邪馬台国と大和王権の謎を解く その19


前回で書いたように、神功皇后摂政66年が書紀紀年では266年なのに、実年代では386年となり、どちらの年代でも国外史料が存在することから、隠しきれない矛盾が露呈してしまいました。これが編纂者たちにとって最大の難関になったのでしょう。彼らはどうこの危機的状況に立ち向かったのか、じっくりと検討していきます。多分彼らは、この場面が来ることを「日本書紀」編纂の初期段階から想定し認識していたと思います。

書紀紀年で神功皇后摂政は201年から269年となります。実年代におけるこの時期は卑弥呼と台与の時代に相当します。(注:神功皇后が摂政となった201年を卑弥呼の女王共立年とすると、190年頃に生誕年を設定でき、その場合死去年齢は58歳前後が想定され妥当なものとなります。けれども、倭国大乱が184年に終わったとすれば、女王共立が201年では遅すぎることになります)

さて、卑弥呼と台与の二人は女性なので、「日本書紀」が設定する人物も女性とせざるを得ず、神功皇后と言う名前の人物を配しました。卑弥呼と台与は女王ですが神功皇后は皇后であり、位は高いものの女王(女帝)とは異なる立場となっています。神功皇后を例えば神功天皇と書けば、日本における唯一絶対の存在である皇祖神天照大神(卑弥呼)が、実は魏王朝に臣従した女性だとバレてしまう可能性があり、皇后の設定はこれを避けようとする苦肉の策だったと思われます。つまり「日本書紀」の編纂者たちは、神功皇后を卑弥呼と台与に充てられそうで充てられなさそうな、曖昧な形にしたのです。

なぜ編纂者たちはそんなややこしい設定をしたのでしょう?理由はもうお分かりですね。中国側の史書には女王である卑弥呼と台与の名前がきちんと出ており、しかも魏から臣下扱いされた書き方となっているからです。皇祖神天照大神に充てた卑弥呼とその宗女・台与が魏に朝献し臣下扱いされた人物と悟られてしまえば、「日本書紀」編纂の根本方針が崩壊してしまうことになります。

「日本書紀」編纂の主目的は、海外、特に中国に対して、日本が神代から始まり代々天皇によって統治された独立国であると示すことにあり、卑弥呼と台与の実像が「日本書紀」によって知られてしまうような真逆の事態は、編纂者たちにとって実に不都合であり危険であったのは、言うまでもありません。

そこで編纂者は卑弥呼と台与に充てる人物を女帝ではなく皇后として設定し、同一人物と見做されないようにしたのです。卑弥呼と台与に相当する人物として神功皇后を充てたのに、神功皇后が卑弥呼や台与と思われないようにしなければならないのですから、本当に綱渡り的な措置と言えるでしょう。

そうしつつも、中国側の史料に整合する何らかの文面を残さないと、あれこれ突っ込まれ答えに窮する恐れがあります。悩み抜いた彼らは、神功皇后摂政39年、40年、43年の各条に「魏志倭人伝」から引用する形で、倭の女王や倭王が朝貢する記事を掲載しました。内容は以下の近代デジタルライブラリ・コマ番号94を参照ください。小さい文字で書かれていることに苦笑せざるを得ません。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091

39年条のみ現代文で書いてみます。

39年、この年の太歳己未(つちのとひつじ)魏志(魏志倭人伝)が言うには、明帝の景初3年(239年)6月、倭の女王は大夫難升米らを派遣して帯方郡に至り、(洛陽の)天子にお目通りすることを求めて朝献してきた。太守の鄧夏は役人を付き添わせて洛陽に行かせた。(注:原文は景初2年ですが、干支からすると景初3年となる)

神功皇后摂政43年条は正始4年で243年に当たるので、ここまでは卑弥呼に関係する記述と確認できます。台与に関しては神功皇后摂政の66年条に以下のような文面を滑り込ませました。66年条はコマ番号96になります。

六十六年。この年が武帝の泰初(泰始)二年(266年)なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ。

神功皇后摂政66年は武帝の泰始2年(266年)である。晋の起居(晋の天子の言行や勲功を記した日記体の政治上の記録)によれば、武帝の泰始2年の10月に、倭の女王が通訳を何度も派遣し貢献したと言う。

ここまで書いてしまえば、卑弥呼と台与が魏に朝献していたのが隠しきれない状態となりますが、編纂者はよほどの知恵者だったのか、解決策をひねり出します。39年条から43年条にある倭の女王や倭王は明らかに卑弥呼であり、66年条の倭の女王は台与なのに、一切名前を出していないのはその一つと言えるでしょう。

