尾張と遠賀川流域の謎を解く その2


今回は尾張と遠賀川流域における共通性の土台部分を理解するため、弥生人が伊勢湾に入り北上していった流れを見ていきましょう。まず知多半島です。知多市八幡荒古の荒古遺跡や朝倉駅近くの細見遺跡からは遠賀川式土器(弥生時代前期で2300年前とされる)が出土しています。

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細見遺跡出土の遠賀川式土器。知多市歴史民俗博物館にて撮影。

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解説。


朝倉駅と細見の位置を示すグーグル地図画像。知多市役所と線路の間辺りが遺跡の所在地。

荒古遺跡は寺本駅近くの八幡神社境内に位置し遠賀川式土器が出土しています。八幡神社に関しては以下の同社ホームページを参照ください。
http://www.owari-hachiman.com/sta22808/index.html

博物館の解説によると稲作の伝播と遠賀川式土器はセットで考えられているようですが、疑問もあります。弥生時代の遠賀川流域、特に立屋敷遺跡付近は、尾張の推定海岸線と同様に考えれば入海状態で、水田耕作地はほとんどなかったと推定されます。また到達地点の一つとなる知多半島の細見遺跡も海岸沿いであり、そのすぐ背後は丘陵地帯となるので稲作適地ではありません。(注:陸稲は縄文時代から始まっていたので、陸稲による稲作は可能性があります)

東海地方の大規模集落である朝日遺跡、西志賀遺跡や高蔵遺跡にしても、とりわけ西志賀遺跡の中心部には西志賀貝塚が存在し、弥生時代前期は海産物の採集や漁業などが中心の生活であったように思えます。尾張における稲作は多分弥生時代中期以降と思われ、遠賀川式土器とセットで考えるべきではないような気もしますが、いかがなものでしょう? 日本考古学協会のネット上の論文によれば、高蔵遺跡では水田稲作をおこなっておらず、陸稲や畠作、製塩といった夏秋季の生業活動が想定される。とのことです。まあ、これらの問題は本論考における検討課題ではないので、疑問の提起だけに留めておきます。

さて、知多半島は弥生人集団が一時的に立ち寄った、或いは小人数が定着した程度の場所と思われます。彼らの主力はさらに北上し、当時は半島状であった(と推定される)熱田台地に沿って北に進みました。熱田台地の中ほど、名古屋市熱田区高蔵町9-9には高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)が鎮座しています。一帯の高蔵遺跡からは遠賀川式土器も出土しており、弥生人集団の主な移動先の一つとなりそうです。


高座結御子神社の位置を示すグーグル地図画像。

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名古屋市博物館の資料を再掲。

画像サイズを大きくしています。断夫山古墳の北側が高蔵遺跡となっています。

高座結御子神社詳細は前回の記事の中にある「熱田神宮の謎を解く その23」を参照ください。同社の鎮座地では弥生時代を通して遺跡(高蔵遺跡)が営まれており、遠賀川式土器も出土して北九州との関係を示しています。留意すべきは高座結御子神社の祭神・高倉下で、この神は元々遠賀川流域にいた物部氏系と考えられる点です。

但し、古墳時代以前と推定される高倉下の時代、遠賀川周辺にいた人々が自分たちを物部氏と称していたとは考えられないので、彼らの呼称を便宜的にプレ物部氏としておきます。高倉下が物部氏系と考えられる理由は過去記事に何度も書いていますが、もう一度以下に纏めてみます。

尾張においては尾張氏の北隣が物部氏の領域となっており、高座結御子神社の南に熱田神宮が鎮座し、その中間付近に断夫山古墳があり、被葬者は尾張草香と推定されている。草香(日下)は物部氏の祖神・饒速日命(にぎはやひのみこと、以降ニギハヤヒと表記)が上陸した生駒山麓の地名で、また物部氏の武器庫があった場所に創建された高牟神社(名古屋市千種区)の鎮座地は常世の草香島と称されており、ここからも草香と物部氏の関係が窺える。尾張においては領域を接する尾張氏と物部氏は協力関係にあったと推察され、尾張草香とは尾張氏と物部氏の両面性を持った人物と考えられる。

物部氏の祖・ニギハヤヒが尾張氏においては天火明命であり、「先代旧事本紀」によれば、ニギハヤヒの子となる天香語山命(尾張氏系)の天降って後の名が高倉下(物部氏系)であるのは、尾張草香が物部氏と尾張氏の両面性(或いは融合性)を示しているのと全く同じ意味を持つ。

福岡県直方市下新入に鎮座する剣神社の祭神は古くは倉師(くらじ)大明神と言い、鞍手郡と言う地名の発祥地になる。谷川健一氏は、神武紀に登場し紀伊の熊野で天孫に霊剣布都御魂を献じた高倉下(たかくらじ)が天孫本紀では物部氏の祖神ニギハヤヒの直系である天香語山命の別名と記されていることや、ニギハヤヒが降臨したという伝承地にも倉治(くらじ)の地名があることをあげ、「倉下は物部氏の一族の名であり、それが筑紫物部の本拠である鞍手の郡名の起こりと関係がある」としている。
(注:新入剣神社に関しては「日本の神々 1」(白水社)を参照し、一部引用しました。倉師大明神と高倉下が同一人物(神)であるかどうかは、ずっと後の回になりそうですが別途検討します)

