邪馬台国と大和王権の謎を解く その21


今回は、180年から210年頃纏向の地に政治・祭祀都市を築いた主体が誰なのかを見ていきます。以前に書いた「尾張氏の謎を解く」シリーズの最初の方で、ニギハヤヒは倭国の大乱を避け190年頃に大和へ移動したと書きました。190年頃と書いたのは、戦乱で荒廃した国土を捨て、新天地を目指したとの想定によります。その想定を戦乱の最中に変えれば、180年頃彼らは大和へ移動したとなり、最終目的地が纏向だったのではないでしょうか?もちろん纏向遺跡の始まりを厳密に180年と特定できる訳ではなく、190年頃としても大差はありません。

大和に東遷したニギハヤヒは、多分奈良盆地の北西部に留まったはずです。けれども、彼の子供たちや物部氏の一族は現在の天理市辺りに入り、そこから南下して北九州のような戦乱のない纏向の地に都市を築き、三輪山をニギハヤヒの神霊の籠る聖山として祭祀したと考えられます。やや先走りの感もありますが、初期の纏向遺跡を築いたのは、180年から190年頃に北九州の遠賀川流域から物部氏を率いて大和に東遷したニギハヤヒの子供たちや物部氏一族であるとの前提で検討を進めます。

外来の物部氏が纏向の地に入ったとの前提で見れば、同遺跡が自然発生的な集落ではなく、180年から210年頃に突如出現した計画的都市である言う考古学的見解に整合してきます。弥生時代の唐古・鍵遺跡はほぼその頃衰退に向かいますが、これは多数の人員が物部氏によって引き抜かれた結果と考えれば辻褄も合ってきます。(注:ニギハヤヒに率いられた一団が当時自分たちを物部氏としていたかは不明です。多分そうした認識はなかったと思いますが、ここでは便宜的に物部氏として書いています)

次に纏向遺跡で発掘された土器のうち2割から3割は他の地域から運ばれたもので、その約半分は東海系の土器が占めている理由を考えてみます。尾張の各遺跡からは遠賀川式土器が出土しています。これは弥生時代前期の今から約2300年前に、遠賀川流域から尾張へと人(プレ物部氏と仮称します)の流入があったことを意味します。(注:ニギハヤヒ時代の遠賀川流域は物部氏の本拠となります)

過去のそうした流れに乗って、180年から190年頃ニギハヤヒに従って大和に向かった二十五部の物部のうち、例えば大倉主命(=高倉下)を奉じる嶋戸物部や、贄田物部(にえたもののべ、贄田は熱田神宮の熱田と同じ)などが難波津を過ぎた草香津から上陸せず、紀伊半島を船で回り尾張に入ったものと考えられます。(注:ニギハヤヒに率いられた物部氏の一部が尾張に入った部分は、別の機会に詳しく検討します)

これら物部氏の別動隊は熱田台地に上陸しました。それを証するかのように、熱田台地には高倉下を祀る高座結御子神社が鎮座し、同社の創建にはこの地に来た嶋戸物部の存在が影響していると推定されます。境内地の高蔵遺跡からは弥生時代前期の遠賀川式土器が出土しており、遠賀川流域にいたプレ物部氏が熱田台地に入った点も確認されます。こうした弥生時代前期の流れに乗り、弥生時代後期に嶋戸物部や贄田物部が尾張の熱田台地に来たのです。高座結御子神社に関しては熱田神宮の謎説きの中で書いていますので以下を参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1099.html
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-date-20130313.html

贄田物部に関して、贄田(にえた)は(にぎた)とも読み、この読みは新北、熟田、熱田などにも当てはまります。尾張における熱田(あつた)の地名は嶋戸物部と共にこの地に上陸した贄田物部に由来していたのです。

また彼らは、名古屋市千種区から東区、北区の南部一帯、守山区や春日井市西部などに拠点を築いたようで、市内には物部神社や高牟神社など物部氏系の神社も鎮座しています。両神社に関しては既に書いていますので、以下を参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1084.html
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1080.html

つまり、東海地方には畿内に入った物部氏の同族がいたので、そこから纏向に持ち込まれた土器が多くなったのです。纏向遺跡からは九州の土器がほとんど出土しないため、考古学的には邪馬台国東遷はないとする研究者もいますが、現地やその他地域からの調達で賄うことができ、九州の土器は必要なかったのでしょう。(注:東遷したのは邪馬台国ではなく女王国の台与グループであり、その意味では邪馬台国東遷はないとも言い得ます)

