邪馬台国と大和王権の謎を解く その31


前回分を書き終えてから放置状態が続き、間が空いてしまいました。今回から「邪馬台国と大和王権の謎を解く」シリーズを再開します。なお、過去の記事タイトルに「邪馬台国と大和王権の謎を解く」、「邪馬台国と大和王権の謎を探る」の二つが混在していますが、「謎を解く」が正しいとご理解ください。全くボケていますね。また過去記事の一部において一時的にブログのテンプレートが2コラムから1コラムに変わってしまい、やむを得ず写真を大きくしたことがあります。後になってまた2コラムに戻ったことから、一部の記事で文字がやや読みにくい感じとなった点、何卒ご了承ください。

さて前回では、初期大和王権の各古墳と「魏志倭人伝」の記載内容の整合性を探りました。今回からは三輪山麓を離れた物部氏の動きを探るため、天理市の中心部に向かいます。従って、記事タイトルとは直接関連のない話となります。それではちょっと面白みに欠けるので、卑弥呼や邪馬台国(大和国)の流れが伊勢神宮に至るまでの経緯を改めて書いてみることから始めましょう。

本シリーズを読まれた方はもうご存知のように、卑弥呼は九州における女王国の女王であり、邪馬台国(=大和国)の女王ではありません。太陽を祭祀する巫女(=日巫女)であった卑弥呼(日巫女の音に「魏志倭人伝」が卑字である卑弥呼を充て表記したもの)は、皆既日食が起きた248年9月5日に弟王の手で殺害されたと推定されます。唐突に起きた日蝕に恐れおののいた民が騒ぎ、弟の王は姉の呪力が衰え太陽が消滅したと思い込んで卑弥呼を殺したのでしょう。

記紀には天照大神が斎服殿にて機織りをしていたところ、弟の素戔嗚尊が皮を剝いだ馬を投げ入れたため、驚いて梭で陰部を突いて死んでしまい(=天岩戸に隠れ)、世の中は闇となったとあります。(注:「日本書紀」には幾つかの別伝も記載あり)この記述には神話的な装飾が施され、史実を象徴的に描いています。けれどもそのエッセンス部分は、卑弥呼が248年の9月5日に起きた皆既日食の際、弟の王に殺された事実を暗示していたのです。

記紀には、天照大神が天岩戸からお出ましになると再び光が戻ったと書かれていました。もちろん皆既日食は一時的なものであり、光はすぐに戻ります。しかし、亡くなった卑弥呼が復活することはありません。天照大神の原型は鏡を呪具として太陽を祭祀する巫女=日巫女(卑弥呼)ですが、卑弥呼の死後は太陽を象徴する呪具・鏡が神として崇められ、後に天照大神と称されることになります。それは「日本書紀」にも明確に記されています。具体的には以下の通り。

是に、日神、方に磐戸を開けて出ます。是の時に、鏡を以って其の石窟に入れしかば、戸に触れて小瑕つけり。其の瑕、今に猶存。此即ち伊勢に崇秘る大神なり。

大意は、天照大神は鏡を持って石窟に入ったので、岩戸を開けて出る際、鏡が岩戸に触れて小さな傷がついた。その傷は今なお鏡に残っている。これがすなわち伊勢にて斎祀られている大神(天照大神)である。

鏡が伊勢の大神(=天照大神)だと明快に書かれていますね。以上で鏡を呪具として太陽を祭祀していた巫女(卑弥呼)が、死後太陽神・天照大神に変容していくプロセスとその意味合いが明確になりました。天岩戸までの神話は、言うまでもなく全て九州で起きたことが語られています。

ところがです。天照大神(鏡)は第五代孝昭天皇の御代になって宮中にて祀られ、「日本書紀」によれば第十代崇神天皇の時代には宮中を出され、各地を放浪して最終的に伊勢の地に鎮座することになりました。妙だとは思えませんか?九州での天照大神の話が突然大和に移っているのです。この問題を見据えることで、邪馬台国北九州説、邪馬台国畿内説などと言った不毛な論争に終止符を打てるかもしれません。

そこで、九州における天照大神の話が大和に移動した問題を少し掘り下げてみましょう。孝昭天皇は葛城族の王を取り込んで天皇に充てたものなので、無視してよさそうです。問題は、「日本書紀」の記述に沿った場合、九州にあったはずの鏡(=天照大神)が崇神天皇の時代以前に大和に遷されたことになる点ですね。

天照大神(鏡)は少なくとも崇神天皇以前の段階で宮中(事実上は大和国内の三輪山山麓)にて祀られていた。言い換えれば、天照大神(鏡)は崇神天皇以前に九州から大和国内に持ち運ばれていたのです。天照大神(鏡)が九州から大和に遷されない限り、天照大神を宮中から外に出したとの記述は成り立ちません。「日本書紀」の崇神天皇6年に記載ある天照大神が宮中から外に出た話(実際には三輪山麓から外に出た話)は、崇神天皇以前に誰かが卑弥呼の呪具であった鏡(=天照大神)を奉じて九州から大和へ移動した事実の強力な裏付けとなるのです。こうした視点は簡単すぎて見えにくく、歴史研究の盲点になっているようです。

崇神天皇の在位は290年頃から318年頃と既に推定しています。では、それ以前のいつ頃、誰の手によって天照大神(鏡)は大和に遷されたのでしょう?卑弥呼が248年に死去した後、国は乱れそれを鎮めるために宗女・台与が後継者になります。既に書いたように、台与は250年代に大和へ遷し269年に死去したと推定されることから、年代を考慮すれば、台与の手によって天照大神(鏡)は大和に遷されたと見て間違いなさそうです。250年代に九州を後にした台与は、天照大神(鏡)を奉じながら物部氏(実態はプレ物部氏)が既に入植していた纏向の地に赴きました。物部氏は台与一行を受け入れ、彼女は三輪山山麓における女王の地位を獲得し、269年に死去したのです。

