近江探訪 その51


今回は大嶋奥津嶋神社の検討から始めます。早速同社に向かいましょう。


大嶋奥津嶋神社の位置を示すグーグル画像。鎮座地は近江八幡市北津田町529。

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長命寺川。

グーグル画像で川の手前(南側)までが八幡山を含む山群、川を超えると奥島山と総称される山群になります。

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大嶋奥津嶋神社へと続く小道。のどかな雰囲気です。

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立派で豪壮なお宅があります。

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鳥居。

社号標には大嶋神社、奥津島神社と併記されていました。同じ境内に二つの異なる神社が鎮座していると理解されます。

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社殿を斜め位置から撮影。

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社殿を正面から撮影。なかなかに立派な社殿です。

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本殿です。

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境内と社殿。結構な広さがあります。

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解説石板。読みにくいので主要部分を以下に記載します。

祭神は大嶋神社が大国主命、奥津嶋神社が奧津嶋比賣命。
境内社に日觸神社 祭神は応神天皇。その他各社。

当神社の勧請年紀は第十三代成務天皇滋賀高穴穂宮に御即位の年(一三一)武内宿弥に勅して祀らしめ給うと伝えられます。天智天皇蒲生野に御遊猟の砌、奥之島に行幸になり、この地に産する薁(むべ)を賞味され、年々皇室に供御すべきと仰せられました。延喜式宮内省諸国例貢御贄にも記されており、今も毎年十一月 天智天皇を御祭神とする近江神宮へ献納しております。延喜式(九二七)神名帳には蒲生郡十一座の内に大嶋神社、奥津嶋神社(名神大)両社とも記されており、さらに三代実録に、貞観七年(八六四)元興寺(奈良)僧賢和の奉請により当神社の神宮寺として阿弥陀寺が開基せらるとあります。往時は蒲生野北部一帯の産土神として斎祀されておりました。
…以下略。

大嶋奥津嶋神社に関する滋賀県神社庁のホームページは以下を参照ください。
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=278

大嶋神社の祭神は今までの検討から本来宗像三女神となるべきですが、日牟禮八幡宮境内社の大島神社と同様に大国主命でした。なぜ大国主命なのでしょうね?「古事記」には、奥津宮に坐す多紀理比売命(たぎりひめのみこと、奥津島比売命や田心姫命と異名同神)は大国主命と結婚したとあります。両社が同じ境内にて祀られることになったため、夫婦神とすべきとの声が出て、大嶋神社の神名が変わったのではないかとも推定されます。この推定が正しいか確信はなく、別の要因も考慮すべきと思われ、後の回でさらに検討してみます。

伝説的ではありますが、成務天皇が武内宿禰に祀らせたとの大嶋奥津嶋神社由緒内容は、日牟禮八幡宮の由緒と同じであり、天智天皇の時代にまで下っても奥之島に行幸云々とあるので、少なくともこの時点ではまだ日牟禮八幡宮は存在していない可能性があります。(注:既に書いたように宇佐八幡宮の勧請は991年となっています)

以上から、日牟禮八幡宮の由緒にある大嶋大神が最初に鎮座したのは八幡山の日牟禮八幡宮鎮座地ではなく、奥島山の近江八幡市北津田町近辺に鎮座する大嶋奥津嶋神社(注:当初は両社が別々に鎮座していたとされるので近辺と書きました)と確認されます。これを滋賀県神社庁のホームページにある日牟禮八幡宮の由緒から見ていきます。由緒には以下の内容が書かれていました。

