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古代の鎌倉


日本人の精神史に決定的な影響を与えたのが秦氏で、日本国の深源には彼らの存在がありました。秦氏のストーリーは宇宙の果てまで展開して終わったのですが、もう一度スケールを縮め、まだまだ謎めいたものが数多くありそうな鎌倉の成り立ちや、相模国における秦氏について、数回にわたり見ていきたいと思います。なお、「相模国の秦氏」で既に論じた内容と重複する部分が出るかもしれませんが、この点はご了承ください。

まずは鎌倉の始まりから……。

最初に鎌倉の名前が出てくるのは、「古事記」の景行天皇の段で、「ヤマトタケルの子孫である足鏡別王は鎌倉別の祖なり」とあります。鎌倉別の「別」とは貴人が地方に下ってその地を治めることを意味するのですが、景行天皇の御世に鎌倉の地名があった訳ではなく、実際にはずっと時代が下ることになるのでしょう。和銅5年(712年)に書かれた「古事記」から読み取れるのは、少なくとも8世紀前半には鎌倉の地名が存在していたという点です。

大和朝廷時代、相模国には師長国造(しながこくぞう、酒匂川流域周辺を治める)、相武国造(さがむこくぞう、相模川流域周辺を治める)、鎌倉別があったと考えられます。ちなみに律令制(701年)が成立して後、相武国造は高座郡と大住郡に分かれたとされます。相武国造は以下Wikipediaより引用。

相武国造(さがむのくにのみやつこ・さがむこくぞう)は相模国東部を支配した国造。
伊勢津彦。出雲神の子で、建御名方命の別名とされる。成務朝に3世孫の弟武彦命が相武国造に任じられたという。『古事記』に相武国造が日本武尊を焼き殺そうとして逆に攻め滅ぼされた記述がある。
氏族 漆部氏。または壬生氏。姓はともに直。


相模国が初めて文献に出るのは、「日本書紀」天武天皇4年(675年)10月の条となります。面白いのは記事の内容で、「相模國言さく、高倉郡の女人、ひとたびに三の男を生めりとまうす」とあり、三つ子の出産について書かれていました。なお高倉郡は藤沢、茅ヶ崎の一帯を指しています。

神奈川県綾瀬市にて発見された木簡には以下のように記されています。
鎌倉郷鎌倉里□□□寸稲天平五年九月
天平5年は西暦733年で、木簡は鎌倉という地名が存在していたことを、文献以外で確認できる貴重な資料だと思われます。

次に「正倉院文書」の天平7年(735年)、「相模国封戸租交易」には、「鎌倉郡鎌倉郷のうち30戸分の田135町109歩の租の半分が、食封として高田王に与えられた」と記載があります。

以上から8世紀前半には鎌倉の地名は間違いなく存在していたことになります。

問題は、師長国造、相武国造と同時期に既に鎌倉別があったかどうかですが、それを確認できる資料はなさそうです。しかも相模国が文献に初めて出るのは675年。一方藤原鎌足の生没年は614年~669年とされています。

酔石亭主は鎌倉の地名由来の項で、藤原鎌足が鎌を埋めたので鎌倉となったという説を展開したのですが、鎌足以前に鎌倉別があったとすれば、この説は間違いとなってしまいます。ただそれを確定する史料はなく、相模国の名が文献に載る以前に鎌足は死去していることから、現時点では鎌足説はなおも有効としておきましょう。さらに相模国鎌倉郡の各村誌を見ても鎌倉別は出ておらず、村誌の編者に鎌倉別に関する認識がなかったと思われ、これも鎌足説を補強する材料となります。

また秦氏との関係が想定される天武天皇の時代に相模国の名が出てくるのは、何か象徴的なものがありそうな気がしてなりません。

注:本記事は「相模国の秦氏」のカテゴリに含めていましたが、カテゴリを「頼朝以前の鎌倉」に変更しました。

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