近江探訪 その52


今回はWikiに記載ある応神天皇と八幡宮の記事、及び「近江蒲生郡志 巻6」の和珥氏関連部分を見ていきます。具体的には以下の内容となっていました。

Wikiより
275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。
691年、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)。
991年(正暦2年)、一条天皇の勅願により、八幡山(法華峰)上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀った。さらに、1005年(寛弘2年)、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付ける(現在の社殿は下の社に相当)。

「近江蒲生郡志 巻6」より
応神天皇の御座所跡に日輪の形が二つ見えたので日群の社と称したと言うのは付会の俗説であり、比牟禮は日觸(ひふれ)の転訛である。国語に「ふ」が「む」に転ずる例は多い。「日本書紀」や「古事記」には、応神天皇が和珥臣の祖日觸使主(ひふれのおみ)の娘である宮主宅媛やその妹小甂媛を妃として皇子皇女の誕生があったことが書かれている。
要するに比牟禮の社名は日觸の転であり、和邇(わに)日觸使主に由来し、和珥氏は応神天皇と深き縁故を有し、和珥氏と同族の櫟井(いちい)氏が当社の神主職を相伝している等に鑑みて、当社が日觸氏櫟井氏の祖神の斎場であることが推論される。

青字部分は応神天皇と八幡宮に関係する話となります。一方紫字部分は和珥氏関連の話となり両者は全く関係なさそうですが、由緒では深い縁故があるとされ、実際はリンクしているようです。ただ応神天皇の部分は伝説的であり、日輪の形が2つ見えたので日が群れているようにみえ日群之社の社名になったとの伝承は、「近江蒲生郡志 巻6」も主張するように単なる俗説と考えるべきでしょう。

それだけではありません。宇佐八幡宮を正暦2年(991年)に勧請して、八幡山の上に八幡宮を祀り、寛弘2年(1005年)には遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付けていることからすれば、八幡宮が勧請されたのは991年になり、応神天皇と直接的な関係はないことになります。では、和珥氏と応神天皇との関係をどう扱えばいいのでしょう?取り敢えず、和珥氏の基本情報を以下Wikipediaより引用します。

和珥氏(わにうじ)は、「和珥」を氏の名とする氏族。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。和珥は和邇・丸邇・丸とも。本拠地は旧大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)、また添下郡。6世紀頃に春日山山麓に移住し、春日和珥臣となったとされていたが、近年では一部はそのまま和邇の地にと留まって和邇部や小野一派、柿本一派、高市一派を構成したとされる。

既に書いたように、応神天皇は和珥臣の祖・日触使主(ひふれのおみ)の娘やその妹を妃としていました。和珥氏は天皇家の血脈の中に入り込んでいたのです。そうした関係から、和珥氏は自分たちが奉斎する比群之社に応神天皇の話をくっつけ、後代になって八幡宮を勧請したと考えれば筋は通りそうです。由緒にもあるように、和珥氏の祖となる日触使主(ひふれのおみ)の名前は、明らかに日群社、日牟礼社の社名と対応しています。

今までは、宗像氏系の大嶋大神や宇佐八幡宮に祀られる応神天皇が日牟禮八幡宮に深く関与していると思っていました。けれども、その背後には和珥氏の存在があったのです。日牟禮八幡宮と和珥氏の関係をもっと詳細に検討してみましょう。

「近江蒲生郡志 巻6」には以下のような記載があります。

姓氏録左京皇別には櫟井臣和邇部同祖とある其證なり、比牟禮山下に大字櫟井あり今市井の仮字を用ゆるも承保元年三月の長命寺文書には正しく櫟井と記す、当社の神主職たりし一井氏は徳治三年八月の譲状を存して祖先以来の神主たりしを記す、一井市井は共に櫟井の略字なり、…以下略。

