邪馬台国と大和王権の謎を解く その20


暑い毎日が続いています。あまりの暑さのせいか前回の記事を読み直してみると、やや散漫な内容になってしまったようにも思えてきました。そこで、前回までを簡単に纏めてみます。

中国側の史書を分析した結果、女王国は女王・卑弥呼の国であり、邪馬台国は大和の国で卑弥呼の宗女である台与が都とする所と判明しました。従って、台与はある時点で九州から畿内(大和)に東遷したことになります。続いて日本側の史書に書かれている内容をチェックしたところ、「魏志倭人伝」から引用する形で「日本書紀」の神功皇后摂政紀に卑弥呼と台与に関係する記事が掲載されていました。

但し「日本書紀」の編纂は、日本が神代から始まる長い歴史を持ち、代々天皇が統治する独立国家であることを対外的に(特に中国に対し)示すことが主目的であり、太陽神天照大神に充てた卑弥呼やその後継者である台与が魏に朝献し、臣下として扱われていた点が明らかになってしまうと、全てが台無しになりこれは大きな問題です。

もう一つの問題は、実質3世紀から始まる日本の歴史を紀元前660年まで引き伸ばしたため、その圧縮・調整のため各天皇の寿命を大幅に長くして設定せざるを得なかった点です。そのようにして時代を下っていくと、神功皇后の時代に入ります。神功皇后は書紀紀年における摂政在位が201年から269年で卑弥呼と台与に充てられ、実年代では4世紀後半の人物に相当します。

「日本書紀」の編纂者は中国側の史書と整合性を常に意識しているため、書紀紀年における神功皇后の時代は「魏志倭人伝」や「晋書」から引用せざるを得なくなりました。例えば「晋書」に書かれた晋の泰始2年は266年であり、神功皇后摂政66年も書紀紀年で266年となりピッタリ一致させています。一方で実年代の4世紀後半頃は新羅や百済とのやり取りが多くあり、例えば神功皇后摂政65年には百済の枕流王の崩御が記載されその年は385年に当たります。

つまり「日本書紀」の編纂に当たって、神功皇后摂政紀は全ての矛盾が集中する極めて厄介で危険極まりない時代となるのです。この絶体絶命的な難所を乗り切るため、編纂者たちは干支のトリックを採用しました。それにより前回で書いたように、干支の取り方で、卑弥呼及び台与の時代である3世紀と4世紀後半の両方を示せるようにしたのです。また、中国側の史書との整合性を保つため、それらから引用しつつも卑弥呼と台与の名前は一切出さず、皇祖神天照大神に充てた卑弥呼が魏に朝献し、臣下として扱われていた事実を隠し通すことができました。

以上中国と日本の史書を検討する中で、不十分な面がまだ残るものの、邪馬台国や卑弥呼の問題に一定の結論が出たことになります。続いて今回からは、箸墓古墳と纏向遺跡が誰に関係するものなのか、大和にあった邪馬台国(大和国)と大和王権に連続性・継承性はあるのかと言った問題をじっくり考えていきます。

邪馬台国畿内説との関連で何かと騒がしい箸墓古墳に関しては、近年様々な測定法により3世紀半ばとの結果が出ています。この時代は卑弥呼の没年に相当することから、纏向遺跡が邪馬台国の中心になり箸墓は卑弥呼の墓になるとの説すなわち邪馬台国畿内説が勢いを増してきました。

この説を見ると、邪馬台国と卑弥呼は密接不可分なものであるとの思い込みや固定観念が影響していると理解されます。もちろん今までの検討から卑弥呼は九州にあった女王国の女王であり、邪馬台国とは関係ないことが判明しています。

それはさて置き、箸墓古墳に関してどんな測定が行われたのでしょう?酔石亭主ではとても理解できない内容ですが、炭素14年代測定法と呼ばれる手法があるそうです。箸墓古墳の周濠からは土器が出土しているので、まず土器に付着した炭化物を測定します。ところがそれだけでは年代特定できないので、測定値を年輪年代測定法の年代により較正し年代を導き出しているとのこと。

安本美典氏の「古代史論争最前線」(柏書房)によれば、土器付着部炭化物を用いるとクルミや桃核など他の試料より年代が古く出るとのことで、古墳自体の正確な年代特定にはならないようです。こうした問題の詳細は以下のPDFを参照ください。
http://homepage3.nifty.com/washizaki/rekihaku.pdf

較正に用いる年輪年代測定法自体に関しても問題があります。この測定法は出土した木材の伐採年が判明するに過ぎず、必ずしも古墳の築造や建物の建築時期と一致する訳ではないからです。極端な例かもしれませんが、千年前に建築された神社の社殿が800年前に解体されたとします。この神社から勧請された他地域の神社が、800年前に解体された古材を使用して建築された場合どうなるでしょう?800年前に創建され建てられた神社なのに、年輪年代測定法では千年前に建築されたものと決め付けられてしまうのです。

土器編年に関しては纒向遺跡出土の弥生土器・土師器を分類・整理して得られた纏向編年があり、1類から5類に区分され、1類は180年から210年とされています。ただ研究者によっては50年程度の差が出てきています。纏向遺跡においては纒向3類から纒向4類の時期が多く、280年から290年頃にかけてが盛期と考えられます。

箸墓古墳に関しては、古墳の周濠の底からから布留0式の土器が出土しています。布留0式は纏向3類に相当することから、築造年代は3世紀後半になると考えられます。ただ研究者の年代観による違いは大きく、250年~350年と100年もの時代差が出てくるとのこと。その場合、箸墓古墳の被葬者は248年頃死去した卑弥呼、269年頃死去した台与、318年頃死去した崇神天皇の誰もが候補になり得ます。こうした状況から、最近では研究者の間でも考古学の相対年代を実年代に置き換えるのは不可能との意見が強くなっており、箸墓古墳の被葬者に関しても、最終的には文献・史料によって検討するしかなさそうです。

纏向遺跡は今までの研究成果から、180年頃に突然出現した政治・祭祀都市とされています。一方、「後漢書」の倭伝によれば178年から184年の間、倭国は戦乱の真っただ中にありました。既に書いたように国土が荒れ放題になっている状況の中、驚いたことに纏向遺跡では防衛施設となる環濠が検出されていません。

環濠は外敵からの防御を目的として設置され、断面が深くV字形に掘削されたものや、周辺に逆茂木のような先の尖った杭を埋め込みバリケードとしているものも見られます。例えば尾張の朝日遺跡は東海地方における弥生時代の巨大遺跡ですが、環濠、柵列、逆茂木、乱杭などにより集落を二重、三重に囲んで防御しています。朝日遺跡に関しては「清須市周辺散歩 その4」にて書いていますので参照ください。朝日遺跡は別の機会にもう一度取り上げる予定です。

さて、倭国は180年頃戦乱のただなかにありました。だとすれば、7万戸余を擁する邪馬台国も当然その戦乱に巻き込まれていたはずです。なのに、邪馬台国畿内説において中心的な場所となる纏向遺跡からは防衛遺構が検出されていない。この矛盾をどう考えればいいのでしょう?答えは簡単ですね。戦乱があった倭国とは九州のことで畿内ではなかったと考えれば、矛盾はなくなります。では、180年頃に纏向の地に政治・祭祀都市を築いた主体は一体誰なのでしょう?

        邪馬台国と大和王権の謎を解く その21に続く

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