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ワンダーアイランド江の島の謎を解く その2


今回は江の島の成立に係わった有名人を見ていきます。とにかく大物ばかりというのが印象で、本当に彼らが江の島に来たのか疑わしくもあります。多分、江島神社の格を上げるためにこのような伝承が作られたのでしょう。

まず江の島を開基したとされる役小角です。彼は文武天皇4年(700年)4月に江の島を訪れ、金窟に参籠して天女の示現を拝しました。
役小角は修験道の開祖とされます。雄略天皇が葛城山を歩いていたとき、通行を妨げる人物がいて誰何したら「我は悪きこともひと言、善きこともひと言、言い離つ神、葛城の一言主大神ぞ」と大見えを切って、天皇を平伏させた神が一言主ですが、時代が下ると役小角に呪法で縛られてしまいます。神の零落と役小角の力量を物語る貴重な逸話と言えますね。

次に出てくるのが秦氏系とされている泰澄です。泰澄は元正天皇養老4年(723年)に来島。縁起によれば、一心に精進して生身の天女を拝したとされます。泰澄があまりにも真剣だったので、心を動かされた巫女さんが、私は天女だと言って一糸まとわぬ姿でお出ましになったのでしょう。泰澄については以下Wikipediaを参照します。

泰澄(たいちょう、天武天皇11年6月11日(682年7月20日) - 神護景雲元年3月18日(767年4月20日))は、奈良時代の修験道の僧。越前国麻生津(福井市南部)の出身。三神安角(みかみやすずみ)の次男。加賀国(当時越前国)白山を開山したと伝えられる。

泰澄に続いて登場するのが弘法大師空海になります。空海が実際に江の島に行ったのではなく、弘法大師信仰の広がりが江の島と関係づけられたのではないかと想像します。縁起によれば、空海は弘仁5年(814年)に島に渡り、金窟に参籠して7日目に天女が現れたとのこと。其体八臂具足相好光明猶如満云々とあり、よほどの美人巫女さんが生身の体を晒したのでしょう。

空海に続いて出てくるのが道智です。縁起によれば以下の通り。
道智が島に渡ると、毎日天女が現れ面倒を見てくれた。不思議に思った道智が、藤で作ったひもを天女の裾につけ、後をつけていくと、彼女は竜窟に入った。道智が後をつけたと知った天女は、供養したのにこんな難にあうのかと怒りの声を発した。竜女の怒りで暴風が起き、道智は島を追われた。それ以来島に藤は生えなかったとのこと。

この話は、『古事記』の三輪山伝説に似通った部分があります。三輪山伝説は、玉依姫が孕んだので、父母が男の衣の裾に糸をつけ後を追ったところ三輪山に至り、相手はこの山の神だったというものです。玉依姫は龍口明神社の祭神でもあり、三輪山の神は蛇神である部分、衣の裾に糸をつけて後を追うところが江島縁起とまるで同じですね。違っているのは男女が入れ替わっている部分です。

次が慈覚大師円仁で、彼は唐に渡り帰国の船中で摩多羅神が出現、日本に勧請したとされる人物です。縁起によれば、仁寿3年(853年)に津村湊に至り、島に渡って修業し、妙音を発する天女を拝したとのこと。また弁才天よりお告げを受け、上之宮(現・中津宮)の社殿を創建したそうです。

縁起に登場するのは日本を代表する偉大な人物ばかりですが、皆女性には弱いらしく、天女様の前でメロメロになった様子が見て取れますね。縁起に出てくる天女は、いわゆる神殿淫売に類する存在と思われ、大和岩雄氏の『天照大神と前方後円墳の謎』(六興出版)に詳しいのでご参照ください。

寿永元年(1182年)には源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請したとされます。中世における江の島信仰のスタートと言えましょう。

まだまだ著名人も出てきますが、切りがないので人物伝は一応終了し、江の島に足を踏み入れましょう。江の島は境川から流入する土砂により陸側と連結された陸繋島となっています。島には幾つもの海蝕洞があって、これらの岩窟が信仰の対象となり、江島神社の創建へと繋がっています。