櫟井臣は和邇部と同祖であり、比牟禮山(八幡山)の下には大字櫟井の地名があり今は市井の仮字を用いているが、長命寺文書では櫟井と正しく記載されていると書かれています。櫟井氏と和珥氏が同祖・同族であると確認できる内容ですね。また、日牟禮八幡宮神職の一井氏には徳治三年(1308年)の譲状(注:神職を目賀田女房に譲る書状。「近江蒲生郡志 巻6」は神職を譲られた目賀田女房を一井生蓮の妻としています)が残り、祖先以来同社の神職を務めたことが記されています。(注:詳細はコマ番号38を参照ください)この記述内容は、和珥氏が同社の始まりから関与していた可能性を示唆しています。

和珥氏の大和における支配地域は現在の天理市和爾町・櫟本町付近であり、その中に「櫟」の文字があるのも注目されます。天理市櫟本町櫟本字宮山2490には和爾下神社が鎮座していますが、東大寺要録には神護景雲3年(769年)における東大寺領の櫟(いちい)荘の記事が見られます。さらに、近江八幡市の琵琶湖を挟んだ西側には大津市和邇の地名があり、琵琶湖周辺における和珥氏の存在も確認されます。近江における和珥氏と櫟井氏は一衣帯水的に存在し、大和においてはより密着していたのです。

大和には他にも和珥氏系の神社があります。大和郡山市横田町23には別の和爾下神社が鎮座しており、ここの神職も市井氏(櫟井氏)でした。これだけ和珥氏同祖である櫟井氏の存在感が強い以上、日牟禮八幡宮の伝承の中心は和珥氏とするしかなさそうです。

以上、日牟禮八幡宮における応神天皇の伝承、後代の宇佐八幡宮勧請などは和珥氏が関与していたと確認されました。けれども、大嶋大神はまだ曖昧な部分が残ります。和珥氏が日牟禮八幡宮の始まりから関与していたとしても、大嶋大神の実態は宗像三女神であり、宗像氏の奉斎する神だからです。ひょっとしたら、和珥氏と宗像三女神を奉斎する宗像氏の間にも、応神天皇と同様に深い縁故があるのかもしれません。

それを確認できれば、和珥氏は日牟禮八幡宮の始まりから関与していたと最終的に確定できることになります。と言うことで、和珥氏の中心的エリアである天理市和爾町1194に鎮座する和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)をチェックしてみます。

まず同社の祭神を調べたところ阿田賀田須命(赤坂比古命)、市杵嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)となっていました。市杵嶋比賣命は明らかに宗像氏が奉斎する宗像三女神の一人です。和珥氏と宗像氏の関係がおぼろげに見えてきました。これで阿田賀田須命(あたかたすのみこと)も宗像氏と関係があれば、和珥氏との深い縁故も確認できることになります。

そこで阿田賀田須命を調べてみました。面白いことに阿田賀田須命を祀るのは宗像大社の摂社となる津加計志神社など福岡県に3社あります。津加計志神社に関しては以下のブログが詳しいので参照ください。
http://blog.livedoor.jp/keitokuchin/archives/65520721.html

阿田賀田須命は宗像氏系の神社で祀られているだけではありません。何と、宗像大宮司の遠祖が吾田片隅命になり、宗像氏(胸形君)は大国主命の六世孫となる吾田片隅命の子孫とされています。「新撰姓氏録」には、宗像朝臣 大神朝臣同祖。吾田片隅命之後也。宗形君 大國主命六世孫吾田片隅之後也。とあり、一方「先代旧事本紀」の地祇本紀には素盞鳴尊の八世孫 阿田賀田須命 和迩君等の祖。とあり、吾田片隅命(=阿田賀田須命)は和珥氏と宗像氏の両方の祖となっていると理解されます。そう、宗像氏と和珥氏の根っ子は同じだったのです。

