邪馬台国と大和王権の謎を解く その23


今回は物部氏と崇神天皇の関係から見ていきます。「日本書紀」の崇神天皇7年秋8月条には、天皇が物部連の祖伊香色雄を神に捧げるものをわかつ人にしようと占い、吉の結果になったとの記述があります。同年11月条には伊香色雄に命じて、物部の八十氏を以って、祭神之物(かみまつりもの)となさしむ。と言った記述もありました。いかに崇神天皇が物部氏を重視していたか、これらからも理解されますね。さらに、大田田根子をもって大物主神を祀る神主とし、長尾市が倭の大国魂神を祀る神主としたところ、疫病は止み、国に平和が戻ってきます。

「日本書紀」の記事の順番は崇神天皇6年条で天照大神と倭大国魂神を宮中から出す話があり、7年条春で大物主神が倭迹迹日百襲姫命に憑依し自分を祀れと天皇に告げ、続いて同年秋に大田田根子が大物主神を祀る話となり、10年になって大物主神と倭迹迹日百襲姫命の神婚譚となっていますが、本来は天照大神と倭大国魂神を宮中から出す話が後になるべきだと思われます。

いずれにしても、崇神天皇にとっては大物主神(ニギハヤヒ)を祀る物部氏の方が天照大神(卑弥呼)を祀る旧女王国グループより重要でした。それもそのはず、「日本書紀」の崇神天皇即位前紀には、母が伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で物部氏の遠祖の娘と書いてあります。また神代の段には、大三輪の神(大物主神=ニギハヤヒ)の子姫蹈鞴五十鈴姫命は神武天皇(実態は崇神天皇)の后とあり、物部氏系と崇神天皇は関係が深いと考えられるのです。

でも、なぜ同じはずの神を大物主神と倭大国魂神に分けた形としたのでしょう?多分天照大神と同格の立場の神として倭大国魂神の名前にして、喧嘩両成敗ではありませんが、両者を外に出した形を取ったのです。

けれども現実問題としては、一段格上の神である大物主神を引き続き三輪山にて祀るしかなく、大田田根子云々の話となったのでしょう。2神を外に出す形としたのが崇神天皇の策だとしたら、実に巧妙なやり方だと思わざるを得ません。いや、崇神天皇にとって天照大神を奉じる旧女王国グループは自分たちの祖先ではないこともあり、より力の強い物部氏を選ぶと言う現実的な判断をするのは当然の話となるのです。

これらの背景には、天皇がどちらを優先したかと言う問題だけでなく、物部氏が三輪山山麓に入って既に100年以上が経過しており、人民の心も物部氏に傾いていた点を見過ごす訳にはいきません。一方の旧女王国グループは4世紀初めの時点で30年程度を経過したに過ぎず、物部氏の支えなしに民心を十分掴むまでに至っていなかったのでしょう。

両者並び立たずの状況を踏まえた場合、一段格下の天照大神は大和を離れざるを得ず、各地を流浪し、ようやく伊勢の地に鎮まることができたのです。このようなシナリオにすれば、意味不明だった天照大神と倭大国魂を宮中から外に出す話に筋道が付いてきます。

旧女王国の台与が267年に大和に入ったとすれば、僅か2年後の269年にはこの世を去ってしまいます。その場合、当然台与には後継者がいたはずです。台与(=倭迹迹日百襲姫命)は、卑弥呼の宗女に相応しく巫女的な性格を有していました。となると、台与の後継者も同様に巫女的な性格を持った人物でなければなりません。

では、誰が該当するのでしょう?そう、豊鋤入姫命以外にあり得ません。(注:「日本書紀」では豊鋤入姫命が倭迹迹日百襲姫命の先に登場しています。ただ、倭迹迹日百襲姫命の別名は倭迹速神浅茅原目妙姫で、崇神天皇と遠津年魚眼眼妙姫の子が豊鋤入姫命となっており、実際の順序は倭迹迹日百襲姫命→豊鋤入姫命だったと思えるように書かれています)

豊鋤入姫命もまた巫女的な性格を持っており、天照大神(卑弥呼)を奉斎して笠縫邑に移り、各地を流浪して後一旦大和に戻り、「倭姫命世記」によれば、弥和乃御室嶺上宮(みわのみむろのみねのうえのみや、三輪山山頂の宮)に遷して、二年間奉斎しています。物部氏の聖山山頂で二年も居座られたのでは、物部氏としては許せないとなりそうです。もうこれ以上天照大神を奉斎できない豊鋤入姫命は、後継の倭姫命に全てを託し、最終的に天照大神は伊勢の地にて祀られることになったのです。

