邪馬台国と大和王権の謎を解く その18


前回まで中国側の史料を通して古代日本における最も重要かつ難しい問題を検討し、一定の結論を得ることができました。では、その結論が日本側の史料と整合しているのでしょうか?詳しい記述のありそうな史書は「日本書紀」のみで、編纂者たちはその編纂に当たって中国の存在を間違いなく意識していたはずです。そうした前提に立てば、日中の史書は必ず整合しているとの予測が立てられます。予測通りの展開となるのかどうか、早速検討を始めましょう。

「日本書紀」の編纂は、日本国の正史を国内外に知らしめ皇室や各氏族の歴史を位置付ける国家の大事業となります。対外的には、神代から始まり万世一系の天皇が統べる独立国家として、中国にも劣らない長い歴史を持つ形にする必要がありました。このために生じる歪みは補正して考えないと、大きな考え違いを犯すことになりそうです。

「日本書紀」の編纂者たちは自国の歴史を編纂する際、中国の史書を参照しました。「日本書紀」の文章には様々な漢籍から流用されたものが数多く見られます。中国の史書を参照した彼らは、例えば「魏志倭人伝」の全文を熟知していたはずで、幾つかの内容が神功皇后摂政紀に引用されています。また「晋書」からの引用も見られます。

「魏志倭人伝」の内容を熟知していたにもかかわらず、「日本書紀」に引用するに当たって必要なはずの部分が書かれていなかった場合、彼らは意図的に取捨選択していたことになります。こうした部分から彼らの考えが浮き彫りになり、謎を解く突破口が見えてくると期待されます。

編纂者たちは編纂を進めるに当たり、事前に何度も議論を戦わせたはずです。大枠の方向性が纏まると、彼らは実年代においてどう神様や各天皇を配置していくかを検討したものと思われます。一定の配置が決まった上で、彼らはその配置に沿いつつ、日本国として最も望ましい形の歴史に再構成し直したのではないでしょうか?従って、彼らの意図を察しつつ分析していけば、一見不整合で荒唐無稽に感じられる場面があったとしても、何とか真相に迫れるはずです。

酔石亭主の基本スタンスは、大和に東遷した旧女王国の女王・台与と崇神天皇に始まる大和王権は別の存在だと言うものです。そうした視点で錯綜した謎をうまく整理し切れるか、とにかく検討を進めてみましょう。

中国側の史書が描く日本の古代において、最も頻出する人物は卑弥呼でした。彼女は太陽を祭祀し、鬼道に通じた巫女であることからも、太陽神・天照大神に擬せられるに相応しい女性です。そう考えた編纂者たちは、日本国の始まりとなる皇祖神天照大神に充てられる人物として卑弥呼を考えたものと思われます。問題は彼女が3世紀の人物であり、しかも中国からは臣下の扱いとされていた点です。例えば「魏志倭人伝」には大略以下のような記述があります。

景初2年(通説では景初3年で、239年)6月、倭の女王は、大夫の難升米(なしめ)等を派遣して(帯方)郡に至った。天子(魏の皇帝)の所に詣でて朝献することを求めた。帯方郡の太守の劉夏は、役人を遣わして送り、京都(洛陽)に詣でさせた。
その年の12月、詔書を以って、倭の女王に報えて言わく。「親魏倭王の卑弥呼に制詔(みことのり)する。帯方郡の太守劉夏は、使者を遣わし、汝の大夫難升米らを送り、汝が献じた男生口(生口とは奴隷を意味する)4人などを奉じて至らしめた。汝の所在地はあまりにも遠いが、遣使を以って朝献してきたのは汝の忠考であり、我は汝をはなはだ哀れに思う。
…以下略。

この後にも、つとめて(天子に)孝順をなせ。と言った文言があります。 上記によれば倭の女王・卑弥呼は魏に朝貢を求め、それを受けて魏の皇帝は卑弥呼を臣下として扱っています。日本における唯一絶対の太陽神・天照大神(卑弥呼)の実態が、中国に対し臣下の礼をとっていた人物と国内外に喧伝されれば、朝廷にとって大変な痛手になります。この厄介極まりない問題を、「日本書紀」の編纂者たちはどのように整理し切り抜けたのでしょう?すぐに答えは出せそうにないので、彼らの構想をあれこれ想像することから始めます。

編纂者たちにとって最も重要なのは、日本を神代から始まり万世一系の天皇が統べる独立国家として描くことでした。そう見せかけるには、事実上3世紀から始まる日本史を、それよりも遥かに古い時代まで引き伸ばす必要があります。そのためには、どこかに起点を置き日本史を再構築するしかありません。彼らはまず、神武天皇の即位を辛酉革命の思想に基づき、辛酉年(紀元前660年・神武天皇元年)1月1日(旧暦)に設定します。