これには驚きましたね。宗像氏と和珥氏は実に深い縁故を有する間柄だったのです。琵琶湖周辺に宗像氏の姿が見えないと書きましたが、その理由も明らかです。和珥氏さえいれば、宗像氏との関係から宗像三女神の勧請は可能となるからです。さらに、大嶋神社の祭神が大国主命となっている理由は、この神の六世孫となる吾田片隅命の子孫が宗像氏だったからかもしれません。なお日牟禮八幡宮の境内社である大島神社の祭神に仁徳天皇(大鷦鷯尊)が入っているのは、八幡神である応神天皇の御子神・仁徳天皇を祀る若宮神社が合祀されているためです。

以上、和珥氏の最も重要な神社である和爾坐赤阪比古神社の祭神は宗像大社にリンクされていると判明しました。既に書いたように、日牟禮八幡宮の鎮座の始まりは、同社由緒によると武内宿禰が大嶋大神を祀ったことにあります。そして大嶋大神は宗像三女神を意味するので、その姿は見えないものの宗像海人系が琵琶湖にまで来て祀った可能性が高いと思っていました。

けれども、和珥氏と宗像氏の関係から判断すると、日牟禮八幡宮の鎮座の始まりも宗像氏ではなく和珥氏の手による可能性が高くなってきます。また和珥氏の祖・日触使主の娘が応神天皇の妃となっており、和珥氏が応神天皇と関係することから、彼らが宇佐八幡宮を勧請したのもほぼ間違いなさそうです。

面白いのは、宇佐八幡宮の由緒によると宗像三女神は同社の鎮座する御許山に降臨したとされている点です。(注:鞍手町の六ケ岳に降臨したとの伝承もあり)日牟禮八幡宮に関する記事の最初に、同社には大嶋大神、応神天皇と八幡宮、和珥氏氏の三つの要素があると書いています。けれども、これまでの検討により三つの要素は別々のものではなく、和珥氏を中心にしてほとんど混然一体の状態であったと判明しました。

さらに穿った見方をすれば、和珥氏系の櫟井(いちい)氏の名前は市杵嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)の名前が転じたものとも言えそうです。こうなると、日牟禮八幡宮における古い伝承の全ては和珥氏によるものと断定できそうな気配です。当初の検討時点からはかなり方向性が変わってしまいましたね。

ところで、日触使主で検索してみると、Wikiの米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)がトップで出てきます。この人物に関する内容をWikipediaより引用します。

米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)は、孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命とされる。応神天皇にしとぎを作って献上したとの伝承があり、小野氏、春日氏、柿本氏らの祖となり、小野氏の祖神を祀る小野神社などで祀られている。
大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。

上記から、日触使主と米餅搗大使主は同一人物或いは兄弟であると理解されます。いずれにせよ、両者は応神天皇と関係があり、しかも米餅搗大使主は応神天皇の大臣に当たることになり、その意味でも重要な立場にあったと理解されます。

ここまで日牟禮八幡宮に関してあれこれ検討を進めてきました。Wiki記事には大嶋大神、応神天皇、宇佐八幡宮のみが書かれ、和珥氏の存在が欠落しており、日牟禮八幡宮のホームページの由緒では、最初に大嶋大神、次が応神天皇と八幡宮、その後に和珥氏を登場させています。

「近江蒲生郡志 巻6」は和珥氏に中心を書いており、そのためか大嶋大神に関しては触れられていません。大嶋大神と和珥氏との関係まで理解が及ばなかったため、省いたのではないかと思われます。(注:そうした問題はあるものの、「近江蒲生郡志 巻6」には和珥氏との関係がさまざまな視点から詳しく書かれているので、是非全文をご一読ください)

「近江蒲生郡志 巻6」に大嶋大神の記述はありませんが、ここまでの検討により大嶋大神にも和珥氏の関与が確実視される結果となっています。以上、日牟禮八幡宮は鎮座の始まりから宇佐八幡宮の勧請にかけての長い時代において、和珥氏が最も深く関与しているとの結論に至りました。一定の方向性を出せたので、難物だった日牟禮八幡宮の検討もこれで終了とします。
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