以上から、卑弥呼が女王であった九州の女王国は、卑弥呼の宗女・台与の代になって大和(邪馬台国)に東遷し、女王・台与が都とする所となり、台与の死後、物部氏との確執や崇神天皇の意向により大和を離れ、遂には伊勢神宮になったと理解されます。

既に書いたように纏向遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてでした。桜井市埋蔵財文化センター発行の『「纏向」その後』には、「布留1式期から布留2式期へと移行する4世紀前半段階に、その性格が大きく変質していると考えられる。」との記載があります。これは纏向遺跡が、4世紀前半の布留2式期段階で遺物の出土量が格段に少なくなり、縮小していった事実を示しています。

こうした纏向遺跡の変遷は、上記した「日本書紀」の内容分析からも十分に説明できます。すなわち、4世紀前半に纏向遺跡が急速に縮小・衰退していったのは、纏向における祭祀の構成員であった物部氏と旧女王国グループが袂を分かち、纏向の地を離れたことに起因していたのです。

以上は全くの仮説ですが、このシナリオなら「日本書紀」に書かれた内容、邪馬台国と大和王権の関係、纏向遺跡が自然発生集落ではなく180年~210年頃突然現れた謎、纏向遺跡には防衛施設となる環濠がない点、遺跡が4世紀になって急速に縮小した理由、2神を宮中から出す話など、様々な謎や矛盾した事項を統合させ、一定の筋が通ったものにできると思われます。

さらに、持統天皇以降の天皇が明治期に至るまでの長い期間伊勢神宮を参拝しなかった理由も明らかとなります。崇神天皇から始まる大和王権は卑弥呼、台与と続く旧女王国の後継ではなかった、言い替えれば天照大神(卑弥呼)は天皇家の祖先神ではなかったから彼らは伊勢神宮を参拝しなかったのです。

ここで大和王権と台与の邪馬台国に関し、少し違う視点から考えてみます。例えば、台与が267年頃大和に東遷する際、卑弥呼の遺骨を運んで箸墓に埋葬した可能性はないでしょうか?そうした見方も可能ですが、「魏志倭人伝」の最後の手前の段落には、女王卑弥呼と狗奴国の男王が不和で争っているので、247年に張政を派遣して告諭したとあります。

次に「魏志倭人伝」の最終部分を大雑把に書くと、卑弥呼は既に死去しており、大きな墓を作った。径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。再び男王を立てるが国中が服さず互いに誅殺しあった。再び卑弥呼の宗女・台与を立てる。13歳で王になると国中が収まった。張政は檄文を以て台与を告諭した。台与は倭の大夫たちを遣わして張政らを送り届けた。となります。

この書き方だと内容が一貫しており、魏時代の公式記録から引用された可能性が高く、250年前後の情報と判断して間違いなさそうです。さらに、247年に張政が倭国に派遣され帰国するまでの間、卑弥呼の死去、墓の築造、男王が立って戦乱となる、台与が13歳で王となる。と言った数多くのイベントが立て続けに発生しています。

張政の倭国滞在期間を3年程度と考えれば、その短期間に築造した卑弥呼の墓が箸墓であるとは考えられません。箸墓の盛り土は30万m³と想定され、最低でも築造に10年かかると見積もられるからです。いずれにしても、卑弥呼が亡くなってすぐに墓の築造が始まり、墓の長さや殉葬に関する記録もあることから、「魏志倭人伝」には築造後の状況まで書かれていることになります。殉葬まである状況下で墓から卑弥呼の骨を掘り出して運ぶとは思えません。

仮に卑弥呼の墓が箸墓であれば、築造には10年程度かかると想定され、その後の文面である、さらに新しく男の王を立てるが国中が服さずお互いが誅殺しあった、再び台与が13歳で王になると国中が収まった、と言う記事にうまく繋がりません。墓の築造中に戦乱となったら、その築造は中断し放棄されてしまうでしょう。従って、卑弥呼の墓は北九州において、250年頃比較的短期間で築造されたものであり、箸墓は卑弥呼の墓ではないと確認されます。

