となりそうです。

会稽に関しては、以下Wikipediaより抜粋します。

会稽郡は丹陽郡や呉郡と共に三国時代での呉朝の中心的な地域で、晋代になると会稽郡の管轄県は山陰、上虞、余姚、句章、鄞、鄮、始寧、剡、永興(266年に余曁県より改称)、諸曁の10県となり、現在の紹興市、寧波市の大部分および杭州市蕭山区一帯となった。

魏の時代は中国大陸において、魏、呉、 蜀(しょく)が覇権を競った時代であり、魏にしてみれば、倭国と誼を通じておけば呉に対する牽制になると考えた節があります。そうした希望的観測から、魏が倭国を南北に長い国と勝手に考え、陳寿の記述に影響を及ぼしたとしても不思議ではありません。三国時代末期の情勢を以下Wikipediaより抜粋します。

263年、魏の実権を掌握していた司馬昭は、鍾会・鄧艾を派遣して蜀漢を滅ぼすことに成功し、司馬氏の勢力は一段と強まった。司馬昭はこの機会に呉の制圧をも目論んだが、鍾会・姜維が蜀の地で反乱を起こして鄧艾を含む数多くの将士を失い、呉を滅ぼすための十分に強大な水軍の保持に欠けていた。
265年、魏の朝廷を掌握した司馬昭が蜀を滅ぼした後に病没し、司馬昭の息子の司馬炎(武帝)が権力を継承した。司馬炎は同年に曹奐(元帝)の禅譲を受けて皇帝に即位し、晋王朝を建てた。(注:曹 奐(そうかん)は、三国時代の魏の第5代皇帝)


上記から理解できるように、魏は呉を滅ぼすための水軍が不十分であり、あわよくば倭国に呉の背後を突かせる役割を期待したと考えられます。そのためには全くの希望的観測ですが、倭国は南北に長い国でなければならなかったのです。このように陳寿は、魏の希望的観測に影響され倭国を南北に長い国と誤認し、また女王国と邪馬台国が同じ国であると誤認しました。この二重の誤認により、「魏志倭人伝」の記述が意味不明で混乱を来すものになったと考えられます。

陳寿が女王国と邪馬台国を同じ国だと誤認した理由をあれこれ考えてみても、邪馬台国の情報をいつどのような形で陳寿が受け取り、彼の頭の中でそれがどう整理されたかは変数が多くなりすぎるので整理できません。ただ、邪馬台国が「魏志倭人伝」の最初の記事である行程の中に出てきており、一方台与の記事は最後の方に出てくることから、邪馬台国の女王を卑弥呼と考えていた可能性は高そうです。陳寿は女王国と邪馬台国を同じ国と誤認していたのでそう考えるのは当然ですが、邪馬台国の女王を卑弥呼と書かなかったのは、なんとなく整合性に不安を覚えたからではないでしょうか?

以上、中国側史料をベースに不明瞭な部分を補正した結果、卑弥呼は北九州の女王国の女王であり、台与は邪馬台国(=畿内の大和国)成立前の大和の女王と確認され、箸墓の被葬者の可能性があるとの推定が可能な段階に至りました。箸墓の被葬者は「日本書紀」によると倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)で、崇神天皇の時代に登場し、大物主神との神婚譚でも有名な巫女的人物です。

そのありようや時代から見て、倭迹迹日百襲姫命を鬼道の使い手であった卑弥呼の宗女・台与に充ててもさほど違和感はありません。問題は台与の没年と崇神天皇の生誕年がほぼ同じと見られ、二人の間に時代差があることです。この点は以下のように考えてみました。

倭迹迹日百襲姫命(台与)は第10代崇神天皇の時代に登場しますが、「日本書紀」は第7代考霊天皇の皇女としています。一方「魏志倭人伝」の「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮、」とある部分で、伊支馬を第8代孝元天皇、彌馬升を第9代開化天皇、第10代崇神天皇を彌馬獲支と考えれば、台与と崇神天皇の時代差は日中両方の史書で同じように表現されていることになります。時代差があるのに「日本書紀」が同時代に二人を描いたのは何か別の要素があったからだと思われ、次回でもう一度検討してみます。

ここまで中国側の史料を通して古代日本における最も重要かつ難しい問題を検討し、邪馬台国は大和国で女王・台与が都とする所と判明しています。但し、何度も書いているように、台与が大和にいたのは267年から269年の間で、その時点ではまだ邪馬台国(290年頃の大和国)は成立していなかった点お含み置きください。では、台与の後はどうなったのか?

邪馬台国=大和国なので、崇神天皇が台与の死後に男王の後継者として立ち実権を握って、大和王権が成立したと考えればスムーズです。また、そうした立場から台与の為に箸墓を築造したとも考えたいのですが、時代的には整合しません。台与が269年頃死んだとして、その時点で崇神天皇は生まれていたとしても幼児に過ぎないからです。

いずれにしても、邪馬台国と大和王権との関係はどうなるのかと言う疑問。卑弥呼の宗女である台与の後継女性はいたのか、いたとして彼女と大和王権との関係はどうなるか、箸墓の被葬者は本当に台与なのかと言った、様々な疑問が山積みとなって残っているのです。

これらの疑問に対する答えが日本側の史書に書かれているのでしょうか?書かれているとして中国側史料との内容的、年代的整合性は取れているのでしょうか?次回からは日本側の史料を検討しながら、黎明期における日本の姿をスケッチしていきたいと思います。

なお、この段階まで書いた結果、「邪馬台国と大和王権の謎を探る」の表題は、例えば、「English(英語)は英語である。」と同じような自己整合語に近いものとなってしまい、あまり適切ではなかったと理解されます。だからと言って途中で記事タイトルを変えるのもおかしなことになるので、そのままで続けます。

       邪馬台国と大和王権の謎を解く その18に続く
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