当社の伝記によれば、応神天皇六年に天皇当国の奥津嶋之神社へ行幸なされんと思し召しになり、知波之御崎と云う所より船をお使いになり湖水に到着なされた。入口に小嶋があり、此の嶋にお着きになって、天皇自ら垢離を行われて、奥津嶋之神社にお詣りになられた。遷行の折に宇津野々辺に御少憩になり、四方を御覧遊ばされて、「知葉崎の加津野を見れば百千足家も田もみゆ国の府もみゆ」と御詠になり御座所を置かせられたという。その後年を経て御仮屋の跡に日輪の形二つ見る事が出来た。それ故祠を建て、日群之社八幡宮と名付けると記されてあり、続いて持統天皇五年に藤原不比等日群社に詣でられ、「天降の神の誕生の八幡かも比牟礼の社になびく白雲」とお詠になり、故に比牟礼之社と改むと記され、寛平元年奥津嶋神殿鳴動して、火玉飛出て比牟礼之社に入ると云う。奥津嶋之宮所は一夜にして湖水と成り、奥津島之神霊比牟礼社に移られた。

上記内容においても、応神天皇が行幸されたのは奥島山の近江八幡市北津田町近辺に鎮座する奥津嶋之神社であり現在の日牟禮八幡宮鎮座地ではないと確認されます。また、「遷行(遷幸)の折に宇津野々辺に御少憩になり、その後年を経て御仮屋の跡に日輪の形が二つ見えたので祠を建て日群之社八幡宮と名付ける」とあり、この宇津野が現在の日牟禮八幡宮鎮座地と考えられます。

但し、八幡宮の勧請は991年であり、持統天皇以前における日群之社八幡宮の社名は間違いとなるはずです。それは持統天皇五年に日群社が比牟礼之社に改められたとの記述からも確認されるでしょう。

なお、持統天皇五年(691年)に藤原不比等日群社に詣でられ、とあり、それとほぼ同時に日群社は比牟礼之社に改められ、寛平元年(889年)に、奥島山の近江八幡市北津田町近辺に鎮座する奥津嶋神社の宮所が天変地異により湖水となってしまい、比牟礼社(日牟禮八幡宮)に遷されたことになります。

時系列的には、遠い古代において琵琶湖に浮かぶ島状態だった奥島山に大嶋大神(宗像三女神)が勧請され、大嶋神社となった。いつの時代か不明だが、大嶋神社から奥津島比売命のみが分祀され奥津嶋神社が創建された。奥島山に鎮座する奥津嶋神社は天智天皇の時代においてもなお同所にあった。その後、八幡山の麓に日群社の祠が建てられた。(多分天武天皇の時代、或いは奥津嶋神社とは無関係にもっと早い時代)持統天皇5年の691年頃に日群社は比牟礼之社に改められた。和銅5年の712年に奥津嶋神社が沖島に分祀された。奥島山の近江八幡市北津田町近辺に鎮座していた奥津嶋神社は寛平元年(889年)に起きた天変地異により、琵琶湖に没したため比牟礼社(現在の日牟禮八幡宮鎮座地)に遷された。(注:多分、分祀された)991年に宇佐八幡宮より八幡大神が八幡山山頂に勧請された、との経緯になりそうです。ただ、八幡山山頂が上の社の八幡宮で山麓が下の社の比牟礼社と言う構成であることから、両社は別々の神社として鎮座していたと思われます。

推定部分をかなり付け加えていますが、上記で日牟禮八幡宮創建以降の経緯はある程度明らかになりました。けれども、幾つかの問題点が残っています。大嶋神社の存在が薄く感じられ、また現在の祭神も大国主命で宗像三女神とは異なっており、大嶋神社と奥津嶋神社の関係も実際にはよくわからない点などです。成務天皇の時代に大嶋大神が勧請され、それは大嶋神社と関係するはずですが、応神天皇の時代には奥津嶋神社が登場し、それ以降も出てくる話は奥津嶋神社に限られます。

さらに、伝説的な記述ではありますが、寛平元年(889年)、奥津嶋神社の宮所は比牟礼社(日牟禮八幡宮)に遷されています。だとすれば、日牟禮八幡宮の最も重要な境内社は奥津嶋神社となるべきなのに、日牟禮八幡宮境内に奥津嶋神社は存在せず大島神社のみが最重要な境内社として鎮座している点にも納得し難いものがあります。

