蒲郡探訪 その8


蒲郡クラッシックホテルから海岸に向かいます。海の香りがする竹島の対岸はロータリーのようになっていました。でも一般的なロータリーとは大きく異なり、石柵に囲まれた聖域になっています。石柵の中には拝殿を思わせる建物があり、境内には松の木が何本も生えています。どうも竹島の遥拝所になっているようです。

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竹島・八百富神社遥拝所。

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境内の松。

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鳥居です。

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竹島側から見た遥拝所。松の大木が見越しの松のような味を出しています。

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竹島弁財天の解説石板。

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八百富神社の解説石板。画像サイズを大きくしています。

養和元年(1181年)3月18日に藤原俊成がこの地方の開発のため、江州(近江)竹生島から勧請し奉斎されたとあります。創建の日付まで書かれていますが、藤原俊成が三河国司となったのは久安元年(1145年)で、任期は久安5年(1149年)までの3年5ヶ月でした。在任期間の30年以上も後になって三河の開発のため勧請したと言うのはどうも理解に苦しみます。この問題を少し考えてみましょう。

1181年当時の三河守は平清盛の七男となる平知度(たいらのとものり)ですが、彼は源氏との戦いに忙しく、三河地方開発に構ってなどいられない状態であったと思われます。そんな時期に藤原俊成が竹生島から勧請したとするのは解せません。次に三河守となったのが源範頼で元暦元年(1184年)8月6日に任じられています。彼は遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれ、酔石亭主は否定的に考えていますが、蒲郡の地名由来となった人物の可能性があります。

源範頼は岡崎市に鎮座する上地八幡宮(うえじはちまんぐう)を創建しており、詳細は「岡崎市の神社仏閣探訪 その20」にて書いていますので、参照ください。本シリーズの初回の記事で、「蒲郡が歴史に姿を現すのは平安時代末期からで、藤原俊成、源範頼、鵜殿氏などが関係者となるので、彼らの痕跡も蒲郡の各所にあると思われます」と書いていますが、次第にその姿を見せてきたように思えます。源範頼は尾張と北九州との関係において非常に重要な人物であり、いつか機会があれば詳しく書いてみます。

源範頼に続いて三河守に任じられたのが世良田頼氏です。彼は世良田氏の祖となる人物で、後代の三河を支配した松平氏・徳川氏へと接続していきます。ただ、それが事実かどうかは疑問もあります。世良田頼氏から家康への流れは長くなりますが、Wikiによれば以下の通りです。

世良田(せらた、せらだ)氏は、鎌倉時代に清和源氏の新田氏から分立した上野国新田郡(新田荘)世良田郷(現在の群馬県太田市世良田町)の豪族。新田義重の四男・義季(新田義兼の同母弟)が、父義重から世良田郷を譲られ、その地頭になることによって実質的に成立した。義季は得川郷(現在の太田市徳川町)を長子の四郎太郎頼有に与え、世良田郷は次子頼氏に継承させた。頼氏は世良田弥四郎を称し、世良田氏の名を興した。三河国の戦国大名松平氏は、松平清康のとき清和源氏世良田氏の後裔と称するようになった。
松平氏の興った三河国加茂郡には、元来南朝方の残党が逃れてきたことに関する伝承が多く残されていたようで、松平氏の家臣大久保氏(宇津宮氏)を始めとして南朝方武将の末裔を称する武士は数多い。
真相は不明だが、清康はその事項から自身を源氏の名門に繋げるために、三河松平郷で没した政親(政義の子、親季の弟)の存在に着目したという。さらに政親の祖先である世良田頼氏は三河守であり、三河の支配者の先祖として、着眼した清康は自身の安祥松平家の世襲の通称「次郎三郎」を用い、「世良田次郎三郎清康」と称したという。
清康の孫の松平家康は初め清康からの流れとして世良田氏を称していたが、1566年、三河統一のため三河守任官を望んだ際、「世良田氏に三河守叙任の前例はない」と拒否された。そこで家康は近衛前久に相談した。近衛前久は松平氏の祖とされる世良田義季が得川氏を名乗った文献があること、また新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることなどを突き止め、家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)するという特例措置を得、従五位下三河守に叙任された。

徳川家康の実際の素性がどうだったのかは諸説あって、よくわからないと言うしかなさそうです。またその死亡時期に関しても、関ケ原の戦いのとき、大坂夏の陣の時点などと言った異説が存在します。わずか400年前の話が謎だらけとは不思議ですね。「徳川家康の謎を解く」シリーズでも書いたら面白そうですが、時代が近すぎて食指が動きません。ただ、家康の徳川家が太平の世を築いたのは間違いないことであり、その事実こそが重要だと理解すればいいのでは、とも思います。八百富神社の検討の中で、三河における重要人物が次々に出てきた雰囲気です。

さて、八百富神社は養和元年(1181年)3月18日に藤原俊成がこの地方の開発のため、江州(近江)の琵琶湖・竹生島から勧請したとされます。一方、蒲郡市宮成町6番4号に鎮座する大宮神社の由緒によれば、藤原俊成卿の娘菊姫がこの地に来て涼ケ森に住居し、父の名を以て、元暦2年(1185年)2月19日に、紀州那智山の下一野郷より若一王子熊野三社大権現を勧請したとのことです。年代を考慮すると、八百富神社も菊姫が俊成の名を以って創建した可能性が無きにしも非ずと思えます。

色々な角度から検討しても、68歳の藤原俊成が1181年に竹生島より勧請し八百富神社を創建したとする由緒には疑問が残ります。ここでは、藤原俊成が三河国司在任中(但し現地に赴任していはいない)に琵琶湖の竹生島より勧請した可能性、或いは娘の菊姫が俊成の名を以って勧請した可能性の方がやや高いのでは、としておきます。

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藤原俊成卿像です。

竹島橋にほど近い俊成苑に平成3年4月建立されました。背後は竹島ホテルです。
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