いずれにしても、彼らが「魏志倭人伝」の内容を熟知しており、卑弥呼と台与の存在とその実年代を認識していたのは間違いないことになります。熟知していたのに一切名前を出さなかったのは、「日本書紀」の編纂者に危険を避けると言う明確な意図があったからです。

面白いと思えるのは、例えば晋の泰始2年は266年であり、一方神功皇后摂政66年も書紀紀年で266年となっており、表面的には完全に合致している点です。いかに編纂者が中国側の史書と整合するよう気を配りながら書いているかが、ここからも理解できます。もちろん、中国側史書に整合させつつも隠すべき部分はちゃんと隠している訳です。編纂者が卑弥呼と台与を熟知している以上、この二人に充てられた神功皇后の崩御年である69年(269年)は、既に書いたように台与の崩御年である可能性が非常に高いことになります。

彼らの知恵には驚かされますが、実はもっと驚かされる部分がありました。上記したように神功皇后摂政39年、40年、43年、66年の各条には倭の女王が中国の皇帝に対して臣従している様子などが描かれており、これらはどうしても隠すことができない形となっています。

一方、神功皇后摂政には新羅との戦いの場面などが見られます。新羅の建国は356年で滅亡が935年ですから、200年代後半に新羅など存在せず出てくるはずがありません。百済の場合はどうでしょうか?百済の建国は多分346年で滅亡が660年となっていますから、新羅同様神功皇后摂政の時代には出てこないはずです。

ところがもうご存知のように、神功皇后摂政66年の前年である65年に「百済の枕流王薨りぬ」、との記事が出てきます。神功皇后摂政65年は書紀紀年では265年となり、一方「三国史記」では枕流王2年条に「王薨」とあり、枕流王2年は385年となります。枕流王の崩御年が「日本書紀」と「三国史記」の間で120年も時代差があったのでは全く合致しません。

どちらが正しいのかは一目瞭然で、百済の建国時期を考慮すると「三国史記」に軍配が上がります。(注:「三国史記」は朝鮮における最古の歴史書で、1143年に編纂が始まり1145年に完成したとされます。従って「日本書紀」の編纂者は「三国史記」の元となる何らかの原史料を参照したはずです)

ところがです。時代差の120年(干支二運)に注目すると驚くべき結果になるのです。書紀紀年で265年となる神功皇后摂政65年は、干支では乙酉年で、干支二運(120年)を繰り下げるとあら不思議、385年になり年代は完全に一致してしまいました。ここに「日本書紀」における最大のトリックがあり、編纂者たちが年代を表すのに干支を使用した目的は、このためだったと理解されます。(注:干支は十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞であり、暦に使用すれば60年で一回りすることになります)

つまり「日本書紀」の神功皇后摂政紀は、一方で中国側の史書が記す3世紀前半から後半頃の時代(卑弥呼と台与の時代)と整合し、他方で4世紀後半頃の朝鮮半島側の情報と整合するような形で書かれているのです。これほど作為的、意図的に書かれた史書は他のどこにもありません。年代差の問題を解決するのに、しばしば2倍年歴と言った議論が出てきますが、そうしたややこしい議論など必要ないこともこれではっきりします。

上記を、前回でも書きましたが、「日本書紀」によって引き伸ばされた年代(書紀紀年)と実年代で比較対照しながら具体的に見ていきます。

書紀紀年による各天皇の在位。
崇神天皇BC97年~BC30年、垂仁天皇BC29年~AD70年、景行天皇71年~130年、成務天皇131年~190年、仲哀天皇192年~200年、神功皇后摂政201年~269年。
書紀紀年における神功皇后の時代が、実年代における卑弥呼・台与の時代にぴったり一致すると理解されますね。

実年代による各天皇の推定在位。
崇神天皇290年以降~318年、垂仁天皇319年~330年、景行天皇331年~346年、成務天皇347年~362年、仲哀天皇363年~368年、神功皇后摂政369年~389年。
上記は崇神天皇と神功皇后の没年を決めた上で、書紀紀年を多少参考にしつつ適宜書いたものです。

以上、神功皇后摂政紀が書紀紀年では卑弥呼・台与の時代に相当し、実年代では4世紀後半になると確認されました。なお神功皇后の妹に豊姫(淀姫)がいますが、神功皇后を卑弥呼、豊姫を台与に充てることもできそうです。さて、この賢すぎる編纂者の頭の中に何があったのかを推定してみましょう。後代になって「日本書紀」の神功皇后摂政を読んだ誰かが、神功皇后と倭の女王(卑弥呼と台与)は同一人物ではないかと疑いを持ったとします。

