尾張と遠賀川流域の謎を解く その12


前回で剣神社と八剣神社はどう違うのかとの問題を提起しました。違いが発生しそうな理由として、祭神や由緒、鎮座位置などが挙げられるはずです。この疑問を追求するため、まず各神社の祭神から検討していきましょう。遠賀川流域において八剣の名を冠する神社の多くが、祭神を日本武尊としています。一方、剣の名を冠する神社の多くは、後で詳しく見ていきますが、祭神は素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命になっています。(注:中山八剣神社や、かつて八剣神社或いは八剣大明神、八剣宮と称したらしい熱田神社は上記3神を祀っており、実態は剣神社だった可能性もあります。いずれにしても、かなり錯綜しているようなので後で個別に検討します)

素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命は全て熱田神宮・本宮において相殿神として祀られています。もちろん、素戔嗚尊と日本武尊に関しては北九州に独自の伝承があります。けれども宮簀媛命に関しては、活動範囲が年魚市潟周辺の、熱田、松炬島(現在の笠寺)、大高に限られており尾張以外に何の伝承もありません。従って、宮簀媛命は間違いなく尾張から勧請された神となります。(注:遠賀川流域で宮簀媛命が祀られた背景や意味は後で検討します)

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デジタル標高地形図を再掲。
地形図の象の鼻のような形の先端部が熱田神宮、その右斜め下の芋のような島の形が松炬島、松炬島の年魚市潟を挟んだやや西寄りの南側が大高となります。

宮簀媛命は尾張から勧請されたとの前提で考えれば、剣、八剣の名を冠する各神社の祭神(日本武尊と宮簀媛命)は尾張から勧請され、既に北九州で崇敬されていた武人(北九州版日本武尊)の伝承に上書きされた可能性が高くなります。これは単なる想像ではなく、特定の神社では上書きされた年代も明らかとなっています。

例えば新北に鎮座する熱田神社は金川宮司家の史料によると祭神は素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命となっています。(注:その他の祭神は別グループとなるのでここでは無視します)この神社は1185年に尾張国の熱田大明神を勧請しています。従って、他の剣神社や八剣神社も同様に尾張の熱田社(現在の熱田神宮。以降は熱田神宮で統一します)から勧請された可能性が浮上してくるのです。(注:あくまで大雑把に捉えた可能性であり、詳しくは個別に検討します)

こう書けば、熱田神社はともかくその他の神社は熱田神宮から神様を勧請などしていないし、そんな由緒は存在しない、1185年では時代が新しすぎるので参考にならないとの反論も出てくるはずです。ややこしいので、順次問題を整理していきましょう。この問題を解く最初の鍵は1185年にあります。1185年はどんな年なのでしょう?そう、源平合戦に源氏が勝利して平安時代が終わり鎌倉時代の幕開けとなった年ですね。

熱田神宮は織田信長が今川義元と桶狭間で戦う際、戦勝を祈願した神社で、現在の主祭神・熱田大神は草薙剣を御霊代・御神体としてよらせられる天照大神のことだ、となっています。けれども、熱田大神とは本来草薙神剣(或いは日本武尊)とすべきです。さもなければ、信長が戦勝祈願などするはずがありません。同様に平家と戦った源氏も熱田大神に戦勝祈願したのではないでしょうか?

問題は1185年における戦いの場が信長のように尾張・三河の範囲内ではなく、遠く離れた九州である点です。その場合、彼らは熱田大神の分霊を九州の地まで持ち込んで祀り、そこで戦勝祈願することになります。1185年に北九州に遠征した人物と熱田大神の分霊を祀った神社を特定し、例えばその神社からさらに分祀されたのが遠賀川流域に鎮座する八剣神社や剣神社だとの流れが出てくれば、酔石亭主の見解はある程度正当性を持つものとなるでしょう。

と言うことで、まず源平合戦に出てくる人物を当たってみました。熱田から熱田大神を勧請できるなら、当然大物でなければならないはずです。ざっと見渡してみると、いましたよ。 源頼朝の異母弟にして、源義経の異母兄となる三河守範頼(源範頼、みなもとののりより。以降は源範頼と表記します)で、遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)にて生誕したとされます。範頼は尾張のお隣である三河に関係している点からも有力候補となり得ます。

彼は寿永4年(1185年)頼朝から平家追討の命を受け北九州に入り、本城の蛭子谷に陣を置いたとされます。「筑前国風土記拾遺」に、「参河守範頼陣されし所」と記されていることからもそれが確認されます。(注:1185年は寿永、元歴、文治の元号が重なっているのでややこしく、以降は単に1185年とだけ表記します)

さて、範頼が本城の蛭子谷に陣を置いたとすれば、そこに尾張から熱田大神(草薙神剣の剣霊或いは日本武尊)を勧請したはずです。でも、遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれて三河守となった源範頼が、どんな理由により尾張の熱田神宮を北九州に勧請したのでしょう?その答えを得るには彼の経歴を知る必要があります。既に別の記事で書いていますが、範頼は源義朝の六男で、兄の頼朝とは異母兄弟の関係となります。源範頼は頼朝と同様に熱田神宮の大宮司である藤原季範の手で養育されました。

源頼朝の母親は藤原季範の娘・由良御前とされ、彼女は出産のために熱田神宮の鎮座する熱田に帰り、熱田神宮の隣にある誓願寺にて源頼朝が誕生しています。それらの関係がベースにある以上、源範頼が熱田神宮を北九州に勧請し平家との戦いにおける勝利を祈願したのは必然であったと言う他ありません。誓願寺に関しては「熱田神宮の謎を解く その3」にて書いていますので参照ください。門以外に何もないような雰囲気であるのが残念です。

源範頼は本城の蛭子谷に陣を置いたとされますが、具体的にはどこになるのでしょう?前回で数多くの剣神社、八剣神社鎮座地を調べており、その中に該当するものがあるはずです。本城の蛭子谷と言う地名をヒントに考えると、現在の北九州市八幡西区本城が該当しそうです。ここには、「その11」で書いたように八剣神社が鎮座していました。1185年当時の地名がそのまま現在まで残っていたので、簡単に行き着けましたね。


北九州市八幡西区本城の位置を示すグーグル地図画像。八剣神社の表示があります。

この神社に源範頼が関与していれば一件落着となりそうなので、期待が高まります。

         尾張と遠賀川流域の謎を解く その13に続く
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