纏向遺跡のすぐ近くには墳丘長278mの箸墓古墳が存在します。この墓は大和における最初の大王墓級の古墳となります。推定築造年代や規模、「魏志倭人伝」に邪馬台国(=大和国)の女王の記載があること、「日本書紀」に箸墓古墳の被葬者が女性で倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)と書かれていること、さらに彼女は物部氏の祖・大物主神の妻になる点(プレ物部氏が台与一行を受け入れたことを象徴する)などを踏まえると、箸墓古墳の被葬者は台与以外にないと思われます。女王だったから300m近い巨大古墳の築造が可能となってのです。

台与の後継者は豊鍬入姫命となり、崇神天皇の御代に彼女は天照大神を奉じて元伊勢第一号の笠縫邑に遷ります。宮中を出た天照大神(鏡)は笠縫邑(現在の秦楽寺境内)にて33年間奉斎され、その後丹波の与佐宮へと移動しました。与佐宮の所在地は尾張氏の謎解きで書いた京丹後市峰山町二箇24-1にある船岡神社境内で、ここは四道将軍の丹波道主命(=彦坐王)の居館があった場所です。

豊鍬入姫命の一行は丹波道主命の娘(とされる)八乙女(実際は多分地元の巫女)によって饗応されます。詳細は「尾張氏の謎を解く その76」にて書いていますので参照ください。

「倭姫世記」には、「丹波の国の与佐の小見の比沼の魚井原にいる道主(丹波道主命)の子・八乎止女の奉斎する御饌都神止由居太神(みつけかみ とゆけのおおかみ)を私の国に迎えて欲しい」との神託があったと書かれ、ここからも与佐宮所在地は峰山町二箇の丹波道主命(=彦坐王)の居館以外にあり得ません。

八乙女は食物の神である宇気持神を祭祀し、天照大神(鏡)を奉斎する豊鍬入姫命一行にお食事を饗応する巫女ですが、彼女たちの祀る宇気持神が後に豊受大神として崇拝されることになります。或いは、八乙女が後継巫女によって祀られ豊受大神に変容したのかもしれません。丁度、太陽を祭祀する巫女・卑弥呼が太陽神・天照大神に変容したように…。

豊鍬入姫命は与佐宮にて4年間天照大神を奉斎した後、倭国、紀伊国、吉備国などを回り最終的に三輪山で倭姫命にバトンタッチします。倭姫命は伊賀国、近江国、美濃国、尾張国などを経由してついには伊勢に辿り着き、そこで天照大神(鏡)を奉斎しました。これが伊勢神宮の始まりになりますが、当時今のような社殿があったとは考えられず、実質的な創建は持統天皇の時代と想定されます。

雄略天皇の22年、天照大神から自分一人では何かと不都合なので、丹波の豊受大神を呼んでほしいとの神託が出ました。そこで、豊受大神を祀る八乙女の後継巫女が伊勢の地にまで赴きます。これが外宮の創建となります。

以上で、北九州にあった女王国の女王(巫女)で太陽を祭祀する卑弥呼が死に、その後太陽を象徴する鏡(天照大神)が台与一行によって大和(邪馬台国)に持ち込まれ、最終的に伊勢の地に鎮座して伊勢神宮の内宮・外宮が創建されるまでの経緯がほとんど切れ目なく確認されました。

では、今回以降の目的地である天理駅に向かいます。天理駅を降りて少し東に進むと、超巨大な建物群が目に入ってきます。これらのすべてが天理教に関係するものとは、本当に驚きです。高野山も宗教都市ですが、天理市は近代の宗教都市と言えるでしょう。天理教に関しては以下のWikipedia記事を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99


天理教会の位置を示すグーグル画像。

IMG_2478_convert_20170304084301.jpg
巨大な鳥居のような門。

グーグル画像の一番下の端の真ん中あたりがこの鳥居門となります。全体のイメージを確認いただくため、画像を拡大しズームしてみてください。鳥居門の奥に見える建物が教会本部の南礼拝場で、その両翼にも礼拝場があって、右手が東礼拝場、左手が西礼拝場となっています。そして、礼拝場の先、回廊にぐるりと取り囲まれたような広大な敷地の中に教祖殿が鎮座しています。こうしてみると、神社の形式に近いような構成となっていますね。

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南礼拝場をズーム。

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鳥居門を潜り各礼拝場を撮影。

画像サイズを大きくしています。全くどれだけ大きいのかと呆れてしまうほどのスケール感です。数百年すれば国の重要文化財に指定されるかもしれません。

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振り返ると天理教関係の様々な教育施設が並んでいます。

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天理教参考館部分。面白い建物です。

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東礼拝場の建物。これだけでも十分に大きい。

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位置を変えて撮影。

IMG_2486_convert_20170304084731.jpg
反対の位置から撮影。

実は天理教関係施設の地下は物部氏の遺跡とされる布留遺跡の所在地となっています。もちろん今は完全に整地され、何の痕跡も残されていません。この遺跡からは古墳時代の中期(5世紀頃)のものとされる豪族の居館や大型倉庫が出土しています。そして遺跡の南北には幾つかの古墳群があります。布留遺跡に関しては以下のホームページやPDFを参照ください。非常に詳しく書かれています。
http://inoues.net/club/karakokagi_new23.html
http://www.infokkkna.com/ironroad/2012htm/2012iron/12iron05.pdf
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