宗像大社の沖ノ島には沖津宮が鎮座し、祭神は田心姫命で、別名が奥津島比売命となり、一方琵琶湖の沖島に鎮座する奥津嶋神社の祭神は奥津島比売命なので両者は完全に一致しています。なのに、奥島山に大嶋奥津嶋神社が鎮座し、奥津嶋神社部分の祭神は奥津島比売命となっています。奥津嶋(おきつしま、おくつしま)の名前自体が沖津宮の沖津に通じており、琵琶湖には二つの沖津宮があるのかとさえ思えてしまいます。

また大嶋奥津嶋神社における大嶋神社部分の祭神は宗像三女神ではなく大国主命です。別々に祀られていた大嶋神社と奥津嶋神社が同じ境内で祀られるに至った際、大嶋神社の祭神は奥津島比売命の夫となる大国主命に変えられ夫婦神になった、と推定しましたが、まだ納得いくものではありません。大嶋奥津嶋神社の場合は、あちらを立てばこちらが立たず状態でややこしいですね。

ややこしい問題をチェックするため国立国会図書館デジタルコレクションで「大日本史」を開いてみましょう。すると、神祇十四のコマ番号11に出ていました。

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デジタルコレクション。

大嶋神社に関して、祭神は湍津姫神と書かれています。湍津姫神は宗像大社において大島の中津宮にて祀られる神なので、大嶋奥津嶋神社が鎮座する奥島山の地が大島であり、宗像大社における中津宮に擬せられると考えられそうです。

多少すっきり感も出てきましたが、それでもなお、大嶋大神が宗像三女神であるはずなのに、一柱の神だけが祀られているという問題は残るので、さらに別の史料に当たってみます。あれこれ調べたところ、「神社覈録(じんじゃかくろく)」には大嶋神社の祭神に関して「三女神歟」と記載ありました。歟(か)は疑問を表すので断定的ではありませんが、一応大嶋大神と宗像三女神がリンクしたことになります。「神社覈録」の詳細は下記のコマ番号89を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

大嶋大神が宗像三女神に当たる可能性は上記史料からも一定程度確認できました。ではどこが辺津宮に相当するのでしょう?考えるまでもなく、日牟禮八幡宮の可能性が最も高くなるはずです。けれども、同社に祀られる宗像三女神はそっくり宇佐八幡宮から勧請されたものと思われ、辺津宮に該当できる明確な根拠は得られません。

「大日本史」の記事を読むと、奥津嶋神社に関する最初の年代が大同元年(806年)、大嶋神社が神護景雲元年(767年)となっており、大嶋大神を祀るのが鎮座の始めである点に照応しているようにも思えます。もちろん、この記事だけでどちらが古いのか確定するのは不可能ですが…。

各神社の祭神に関して確たる筋道をつけるのは困難なようですが、主要なテーマではないので追及はここまでとします。宗像三女神は海人系の宗像氏が奉斎する神であることから、近江にこれらの神を勧請したのは宗像氏と考えられます。とは言っても、彼らの痕跡が近江八幡一帯に見られないのも妙な点です。(注:宗像氏の痕跡がない問題は重要なので後の回で再検討します)

いずれにしても、日牟禮八幡宮の由緒に記載あった大嶋大神の実態は宗像三女神でほぼ間違いなさそうですし、大嶋奥津嶋神社は日牟禮八幡宮の元宮のような存在である点も明らかになりました。それは大嶋奥津嶋神社の境内社として日觸神社が鎮座している(注:解説石板参照)ことからも確認できます。まだはっきりしない点が幾つか残るものの、一つ目の要素となる大嶋大神の実態に関する検討はここまでとして、次回は二つ目と三つ目の要素に移ります。Wikiに記載ある応神天皇と八幡宮、及び「近江蒲生郡志 巻6」の和珥氏に関する部分ですね。
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