尾張と遠賀川流域の謎を解く その8


前回で嶋戸物部の支配地域と洞海(くきのうみ)について見てきました。嶋戸物部の検討を続ける前に、洞海と妙な関係がありそうな豊前企救郡(きくぐん)の筑紫聞物部を取り上げます。企救郡は現在の北九州市小倉北区・小倉南区・門司区にほぼ相当し、小倉北区は洞海湾の入り口に近い場所となっています。そして、(きく)の意味は岫(くき)と同じで洞穴や屈曲した地形だとのこと。地理的な近さも含め、嶋戸物部と筑紫聞物部の間に何か目には見えない繋がりがあったのかもしれません。

続いて上記とは異なる視点から筑紫聞物部の所在地を考えてみます。彼らがいた豊前企救郡の企救は規矩と同じで、かつては規矩郡とも表記されていました。規矩はコンパスとさしがねを意味し、そこから思い浮かぶのが中国の伝説に出てくる伏羲(ふっぎ、コンパス)と女媧(じょか、直角定規)です。彼らは大洪水から逃れるため葫蘆(ひょうたん)に入り助かりました。その為か、二人の名は瓢箪を意味する言葉が元になっています。この二人に関しては「歴史に秘められた謎を解く その8」、「その9」にて秦氏に関連して書いていますので、参照ください。

伏羲と女媧は瓢箪で、秦氏は豊(とよ、ほう)で象徴される存在でした。秦氏が本拠としたのは豊前国で、国名にも「豊」が入ります。(とよ、ほう)はまた、盃の中に食物が満ちていることを表しますが、瓢(ひさご)を二つに割って作った盃を合わせ離すという意味もあります。また、盃を合わせる点からホウ(逢)とも言いました。秦氏の豊はホウであり、匏(ひさご)もホウと読みます。

以上から、規矩=伏羲・女媧=瓢箪=豊=秦氏へと繋がるのですが、秦氏の拠点である豊前国に伏羲と女媧に関連する規矩郡があるとは、改めて歴史の奥深さを感じざるを得ません。秦氏と伏羲・女媧に関しては、関連する地名なども含め詳しく論証していますので、上記を参照してください。7年も前に書いた内容がここで再浮上するとは、ちょっとした驚きです。

では、筑紫聞物部の移住先はどこになるのでしょう?調べても取っ掛かりなど何もなく、最終手段である姓を参考にしてみます。規矩姓でチェックすると全国で29人、熊本県が10人と最も多く、次が福岡県の4人となっており、愛知県はたった1人でした。

遠い昔の状況を現在の規矩姓分布から推定できる可能性は低いものの、彼らが尾張に来たとは考えられません。筑紫聞物部はニヒギハヤヒに従って大和に向かい、一旦は難波に上陸するも暫くして北九州に戻った可能性もあります。まあ、これは根拠皆無の推測に過ぎませんが…。いずれにしても、筑紫聞物部に尾張との関係は想定し難く、検討対象から外すこととします。

と言うことで、嶋戸物部の検討に戻りましょう。谷川健一氏は嶋戸物部(島門物部)の奉斎する神が崗の水門の神大倉主であり、大倉主をまつる高倉神社もまた高倉下(たかくらじ)と縁由があるにちがいない。と述べています。要するに、大倉主命=高倉下と考えておられるのです。この他にも遠賀川流域では、鞍橋君(くらじのきみ)と言った名前を持つ人物も欽明天皇の時代(500年代半ば頃)に登場します。

正しく高倉下(たかくらじ)の「くらじ」ですが、鞍橋君の「くらじ」には黒治、鞍闇、暗路、闇路などの表記もあり、倉の暗さを表現するものと推定されます。ただ、一足飛びに大倉主命や鞍橋君を高倉下と結び付けていいのか疑問も残るので、この問題は個別の神社を見ていく折に再検討します。