但し、東海系の土器は纏向2類の頃(210年から250年)から増え始めており、280年から290年頃が盛期と見られることから、纏向に都市が建設され始めた時期より若干遅れることになります。この問題は、熱田台地に入った物部氏が一帯に定着してから土器を出荷し始めたと考えればある程度の説明はつくことになります。一方東海系と言っても、伊勢の土器も多くあり物部氏との関係だけでは説明できない部分も残ります。

いずれにしても、上記のようなストーリーであれば、180年から210年頃に突然纏向遺跡が出現した謎も解けますし、遺跡に防御のための環濠がない理由、東海系の土器が多い理由なども、一応の説明ができることになります。そう、180年から200年代初めの纏向は物部氏が造り上げた都市だったのです。その前提で考えれば、桜井小学校の周辺にある纏向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳などの被葬者は物部氏となります。と言うことで、各古墳を見ていきましょう。


纏向石塚古墳と勝山古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳の位置を示すグーグル画像。

画像の纏向小学校の東が纏向石塚古墳、北が勝山古墳、西側が矢塚古墳、画像の下端付近が東田大塚古墳となっています。

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纏向石塚古墳。 

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纏向石塚古墳。

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矢塚古墳。

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矢塚古墳の解説板。

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勝山古墳。

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勝山古墳。

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勝山古墳の解説板。

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東田大塚古墳。

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東田大塚古墳の解説板。

纏向石塚古墳に関しては以下Wikipediaより抜粋します。

纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)は奈良県桜井市にある、纒向古墳群に属する古墳。纏向遺跡内では最古の古墳の可能性がある。奈良県桜井市太田字石塚に位置する纒向型前方後円墳丘墓で、規模は全長96メートル、後円部径64メートル、後円部の主丘部の東西59メートル、南北45メートル。後円部は不整形円形で、前方部は三味線の撥状に開いている。築造時期は古墳時代前期初頭と推定される。3世紀の初頭(庄内0式期、西側周濠の出土土器による)、前半(庄内1式期、盛土内出土土器による)、または中頃(庄内3式期、導水溝出土土器による)という3つの説がある。

上記以外に、出土した桧板を年輪年代測定した結果の年代は西暦177年+αとなっています。勝山古墳に関しても以下Wikipediaより引用します。

2001年(平成13年)5月30日。第4次調査において周濠くびれ部埋土中より検出されたヒノキ板材を奈良文化財研究所埋蔵文化財センターにて年輪年代測定の結果、伐採年代は、新しく見積もっても西暦210年頃と推定されることが判明する。年輪年代測定以前は、布留0式土器の出土により土器編年を利用し年代基準を決定していた。土器編年による年代は西暦300年前後。

年輪年代測定法や土器編年はあくまで参考にしかならず、決定打とは言えないと上記からも理解されます

纏向石塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳などの古墳群は、明らかに箸墓古墳とは形状が異なっており、前方後円形でありながら、前方部が短く、一般的には纒向型前方後円墳と称されています。纒向古墳群の位置付けは難しく日本における最古の古墳群、或いは弥生時代の墳丘墓ともされています。桜井市埋蔵財文化センター発行の『「纏向」その後』と言う冊子には、纏向型の各前方後円墳に関する推定築造年代が書かれており、3世紀前半から後半の範囲内となっていました。

一方箸墓古墳に関しては、同センター発行の「纏向へ行こう!」に布留0式期の3世紀中頃から後半と考えられる、と書かれています。これは、纒向学研究センター長の寺沢薫氏が、箸墓古墳の周濠の最下層の土器は纒向3式の新相のもので布留0式と呼んでおられ、築造時期は3世紀中頃から後半になると推定されていることによるのでしょう。但し、寺沢氏自身布留0式を実年代に置き換えるのは至難の業と述べておられるようで、考古学的な面からの年代特定は難しそうです。

そこで、纒向型前方後円墳と箸墓古墳の違いを検討してみます。酔石亭主の視点では、4基の纒向型前方後円墳は180年から190年頃大和に東遷し、その後纏向の地に入った物部氏の墓で、箸墓古墳は267年頃死去した旧女王国グループの台与の墓となります。従って、両者の時代差は70年から80年となります。また古墳の築造主体も纒向型前方後円墳は物部氏で箸墓古墳は旧女王国グループとなるので異なります。