神武天皇はご存知のように架空の人物で、実質の初代には崇神天皇が充てられます。崇神天皇は270年頃に生誕したと推定されることから、台与が大和に来た当時は生誕前か、生まれていたとしてもまだ幼児だったと思われます。「梁書」の倭国伝には以下の記載があります。

正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國爵命。

正始年中(240年から249年)に卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。そこでまた卑彌呼の宗女臺與(台与)を王として立てた。その後、また男の王が立った。二人とも中国の爵命を拝受した。

「梁書」の倭国伝には、その後、また男の王が立った。二人とも中国の爵命を拝受した。とあり、台与とその後の男の王がほとんど同時期に存命していたような書き方となっています。そこで、「その後また立った男の王」を崇神天皇に充てられないか少し検討してみましょう。

崇神天皇の生没年は270年~318年と推定され、台与より遅い時代の人物となります。318年は干支に基づく年代で、天皇の墓とされる行燈山古墳の築造年代が4世紀前半と推定されていることから、この崩御年は正しいとしておきます。仮に上記の男の王が崇神天皇だったとすれば、生没年が237年~269年頃と推定される台与と年代的な矛盾が出てくるため、台与の後に立った王を崇神天皇とするのは難しそうです。(注:台与が女王になった250年頃の年齢は13歳なので、生誕年は237年頃となる)

次に「魏志倭人伝」から見ていきます。同書には、「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮、」と記載あり、彌馬獲支=崇神天皇は三番目の官(最高位の執政官)に当たるので、この記述の場合、台与と崇神天皇の時代差が表現されています。具体的には、269年頃に台与が死去し、そのほぼ同時点から280年頃までを伊支馬(前回で書いたように考元天皇に充てられる)、280年から290年までを彌馬升(開化天皇)、290年以降が彌馬獲支で崇神天皇と見ることができるのです。

以上から、「梁書」と「魏志倭人伝」の間には微妙な差があると理解されます。では、「日本書紀」の編纂者たちはどう考えたのでしょう?知恵者の彼らは両方をうまく取り入れたように思われます。つまり彼らは、台与と崇神天皇を一方で同時代の人物であるかのように、また他方では時代差があるかのように書いたのです。

編纂者たちはまず、「梁書」に書かれた中国の爵命を拝受した男の王に注目したはずです。そうした高い立場を持つ王には崇神天皇が相応しいと考えたのではないでしょうか?「梁書」では、台与とその後の男の王がほとんど同時代のように書かれています。「日本書紀」の編纂者たちはこの内容を取り入れて、台与と崇神天皇を同時代の人物として描きました。

ここで注意すべきは「日本書紀」に台与の名前が出てこない点です。それもそのはず。「晋書」の266年には、倭の女王が朝献したとの記事がありました。266年時点の倭の女王は台与であり、このため、晋に朝献した彼女の名前を出すことができなかったのです。けれども、台与に充てられる人物を設定する必要はあります。賢い編纂者は卑弥呼に天照大神を充てたのと同様の手を使いました。すなわち、台与を別名で登場させたのです。台与が卑弥呼の後継宗女である以上、別名の誰かは巫女的な属性を持ち崇神天皇の時代に存在する形で登場してもらう必要があります。

そうした条件に見合う女性を「日本書紀」の中で探してみると、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)以外に当て嵌まりそうな人物は見当たりません。そう、編纂者は台与に倭迹迹日百襲姫命を充てたのです。従って、今後は倭迹迹日百襲姫命を台与として「日本書紀」を読んでいくことになります。台与の名前を「日本書紀」に登場させると、朝廷にとって実に不都合となる事情は、後半及び次回でもっと詳しく書く予定です。倭迹迹日百襲姫命の詳細に関しては以下のWikipedia記事を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD

では、編纂者はどんな形で「魏志倭人伝」を「日本書紀」に取り入れたのでしょう?「日本書紀」は倭迹迹日百襲姫命を第7代考霊天皇の皇女としています。そしてなぜか、第8代孝元天皇、第9代開化天皇の時代には登場せず、第10代崇神天皇の記事の中に出てきました。(注:「日本書紀」は孝元天皇の子で倭迹迹姫命がいます。倭迹迹日百襲姫命と同一人物のように見えてしまいますね)

上記の(注)部分はさて置き、これは「魏志倭人伝」の「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮、」を取り入れた結果と理解されます。伊支馬を第8代孝元天皇、彌馬升を第9代開化天皇、彌馬獲支を第10代崇神天皇に充てれば、「日本書紀」の内容は「魏志倭人伝」と見事に整合し、時代差も表現できるのです。(注:奴佳鞮は垂仁天皇に充てることになりますが、陳寿の時代の後となり整合させられません)