以上、ここまで日本古代史における最大の謎を検討してきた結果、卑弥呼は九州にあった女王国の女王で、大和に東遷した卑弥呼の宗女・台与は短期間邪馬台国(大和国)の女王となる。台与の死後、後継の豊鋤入姫命は大和を一旦離れ、倭姫命の代には伊勢へ移る。これらの経緯により、崇神天皇から始まる大和王権は卑弥呼の旧女王国グループの流れに連なっていない。と確認されました。

邪馬台国の東遷や邪馬台国の後継が大和王権である、邪馬台国は大和王権と同じであるといった主張・議論はよく見られます。けれども、邪馬台国は単に大和の国と言った意味に過ぎず、そうした議論が成り立たないことは明らかです。まあ、台与が一時的に大和の国の女王の役割を持ち、その後崇神天皇が大和の国において初代天皇になった(実態的には既に書いたように最高位の執政官になった)と言う形式的な意味においては、邪馬台国(大和の国)の後継が大和王権だとの主張も成り立つのかもしれませんが…。

それはさて置き、基本的には中国側史料、日本側史料、考古学的知見の三つを総合して、最も整合しそうな筋道を探った結果、上記のような推論・見解に至った次第です。酔石亭主の推論と中国側史料、日本側史料、考古学的知見がどう整合しているのかに関して、主要な部分を時代の流れに沿って纏めてみます。(注:赤字が酔石亭主の推論で、青字が考古学的知見など)

ニギハヤヒの大和東遷が180年から190年頃で、その後子供たちや物部氏の一族が纏向に入った。
纏向遺跡の始まりは180年から210年頃で自然発生的な集落ではなく計画的都市となる。物部氏が被葬者と推定される纏向型前方後円墳群の築造は2世紀末から3世紀後半となる。
纏向遺跡の出現に合わせるかのような唐古・鍵遺跡の急激な衰退
(物部氏が人員を引き抜いたことに起因すると推定)

267年頃台与の旧女王国グループが東遷し大和の纏向に入った。
3世紀中頃、纏向の集落域が大きく拡大した。

台与は269年頃死去しその後10年程度かけて箸墓が築造されたので、完工は279年前後。
箸墓の築造は3世紀中ごろから後半とされている。 (但し、箸墓は日本における最初の前方後円墳であり、纏向型前方後円墳群とは異なるため、築造時期は3世紀後半のやや遅い時期となるはず)

物部氏と旧女王国グループは当初協調していたが、300年代に入り協調が壊れ、崇神天皇によって引き離されて纏向の地を出ることになった。
経緯は日本書紀に神話的・伝説的に記載されている。また、纏向遺跡は4世紀前半頃急速に縮小している。

酔石亭主の見解が正しいかどうかは神のみぞ知るですが、邪馬台国や大和王権の謎解きに一石を投じられたらと思っています。今回の検討の中で、今から1770年前の日本はまだ神代の世界だったと理解できました。皇祖神天照大神の実態は卑弥呼であり248年頃に死去した人物だったからです。同時代におけるギリシャやローマ、中国のいずれを見ても、とっくの昔に神話の時代は終わり、人間たちの世界になっていたことから、日本の歴史は浅かったと思い知らされます。

以上で、今回のシリーズにおける主要な謎解きは終了です。大和に関しては他にも何カ所か訪問しており、そこそこ面白い謎もありますが、こう暑くては頭も回らないので、一休みしてからまた続けたいと思っています。その間は水石や雑多な記事を適宜書く予定です。

        邪馬台国と大和王権の謎を解く その24に続く
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

すばらしいですね

知識の乏しい私がコメントなんぞ恥ずかしいですけど、
いまだに、頭の中が混乱というか、口がポカンとあいたまま・・・(笑)

まさか、卑弥呼が天照大神とは。考えたこともなかったです。

仲哀天皇崩御の年代は2つの説がひとりあるきしてると思っていましたし、神功皇后と九州との繋がりが、多いのもこれで納得です。

古い時代の天皇の寿命などは、一年に2回年齢をカウントすると言う説が正しいと思っていましたし・・・

今まで自分が勝手に描いていた古代の姿が実際はだいぶ違うようなんで、驚きの連続でした。

Re: すばらしいですね

こんばんは

コメントありがとうございました。
今回のシリーズは比較的短いものとなりましたが、非常に難しく苦心惨憺で時間もかかりました。
苦労の割には、内容が正しいか保証の限りではありませんが…。

ともあれ、何とか書き終えてほっとしているところです。
今後ともよろしくお願いします。
プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる