邪馬台国と大和王権の謎を探る その25


今回は相撲神社に向かいます。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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相撲神社の鳥居。やや荒れた雰囲気が漂っています。

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これが本殿でしょうか?小祠と言った雰囲気です。

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接近して撮影。

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解説板。

垂仁天皇の前で初めて野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が相撲を取った云々とあります。垂仁天皇7年7月7日とのことで、パチスロの当たりみたいな日付ですね。野見宿禰は出雲の出身で、天穂日命の14世子孫とのこと。垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀において、殉死の風習を改め埴輪を埋めるようにしたことから、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、土師氏の祖となりました。

一方の蹴り技が得意な当麻蹶速はその名前の通り大和国の当麻邑(奈良県北葛城郡)の豪族で、力自慢のあまり天皇の不興を買い、野見宿禰との相撲で殺されてしまいます。相撲は神に捧げる神事と言われますが、その始まりは意味合いが異なっていたようです。でも、なぜここに相撲神社があるのでしょう?

一つには、すぐ近くに垂仁天皇の纏向珠城宮があったことです。もう一つは相撲神社の東側に穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ、大兵主神社)が鎮座していることです。以前にも少し書いた記憶がありますが、兵主は兵主部(ひょうすべ)で、河童をも意味しています。ご存知のように河童は相撲が大好きで、子供を相撲に誘っては倒し、尻子玉を抜いたとされます。垂仁天皇、穴師坐兵主神社、兵主部、河童、相撲と連想が繋がり、それ故にここに相撲神社が鎮座していると考えられますが、もう少し深掘りしてみましょう。

穴師坐兵主神社の社名となっている兵主の名は、漢の高祖が兵を挙げたとき、半獣半人の怪物・蚩尤(しゆう)を祀って勝利祈願したことに由来しています。「史記」の「封禅書」によると、蚩尤は兵主神に相当し、この怪物は砂や石や鉄を喰らうとされることから鍛冶に関係し、戦斧、楯、弓矢等などを発明したことから武器にも関係しています。そうした蚩尤のありようは、穴師の地名にも接続してきます。

穴師は古代の蹈鞴製鉄に関連する地名で、製鉄の際には踏鞴を踏み、風を炉に送り込みます。この作業を何度も繰り返すと、作業者は最後には足を痛めてしまいます。それを痛足(あなし)と表記し、後に穴師(あなし)の表記に変わって、蹈鞴製鉄に関係する地名となり、さらに鉄鉱石の採掘や蹈鞴製鉄に従事する人たちを意味するようになりました。穴師は嵐(あらし)でもあり、野蹈鞴において炉に吹き込む自然の強い風を意味しているとも考えられます。

以上から、穴師坐兵主神社の社名自体が蚩尤と製鉄に関連している点が明らかになりました。そして河北省では、牛の角を頭にのせて勝負をあらそう遊戯を蚩尤戯と呼び、これが中国における相撲の起源とされています。そう、蚩尤は相撲に関係し、蚩尤は兵主神であり、兵主部(ひょうすべ)は河童で、河童は相撲が大好きです。従って、穴師坐兵主神社の手前に相撲神社が鎮座しているのは、単なる偶然ではなく極めて必然性が高いことになるのです。相撲神社を見ただけで、様々な要素が網の目のように絡まっていると理解されますね。

   邪馬台国と大和王権の謎を探る その26に続く
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