上記のように高倉下が物部氏系であるのはほぼ間違いなく、元々は遠賀川流域で祀られていた神だったものが、尾張の高座結御子神社(=高蔵遺跡で遠賀川式土器の出土地)にても祀られていると確認されます。遠賀郡岡垣町に鎮座する高倉神社や遠賀川河口に鎮座する岡湊神社の祭神は大倉主命ですが、この神と高倉下は同一神とされており、その詳細は後の回にて検討します。

遠賀川流域で祀られていた大倉主命(=高倉下)が尾張でも祀られている。このことは、北九州にいたプレ物部氏が尾張にやって来た事実を示しているのではないでしょうか?高倉下はニギハヤヒの子となるので、ニギハヤヒ東遷に同行しつつも大和には入らず、船で紀伊半島を回り、遂には尾張に至ったとの想定がここで出てきます。(注:ニギハヤヒの東遷に関しては尾張氏の謎解きでも詳しく書いていますので、興味がある方は参照ください)

ニギハヤヒの子である高倉下が遠賀川河口から尾張に向かった可能性を史料などから探ってみましょう。物部氏の歴史書である「先代旧事本紀」には、ニギハヤヒが数多くの物部を率いて大和へと天降りしたとの記事が出てきます。内容は伝説的ですが、一定の事実を反映している面もあろうかと思われます。その中で、ニギハヤヒ東遷に従った32人の防御の人たちの最初に天香語山命の名が尾張連らの祖として出てきます。そして既に書いたように、天香語山命の天降って後の名が高倉下でした。

さらに「先代旧事本紀」を見ていきます。同書には、「饒速日尊の子の天香語山命(天降って後の名を手栗彦命、または高倉下命という)。この命は、父の天孫の尊に従って天降り、紀伊国の熊野邑においでになった。」と書かれていました。一方「日本書紀」には神武天皇が熊野で危機に瀕した際、高倉下が剣を渡して助けた話が見られます。いかがでしょう?上記から、高倉下は父であるニギハヤヒに従って東遷したが、一緒に大和には入らず、紀伊半島に沿ってさらに移動し続けていると理解されませんか?その事実が「先代旧事本紀」や「日本書紀」の記事に反映されたと考えられます。

遠賀川流域にいた弥生人たちは今からおよそ2300年前、遠く離れた尾張にまで船で移動しました。その海路は時代を相当下った高倉下の頃にも、途絶えることなく使われていたのです。では高倉下はいつ頃尾張に入ったのでしょう?

あくまで推測ですが、高倉下の時代は西暦100年代の終わり頃(弥生時代末期)ではないでしょうか?理由は、桓帝と霊帝の間(146年~ 189年)に倭国大乱が発生し、遠賀川流域など北九州にいた物部氏の前身となる人々がニギハヤヒに率いられ瀬戸内海を渡り河内から大和に入ったと想定されるからです。その記憶が「先代旧事本紀」にニギハヤヒの東遷として書かれたと考えれば、190年頃と推定する高倉下の時代にある程度筋が通ってきます。

弥生時代末期の190年頃、高倉下一行は紀伊半島を回って伊勢湾に入り、尾張の熱田台地に上陸した。その見解を補強する材料が他にもないか見ていきます。前回でアップした「尾張の弥生時代の概観」を参照ください。ここには、高蔵遺跡だけが弥生時代を通じて集落が営まれた。その理由は、この遺跡が海上交通の上で重要な役割を果たしたことによるでしょう、と書かれていました。弥生時代前期に遠賀川土器を尾張に持ち運んだ弥生人の流れが、ニギハヤヒの時代(弥生時代末期)に至るまで継続していたことを示すような内容です。

名古屋市博物館で見た様々な解説文の中には、プレ物部氏が西暦100年代の終わり頃尾張に至ったと言う想定を裏付けるような記述が幾つかあります。前回でアップした「尾張の弥生時代の概観」の内容もそうですが、具体的な内容の一つは以下の通り。(注:その他の記述は後の回で見ていく予定です)

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高蔵遺跡の解説。

解説には、高蔵遺跡は海上交通の拠点であり、そのため後期には中国製の鏡がもたらされるなど、遠隔地との交流もあったようです。とあります。弥生後期は2000年前から1750年前となるので、ニギハヤヒの時代も含まれます。「先代旧事本紀」にはニギハヤヒが瀛都鏡(おきつかがみ)、辺都鏡(へつかがみ)など天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を天神の御祖神から授けられ、天降ったと書かれていました。ニギハヤヒ東遷に従ったメンバーの別動隊(高倉下とその配下のプレ物部氏)が尾張に入ったと考える酔石亭主の見方にある程度整合する解説内容だとは思えませんか?

今回は弥生時代前期に熱田台地(高蔵遺跡)へと至った弥生人の流れが、後代におけるプレ物部氏の熱田台地への移動に繋がった点を確認しました。もちろんこれは大雑把な議論に過ぎず、今後より詳細な検討が必要なのは言うまでもありません。次回はさらに北上し西志賀遺跡などを見ていきましょう。

        尾張と遠賀川流域の謎を解く その3に続く
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