谷川健一氏が大倉主命=高倉下としておられるのは心強い援軍に思えますが、そこは一旦横に置き検討を進めます。既に書いたように、遠賀川流域を本貫とするプレ物部氏にとって、古遠賀湾の入り口付近に当たる崗の水門は死活的に重要な場所でした。そうした場所を本拠として、大倉主神を奉斎する嶋戸物部はプレ物部氏の中でも重要な存在の一つと思えませんか?その彼らの移住先が不明だなどあり得ない話です。

この問題に関して谷川健一氏は、鳥越憲三郎氏が「大いなる邪馬台国」と言う著作で嶋戸物部は九州に居残った、筑紫贄田物部は後になって伊予に移ったとしている、と書いています。贄田物部に関する根拠は多分伊予に熟田津(にぎたつ)の地名があるからでしょう。けれども、熟田津は移動の中継地に過ぎないと考えられます。「先代旧事本記」に全メンバーがニギハヤヒに随行したと書かれている以上、(注:具体的な内容は、「天物部ら二十五部人、おなじく兵仗を帯びて、天降り供奉らしむ」となっている)、鳥越氏の見解には同意できないし、谷川氏はこの部分に関してご自分の意見を述べてはいません。

嶋戸物部に関しては行き先が不明なので居残ったとするしかなかったのでしょうが、居残ったならその根拠を示す必要があります。例えば、仲哀天皇の船が崗の水門で動かなくなったのは、大倉主命を奉斎する嶋戸物部から足止めを食らったからと考えてほぼ間違いないでしょう。仲哀天皇の時代はニギハヤヒ東遷の時代よりずっと遅いので、これを根拠に居残ったとするのは可能です。ただ、他の物部に関しても、各地の人員が根こそぎニギハヤヒに従って大和に東遷したとは思えず、地元の残留部隊もいたはずです。そう考えると、嶋戸物部居残り説には大きな疑問があります。

嶋戸物部の移住先のさらなる検討・結論は後に回し、次に贄田物部を見ていきます。贄田物部は筑前鞍手郡新分郷、現在の鞍手郡鞍手町新北にいた物部で、この地域はプレ物部氏にとって最も重要な剣岳(標高125m)の西半分を含んでいます。


鞍手町新北(くらてまちにぎた)と剣岳の位置を示すグーグル画像。右手の山が剣岳。剱岳の表示はありません。拡大してご覧ください。

谷川氏は吉田東伍氏が著された「地名辞典」の内容、「剣岳の山頂に剣大明神を祭り、山北を剣村と呼ぶ。剣明神は山下の諸村に分祀す。けだし物部氏の兵仗を祭る所にして云々」の部分を引用し、剣岳が筑紫における物部氏の信仰の中心と推察できるとしています。(注:剣岳がプレ物部氏にとって重要な場所であるのは確かですが、物部氏の兵仗を祭る所との考え方には疑問があります)

上記から贄田物部もプレ物部氏の中で極めて重要な存在だと理解されます。それほどの要地にいたプレ物部氏の中核部隊である贄田物部が、総司令官たるニギハヤヒ東遷に同行せず、後になって伊予に移ったりするでしょうか?また、贄田物部と同様に各物部の中で極めて重要な存在である嶋戸物部が居残ったりするでしょうか?そのようなことは絶対にないと断言できます。もちろん現地に残った残留部隊の存在も否定はできませんが…。では贄田物部はどこに移住したのでしょう?

これらに加え、新たな疑問が浮かびました。ニギハヤヒは上記した25地域の一体どこの出身なのでしょう?あれだけ物部関連地名が出ている以上、この中のどれかがニギハヤヒの出身母体となっているはずで、この問題も追及すべき課題となります。疑問点も整理できたので、嶋戸物部と筑紫贄田物部の移住先はどこか、ニギハヤヒの出身地はどこかと言う謎の答えを次回以降で探してみます。

         尾張と遠賀川流域の謎を解く その9に続く

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