「日本書紀」の編纂者たちは「梁書」と「魏志倭人伝」の両方を都合よく取り入れることで、台与(倭迹迹日百襲姫命)と崇神天皇の時代差は明確に表現しつつ、両者を同時代の人物として描いたのです。もちろん、孝元天皇の崩御年齢が116歳で開化天皇は115歳ですから、孝元天皇の異母兄弟に当たる倭迹迹日百襲姫命が崇神天皇の時代に生きているとは思えませんが…。(注:倭迹迹日百襲姫命の父には孝霊天皇と孝元天皇の2説あり、「古事記」での孝元天皇崩御年齢は57歳、開化天皇は63歳となっています。いずれにしても、細かく見ると矛盾だらけとなります)

「日本書紀」の編纂者たちは「梁書」と「魏志倭人伝」の両方を都合よく取り入れましたが、上記のような矛盾も出てしまいます。彼らは常に中国側史料との整合性を意識しており、台与と崇神天皇の年代を合わせるため、ある策を用いました。それが干支です。「日本書紀」の年代は干支による紀年で記載されており、60年で一回りとなります。この編年方法は編纂者にとって実に都合の良いものでした。と言うか、干支を用いざるを得ない事情があったのです。

例えば崇神天皇の没年に関して干支を一回り60年繰り上げると258年になり、これにより台与と崇神天皇は同時期に存命していたと思わせることもできるのです。この策は神功皇后の時代でも使われており、超絶トリックとしか言いようのない奇策ですが、後の回で詳しく検討する予定です。さて繰り返しになりますが、卑弥呼から台与を経て崇神天皇に至る時代を、実年代で以下のように纏めてみます。

卑弥呼の生没年は175年~248年頃と推定されます。彼女の没後再び国は乱れ、それを鎮めるため台与が250年頃に13歳で女王に擁立され、彼女の生没年は237年~269年となります。台与は266年に晋に使者を派遣していることから、この時点ではまだ北九州にいた可能性が高く、その後の267年頃大和に遷し、269年に死去したと推定されます。台与の後となる崇神天皇の生没年は270年~318年になると判明しています。

「日本書紀」の編纂者はこの実年代をベースとしつつも、起点となる時代を紀元前660年にまで引き伸ばしています。紀元前660年まで引き伸ばされた神武天皇(実際には崇神天皇)の時代を起点として、編纂者はそれからさらに遡り、天皇の5代前を皇祖神天照大神とし、一方時代を下って各天皇を配置します。

実年代で270年頃に生まれた神武天皇(実態は崇神天皇)が290年に即位したと設定して、そこから5代遡った上で順に書くと以下のようになります。
天照大神-天忍穂耳命-瓊瓊杵尊-火遠理命-鵜葺草葺不合尊-神武天皇(崇神天皇)

あくまで編纂者の考え方を想定したに過ぎませんが、一代の在位を10年と設定すれば、卑弥呼(=天照大神)の在位は240年~250年となり、驚いたことに卑弥呼がいた実年代とほぼ一致しました。ここからも、「日本書紀」の編纂者が卑弥呼の存在とその実年代を意識した上で記述していると理解されますね。

また宮中にて祀られていた天照大神は、崇神天皇の時代に外へ出されることになります。天照大神と倭大国魂大神が同殿共床で宮中にて奉斎されるようになったのは、第5代孝昭天皇即位の年からです。これは大和神社の由緒にあり、詳細は以下の天理市ホームページを参照ください。
http://www.city.tenri.nara.jp/kurashi/kyouiku/bunkazai/1391411846622.html

上記のように天照大神は孝昭天皇の時代から宮中で奉斎されるようになったのですが、孝昭天皇は崇神天皇から5代遡った天皇であり、考昭天皇から順に書くと以下の系譜となります。
考昭天皇-考安天皇-考霊天皇-考元天皇-開化天皇-崇神天皇

実年代において崇神天皇から5代遡れば卑弥呼(天照大神)の時代になります。天照大神が宮中で奉斎されるようになったのもまた同様に、崇神天皇から5代遡った考昭天皇の時代となるのです。これが偶然とはとても考えられません。

次に神武天皇から時代を下ります。「日本書紀」の書紀紀年における神武天皇は紀元前660年に即位した人物ですから、実年代において崇神天皇が立太子した290年と比較すれば、年代を実際より950年も引き伸ばしたことになります。かくも長く引き伸ばした年代を圧縮するには、神武天皇以降の各天皇の寿命を大幅に引き延ばし、ある時点で実年代と一致するような形とするしかありません。

そこで編纂者は神武天皇から崇神天皇に至る間に八人の天皇を設定しました。もちろんその主たる目的は、紀元前660年まで引き伸ばされた日本の歴史を圧縮し調整するためでしょう。八人の天皇とは非実在説が唱えられている欠史八代に当たります。「日本書紀」における神武天皇から崇神天皇までの在位期間と没年齢を以下に記載します。