それに対する編纂者の心中の答えは、皇后はあくまで皇后であって女帝(女王)ではなく別人物だ。多分九州にあった小さな国の女王が魏や晋に朝貢していて、それが「魏志倭人伝」に採録されたのだろう、となりそうです。

「日本書紀」における「魏志倭人伝」からの引用は、卑弥呼や台与の名前が出てくる部分を極めて意図的に外しており、神功皇后がこの二人と同一人物に思われないよう編纂者が細心の注意を払っていたと理解されます。Wikipediaを読むと、『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼を神功皇后と同一視できるように編集されている。などと書かれていますが、同一視できるように編集するなら最初から卑弥呼の名前が書かれた部分を引用すればいいのに、そうされてはいません。彼らは一定の意図に基づいて「魏志倭人伝」の記事を選択し、「日本書紀」に引用しているのです。よって、Wikiの指摘は当たらないことになります。

さて、別の朝鮮半島情勢に詳しい誰かが、百済の枕流王の崩御が神功皇后摂政65年なら、その年は385年のはずなのに、1年後の66年が晋の泰始2年(266年)となるのはおかしいと思ったとします。それに対する編纂者の心中の答えは以下のようになりそうです。

神功皇后摂政紀を読めば、そのほぼ全体が4世紀後半における日本と朝鮮半島の状況を書いるのは一目瞭然である。魏志などからの引用記事が幾つか混入しているのは、多分別の編纂者が干支を取り違えてここに入れてしまったからだろう。間違いに気が付かなかったのはいけないが、「魏志倭人伝」に書かれている内容を引用すること自体は問題ないはずだ。

あなたはこの説明で納得できますか?もやもやしたものは残りますが、煙にまかれたような気分で引き下がるのではないでしょうか?

いずれにしても「日本書紀」の編纂者は、例えば神功皇后65年であれば、385年と265年のどちらとも取れるよう、極めて意図的に神功皇后紀を書いているのです。さらに、知っているにも関わらず卑弥呼と台与の名前を書かなかったのは、これを入れれば致命的になるとわかっていたからです。編纂者はどちらとも取れるよう曖昧に書いた。日本人がとかく物事を曖昧にしがちにする元は、ここにあったのではないかとさえ思えてきます。

なお、神功皇后摂政紀49年春3月条や50年夏5月条は6世紀頃の史実を投影したものとされています。これが正しいとすれば、「日本書紀」の編纂者は神功皇后摂政紀において300年分もの時代を書き入れていることになります。賢すぎる編纂者がそこまでの間違いをするはずはなく、6世紀の記事をあえて挿入したのは意図的に読み手の混乱を図ったものに他なりません。彼らは4世紀後半の記事にあえて6世紀の出来事までも書き入れ、意図的に混乱を広げました。この措置により、卑弥呼と台与の問題をできる限り薄めようとしたのです。全く手に負えない人たちですね。

長々と書きましたが、神功皇后の時代は干支の取り方で、卑弥呼及び台与の時代である3世紀と4世紀後半の両方を示せるようになっていると判明しました。この二つの異なる時代を、一人の人物の中で描くと言う途方もない荒業を、「日本書紀」の編纂者は干支の超絶トリックを使うことでやってのけたことになります。彼らの賢さには、ただもう呆れ脱帽するしかありません。

よって神功皇后とは、卑弥呼と台与に充てたと言う意味では架空の人物になり、一方北九州と朝鮮半島関連で数多くの伝説や伝承地を残していることから、4世紀後半の北九州において皇后に見合うような女傑が存在していた可能性は高く、その意味では実在の人物とも言えるでしょう。

以上から、「日本書紀」の編纂者が卑弥呼や台与の存在を熟知しながら、どうしても実名で書けなかった事情は明らかになりました。また、場所の特定はできませんが、卑弥呼の女王国は北九州にあり、台与がいた邪馬台国(大和国)は畿内にあった点も明確となりました。邪馬台国問題に関係する謎はこれでほぼ解き明かされたと言えるでしょう。

箸墓古墳や纏向遺跡の問題を検討するのに必要な前提は、ここまでの検討により確認されたので、次回からは、箸墓古墳と周辺の古い古墳、纏向遺跡などが誰に関係するものなのか、大和にあった邪馬台国(大和国)と大和王権に連続性・継承性はあるのかどうかなどの問題を考えていきます。

        邪馬台国と大和王権の謎を解く その20に続く
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