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尾張と遠賀川流域の謎を解く その58


今回は遠賀川流域を離れ、宗像市田島2331に鎮座する宗像大社(辺津宮)を見ていきます。同社は世界遺産登録でかなりすったもんだしましたが、何とか登録に至った経緯があります。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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鳥居です。

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文部省の解説板。これだけでは何もわからない。

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池もありました。

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祭神の解説板。

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神門。

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拝殿です。

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拝殿と本殿の解説板。どちらも国の重文とのことです。

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美麗な本殿。

宗像大社の祭神は天照大神の御子神で、田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の宗像三女神となり、田心姫神は沖津宮(おきつぐう)、湍津姫神は 中津宮(なかつぐう)、市杵島姫神は 辺津宮(へつぐう)にて奉斎され、この三宮の総称が宗像大社となります。同社の祭神や祭祀氏族などには大きな謎があるので少し検討してみましょう。まず祭神です。

宗像三女神は元々水沼君が祀る神で、「その25」、「その26」にて書いたように、六ヶ岳の山麓に鎮座する六嶽神社にて祀られており、六ヶ岳が最初の降臨地となります。この降臨は御井郡(現在の久留米市)にいた有力豪族の水間君(水沼君)が磐井の乱の後、物部麁鹿火(あらかい)の弟である物部阿遅古連(あじこのむらじ)により、現在の鞍手町となる六ヶ岳山麓に強制移住させられたことを意味しています。このため、「先代旧事本紀」では水沼君の祖が物部阿遅古連となってしまいました。また鞍手町には水間が転じた水摩姓が多く、彼らの後裔がこの地に居住し続けたことが確認されます。

さてそうなると、宗像三女神はなぜ鞍手町から距離のある宗像大社祭神になってしまったのでしょう?水沼君の後裔が鞍手町に居続けたのであれば、現在の宗像市に移住などしていないはずです。水沼君は移住していないのに、宗像三女神は宗像市にて祀られている。その矛盾を解消するには、六ヶ岳山麓に降臨した宗像三女神が水沼君ではない別の誰かの手で宗像市にまで運ばれてしまったとするしかありません。

では、誰が…。有力候補はもちろん物部阿遅古連です。仮に物部阿遅古連が宗像三女神を宗像市に運んだとしたら、どこかにそれを示すような記事が残されているのではないでしょうか?と言うことで、「肥前国風土記」を読むと以下のような記事が書かれていました。内容は読みやすいように書き直しています。

姫社(ひめこそ)の郷
昔、御井の大川に合流する山道川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合だった。この神が祟る理由を占ったところ「筑前の宗像の郡の珂是古(かぜこ、あじこ)に祭らせよ。そうすれば凶暴な心はおこすまい」とあった。そこで珂是古を探し出すと、彼は幡を高くあげて風のまにまに放した。すると幡は姫社の杜に落ち、夜珂是古の夢に織機などが出てきたので、女神であることを知り、さっそく社を建てて神を祭ったところ、路行く人は殺されなくなった。


珂是古は物部阿遅古連とされているので、上記から物部阿遅古連は宗像三女神を筑前の宗像郡に持ち運んだと確認されます。従って、宗像三女神が六ヶ岳山麓から宗像郡に遷座したのは磐井の乱後の530年代となります。これで宗像郡における宗像三女神の鎮座時期がほぼ確定しました。

続いてなぜ水沼君が宗像三女神の祭祀氏族なのかを考えてみます。宗像三女神は天照大神の御子神となります。当初の祭祀氏族である水沼君は御井郡(現在の久留米市三潴)の豪族でした。そして太陽神・天照大神の原型は卑弥呼(太陽を祭祀する巫女)であり、卑弥呼の死後は太陽を象徴する呪具・鏡が天照大神として祀られました。

卑弥呼の支配した女王国がどこにあったのかは不明ですが、その墓に関しては久留米市御井町字高良山(旧筑後国御井郡)の祇園山古墳との説があります。仮にこの説が正しいとすれば、同じ御井郡にいた水沼君が天照大神の御子神となる宗像三女神を祀るのは自然な流れとなってきます。


祇園山古墳の位置を示すグーグル地図画像。高速道路建設で破壊されそうになったようです。

続いて宗像氏を見ていきます。宗像氏に関しては胸形氏、宗形氏、胸肩氏などの別表記もあります。当初の宗像氏は宗像地方と響灘西部から玄界灘全域を活動領域とする海人系の一族でした。宗像大社における祭祀氏族もまた宗像氏となります。ただ、後者の宗像氏の祖は正三位中納言清氏親王とされ、800年代の終わり頃から900年代の人物となります。だとしたら、海人系宗像氏と宗像大社の宗像氏は別グループなのでしょうか?

清氏親王以前にも宗形徳善や宗形鳥麿などがいて、徳善の娘尼子娘は天武天皇の妃となり高市皇子を生んでいます。天武天皇の時代には宗像朝臣を賜りました。そうなると、清氏親王が宗像氏の祖と言うのは怪しくなり、海人系の宗像氏の後裔が宗像三女神を祀る社の祭祀氏族となって、宗像大社の創建に至ったと考えた方がよさそうです。同社の実際の創建時期は不明ですが、530年代に宗像三女神が持ち込まれ、天武天皇期にはおおよその形が整い、実質的な創建は大化の改新時期になるのではと推定されます。

面白いのは、同じ海人系の安曇族は日本各地に進出しているのに、海人系としての宗像氏はそうでもなさそうな点です。にもかかわらず、宗像三女神は日本の至る所で祀られています。両者の違いはどこにあるのでしょうね。いずれにしても、今回で書いた内容は厳密な検証をしておらず、大雑把な推測に過ぎないとご理解ください。より明確な記事を書くため、機会があれば高良山周辺を訪問してみたいと思います。

              尾張と遠賀川流域の謎を解く その59に続く
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