箸墓古墳が後に続く前方後円墳の始まりであることから、4基の纒向型前方後円墳古墳より箸墓古墳の方が後の築造になると推定されます。纏向型の各前方後円墳の推定築造年代が3世紀前半から後半の範囲内であるとすれば、箸墓古墳の完工は3世紀後半のやや遅い時期になるはずです。最古の纏向石塚古墳は一般的に3世紀初頭の築造とされ、そうであれば箸墓古墳は280年前後の築造になります。

台与は酔石亭主の推論によると267年頃大和に東遷し纏向に入り、269年に死去しています。箸墓はその巨大な規模から築造に10年程度かかるとされています。269年+10年で箸墓の完工が279年となれば、酔石亭主の推論にほぼ合致することになり、従って箸墓古墳を台与の墓に比定することは十分可能です。なお、「日本書紀」の編纂者が箸墓の被葬者を台与ではなく倭迹迹日百襲姫命と書いたのは、ここまで詳しく検討してきたように、事実を伝えることがあまりにも危険だったからです。

以上の検討から、纒向型前方後円墳は200年前後から200年代後半頃にかけて築造された物部氏の墓で、箸墓古墳は旧女王国を率いた台与が267年頃大和へと東遷し、269年頃亡くなり、その後10年程度かけて築造されたものになるとの推論が成り立ちます。箸墓古墳を含む各古墳の詳細は「纏向学研究センター」の以下のホームページを参照ください。内容的には表記の仕方も含め『「纏向」その後』とほとんど同じです。
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html

纒向型前方後円墳古墳と箸墓古墳に関し、考古学的見解と酔石亭主の推論はほぼ一致すると確認されましたが、他にも同様の例がないか見ていきましょう。『「纏向」その後』には、纏向遺跡に関して、「庄内式期から布留式期へと移行する3世紀中頃、集落域が大きく拡大することが指摘されています。」との記載がありました。この拡大の原因は、当初物部氏が主力だった纏向に旧女王国の台与グループが267年頃加わったことによると考えれば、考古学的事実とほぼ合致するはずです。

問題は物部氏がなぜ台与グループを受け入れたかですが、多分、かつては同じ九州にいたメンバーであったことから、物部氏は彼女たちを受け入れたのでしょう。ニギハヤヒ=大物主神を奉斎する本宗の物部氏は纏向の地にいたものの、二十五部の物部は各地に散らばっており、スペース的な受け入れ余地は十分にあったのです。

となると、「日本書紀」の崇神天皇10年9月条に書かれた大物主神と倭迹迹日百襲姫命の神婚譚は、大物主神(ニギハヤヒ)を奉斎する物部氏と天照大神(卑弥呼)を奉斎する旧女王国の台与グループとの協調を表現したものと考えられます。地図を眺めていて、それを証明するような面白いラインを発見しました。

倭迹迹日百襲姫命が被葬者とされる箸墓古墳、彼女を祀る神御前神社(茅原に鎮座)、大田田根子を祀る大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ、若宮神社)、大物主神を祀る大神神社は同じライン上にあると判明したのです。これこそが、「日本書紀」では倭迹迹日百襲姫命と書かれた台与の旧女王国グループと物部氏の協調を示す証拠ではないでしょうか?(注:神御前神社に関しては後の回で書く予定です)

両者の協調を示す記述は、例えば7年条にも見られ、しばしば起きる災いに関して、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に憑依し、自分を祀れば国は平穏になると崇神天皇に答えています。それでも国は治まらず、天皇が悩んでいると夢の中に大物主神が現れ、自分の子である大田田根子に私を祀らせたらたちどころに平穏になると告げ、倭迹迹日百襲姫命なども同じ夢を見たと奏上します。そうした経緯を受けて大物主神と倭迹迹日百襲姫命の結婚となるのです。大田田根子に関しては、「その10」にて彼を祀る大直禰子神社をアップしていますので、参照ください。

倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻になりますが、夫は昼に姿を見せず夜だけやって来ます。妻は夫に、あなたの顔を見られないので、今日はここに留まって明日あなたのイケメンぶりを見せて下さいと懇願します。夫はそれも道理と思い、櫛の箱に入っているから姿を見て驚かないようにと答えます。翌朝妻が櫛箱を開けて見たら、何と中には小さな蛇が入っていました。彼女が驚いて叫ぶと、夫はたちまち人の形となって、恥をかかせた妻を責めた後、三輪山に帰ってしまいます。自分の行為を悔いた妻は箸で陰(ほと、局部)を突いて亡くなりました。倭迹迹日百襲姫命は大市に葬られ、人々はその墓を箸墓と名付けたそうです。

以上のストーリーに中には興味深い点が幾つも見られます。既に書いたように、この神婚譚は大物主神(ニギハヤヒ)を奉斎する物部氏と天照大神(卑弥呼)を奉斎する台与グループの協調を表現したものと推定されます。ところが結婚はうまくいかず倭迹迹日百襲姫命は死んでしまいました。これは両者の協調が壊れたことを意味しているのではないでしょうか?倭迹迹日百襲姫命が箸で局部を突いて亡くなる場面は、どこかに似たようなものがあったはずです。

それは「古事記」に書かれており、天照大神が忌服屋(いみはたや)で神御衣を織っていたとき、素戔嗚尊が馬を逆剝ぎにして服屋に投げ込んだため、天の服織女(実際には天照大神のこと)が驚き梭(ひ)で局部を突いて死んだと言うものです。梭は機織り機の横糸を通す道具です。この死に方の酷似からも、倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼に関係した女性と理解されます。

面白いのは、倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳一帯の地名は箸中で、そのすぐ西隣りが豊前となっていることです。豊前はもちろん九州の地名で、秦氏の本拠地でもありました。なぜ九州の地名が大和の中心地にあるのでしょう?

例えば卑弥呼の死後に国内が再び乱れ、台与は一旦九州の豊前に移動し、その後大和に向かったのかもしれません。台与グループが九州の豊前に移動し、それが天孫降臨の形で記紀に残され、彼女たちが豊前の地名を大和にまで持ち込んで自分の本拠のお隣の地名にしたと考えたら、実に興味深いですね。

ただ豊前国は、豊国(とよのくに、とよくに)を7世紀末に分割して、豊後国と共に設けられたものなので、ずっと時代は下ってしまいます。7世紀末の時点で台与の東遷を知っていた誰かが箸中のお隣に豊前の名前を付けたとも考えられ、あれこれ想像が膨らみます。具体的な根拠は乏しいものの、豊前の元となる豊国(とよのくに)とは、その名前からしても台与(とよ)の国だと思えてなりません。

この問題に関しては、別の見方も浮上してきます。卑弥呼の女王国の位置に関し、「その15」で豊前に鎮座する宇佐神宮一帯の可能性を指摘しましたが、大和に豊前の地名があることから女王国宇佐説の可能性が一段高くなったとも言えるのです。

「日本書紀」は箸墓について、昼は人作り、夜は神作る。と書いています。この場合の神はもちろん大物主神になります。それは神婚譚の初めに、大物主神に関して、其神常に昼は見えずして、夜のみ来す。とあることからも確認されます。箸墓について、夜は神作るとの記述は神話的ですが、実際には大物主神を奉じる物部氏がお手伝いしたと言った意味なのでしょう。と言うことで、箸墓古墳を見に行きます。


箸墓古墳の位置を示すグーグル画像。

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箸墓と背後の三輪山。何とも絶景です。

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同じような写真をもう一枚。

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箸墓古墳と三輪山。

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箸墓古墳と纏向方面。

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解説板。こちらには大市墓と書かれています。

箸墓の築造に関して「日本書紀」の記述は非常に具体的です。内容は以下の通り。

大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民相踵ぎて手逓伝(たごし)にして運ぶ。

大坂山は二上山近くの山とされ、そこから箸墓まで、人々がずらっと並んで石を手渡しして運んだとは驚くべき作業となります。これだけ具体的な記述が残る以上、それだけの労働力を調達できるのは、当時畿内の中心であった物部氏と旧女王国の連合体以外になさそうです。(注:大坂山は柏原市の芝山との説もあります。その場合大和川を筏で遡れば石材を運ぶことができ、「日本書紀」の記述に整合しません)

以上から、纏向遺跡はニギハヤヒ(大物主神)を奉斎する物部氏が開発を始め、卑弥呼(天照大神)を奉斎する台与グループ(旧女王国グループ)が後から加わった連合都市である、と言うのが酔石亭主の推定する結論となります。纏向遺跡が180年から210年頃に突如登場するのは、倭国の大乱を避け大和に入ったニギハヤヒの子供たちと物部氏が建設を始めたと考えれば整合しますし、纏向遺跡に防御遺構が存在しないのも、一つには交易都市的な性格もありますが、大乱が起きた九州から遠く離れていたことも理由に挙げられます。

       邪馬台国と大和王権の謎を解く その22に続く
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