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江島神社解説板。

参道が尽きると急な階段があり、瑞心門を抜けた正面には童子を侍らせた天女を竜が見守る彫像が見られます。

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瑞心門。

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彫像。

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瑞心門から大鳥居、竜口山方面を望む。

汗をかきながら急な石段を上がると辺津宮に至ります。

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辺津宮前の茅の輪くぐりです。罪けがれを祓う目的でくぐります。

ところで辺津宮のお賽銭箱は面白いですね。

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賽銭箱の写真。

でも、箱の形が巾着みたいで面白いと言っているのではありません。ここは誤解ないようお願いします。箱の中央を見てください。山を三つ重ねたような紋が彫られています。これが面白いというか興味をそそられるのです。江の島を歩いていると、この紋があちこちで目に入ります。

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石灯籠に彫られた紋です。

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もう一枚。

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もっとも新しそうな紋。

何だか、伊勢神宮外宮から内宮に至る参道の石灯籠に彫られたダビデの星(二つの正三角形を逆に重ねた六芒星)みたいな雰囲気が感じられませんか。伊勢神宮同様いわくつきの紋であれば面白いのですが…、実はこの紋には明確な由来があって、龍宮の解説板を見ればすぐにわかります。

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解説板。

解説板には、竜(大蛇)の落した三つの鱗を北条氏が家紋にしたとあり、そのいきさつは『太平記』に詳しく書かれています。ここまで明確だとそうなのかなと思ってしまうのですが、どうも紋の形状を見ると納得がいきません。そこで例によってあれこれ考えてみました。

まず三つ鱗紋は紋様に属しますが、紋様で動物由来は他に亀甲紋しかありません。亀甲紋の場合は亀甲の形がはっきりと出ていますが、三つ鱗紋は三角山が三つある形にしか見えず、形状からすると三つ鱗とするにはかなり無理があると感じられるのです。ではどう考えればいいのでしょう?

これは酔石亭主の独断ですが、江の島の紋は三つ鱗紋ではなく、徐福が不老不死薬を探し求めた東方の三神山、すなわち瀛州(えいしゅう),方丈(方壺),蓬莱(蓬莱山)を紋様化したものとは考えられないでしょうか?江の島に亀が多いのは、蓬莱山である江の島を支えるためなのです。実際、江島五巻縁起には「慈覚大師が南海の霊嶋を望むに、嶋の中に三嶺あり。方壺瀛州蓬莱をはさんで三台にかなえり」と書かれています。

ただ、江の島は海蝕作用により東西二嶺あるようにも見えますが、三嶺あるとは考えにくく、江の島を蓬莱に見立てると、瀛州と方丈はどこにあるのかという疑問が湧いてきます。そこで江の島の灯台から撮った写真を見てください。

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写真。

瀛州が画像やや左手の竜口山、方丈が右手の小動岬とすれば、全部揃います。実際昔の写真だと竜口山が独立した島のようにも見えます。

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昔の写真。

以上より、江の島の三つ鱗紋は今後三神山紋と呼びましょう。(勝手に決め付けて済みません。一種の思考実験だと思ってください)

ちなみに、秦王国にある宇佐八幡宮の大神氏に連なる緒方氏も三つ鱗紋を家紋としています。これは大和大神神社の三本杉紋の変形とされますが、秦氏の神仙思想が影響して三神山紋に変化したと考える方がすっきりします。事実、彼らの父祖の地である豊前国の香春岳(かわらだけ)は見事な三連山となっているのです。(現在は石灰岩採掘により著しく変貌し、過去の面影はありません)なお大和岩雄氏は『日本にあった朝鮮王国』(白水社)で、香春岳は「秦王国」の天香山、と記しています。
      
         ―ワンダーアイランド江の島の謎を解く その3に続く―
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