神武天皇の在位期間は76年で127歳、綏靖天皇は33年で84歳、安寧天皇は38年で57歳、懿徳天皇は34年で75歳、考昭天皇は83年で113歳、考安天皇は102年で137歳、考霊天皇は72年で128歳、考元天皇は57年で116歳、開化天皇は60年で115歳、崇神天皇は68年で120歳。

実質の初代となる崇神天皇までで600年分以上圧縮していますが、まだ350年ほど圧縮が必要と理解されます。

さて、安本美典氏は欠史八代に関し「古代史論争最前線」(柏書房)において、后妃や都、陵墓の所在地、陵墓が築かれた地形についての記事があるから実在とされています。同氏の議論は統計などの手法も駆使し実に参考になりますが、欠史八代に関しては同意できそうにありません。都や陵墓の所在地などが実在していても、それらが天皇のものとする根拠はないからです。

尾張氏の謎解きにおいては、欠史八代は主に葛城族の宮殿や陵墓を適当に充当したものとの結論に至っています。いずれにしても、紀元前660年まで引き伸ばした歴史を縮めるためにこれらの天皇が設定されたと見て間違いなさそうです。

欠史八代が終わった後、編纂者は実在の人物を登場させます。それが実質的初代となる崇神天皇でした。ただ、当時天皇と言う称号があったとは考えられず、「魏志倭人伝」が書くように官(最高位の執政官)と考えた方が適当なように思えます。

いずれにしても神武天皇は設定上の初代であり、崇神天皇は実質的初代であるため、両天皇は共に、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と異なる表記で同じ最初の天皇であることを示す名前を持つこととなりました。この辺りにも「日本書紀」の編纂者の工夫が感じられます。

続いて編纂者たちは書紀紀年における崇神天皇の崩御年(紀元前30年)から時代を下らせます。崇神天皇の次となる垂仁天皇が在位期間99年で崩御年齢が140歳、景行天皇は60年で106歳、成務天皇は60年で107歳、仲哀天皇は9年で52歳、神功皇后は摂政としての在位が69年で100歳となります。

書紀紀年における在位期間は以下の通りです。
崇神天皇BC97年~BC30年、垂仁天皇BC29年~AD70年、景行天皇71年~130年、成務天皇131年~190年、仲哀天皇192年~200年、神功皇后摂政201年~269年。

崇神天皇の没年を318年とした上で、書紀紀年を多少参考にしつつ全体を実年代に置き換えるとおおよそ以下の通りとなります。
崇神天皇290年以降~318年、垂仁天皇319年~330年、景行天皇331年~346年、成務天皇347年~362年、仲哀天皇363年~368年、神功皇后摂政369年~389年。

上記のように崇神天皇の後も年代圧縮作業が続いており、神功皇后の没年段階に至ってもなお書紀紀年と実年代との間に120年ほどの差があるので、圧縮作業は引き続き必要となります。今後の検討において最も重要な点は、この120年の圧縮必要年であり、是非記憶に留めておいてください。

書紀紀年における神功皇后摂政紀201年~269年がどんな意味を持つかもうおわかりですね。そう、引き伸ばした年代を圧縮し続けた結果、否応なしに実年代で卑弥呼と台与が実在した201年から269年頃の時代がやって来たのです。卑弥呼と台与に関しては「魏志倭人伝」に年代も含む詳細な記述が見られます。この時代が「日本書紀」の編纂者たちにとっていかに危険であるのかを、神功皇后摂政65年と66年の記事から見ていきます。

65年条:六十五年に、百済の枕流王薨りぬ。(65年に百済の枕流王が死去した)
66年条:六十六年。この年が武帝の泰初二年なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ。(66年が武帝の泰始2年である。晋の天子の言行や勲功を記した記録によれば、武帝の泰始2年10月に倭の女王が使節を何度か送り貢献してきたと言う)

65年条の枕流王の死去は「三国史記」の元になった史料・情報からの引用と推定され、年代は385年になります。一方、66年条は「晋書」からの引用で、武帝の泰初(泰始)2年は266年になります。神功皇后摂政65年が385年で、翌年の66年は119年も前の266年に戻ってしまうとは、編纂者がタイムマシンでも用いたのでしょうか?

もちろんタイムマシンなど関係ありません。初代天皇をBC660年まで引き伸ばして設定し、圧縮・調整しつつ時代を下って来た結果、書紀紀年では266年なのに、実年代では386年となり、どちらの年代にも国外史料が存在することから、隠しきれない矛盾が露呈してしまったのです。また神功皇后摂政66年が書紀紀年では266年で、実年代では386年になることから、時代差がどんぴしゃりで120年となることも確認されます。

       邪馬台国と大和王権の謎を解く その19に続く
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