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鎌倉の始祖染屋太郎大夫時忠

頼朝以前の鎌倉
09 /21 2010

相模国鎌倉郡の各村誌には、「文武天皇から聖武天皇の神亀年間に至るまで、藤原鎌足の玄孫である染屋太郎大夫時忠が鎌倉に居住し東八ヶ国の総追捕使として東夷を鎮ず」と書かれています。長谷にある鎌倉最古の甘縄神明神社(甘縄神明宮)は、草創が行基で和銅3年(710年)、創建は染屋太郎大夫時忠とされています。(行基は鎌倉でしばしば名前が出ますが、東国に来た事実を示す文献はありません)

上記の記事は時忠が鎌倉において創始者的な立場にあることを示しています。では、江ノ電長谷駅から甘縄神明神社に向かいましょう。

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途中にある鎌倉彫のお店です。人力車が横に置かれ風情があります。

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出桁造りの商家。長谷にはまだこうした商家が数軒残っています。

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甘縄神明神社の社殿は急な石段の上にあります。

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拝殿です。

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本殿。

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境内秋葉神社の横に鳥居があり山に登ると小さな祠が…。

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祠です。これが時忠かも…。


染屋太郎大夫時忠の解説石板は神社から離れた住宅街の中にあり、やや見つけにくい。場所は、鎌倉文学館の信号から海側に向かい10数メートル進んだ右手となります。

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解説石板。

文字が薄れ見にくいので、石板の内容を再度以下します。
「染屋太郎大夫時忠は藤原鎌足の玄孫(やしゃご)に当り南都東大寺良弁僧正の父にして文武天皇の御宇(697‐707)より聖武天皇の神亀年中(724‐728)に至る間鎌倉に居住し東八箇国の総追捕使となり東夷を鎮め一に由比長者の称ありと伝へられるも其事蹟詳ならず 此處の南方に長者久保の遺名あるは彼の邸址と唱へらる 尚甘縄神明宮の別当甘縄院は時忠の開基なりしと云ふ」

時忠は謎の人物とされ実在したかどうか定かではないのですが、『大山縁起絵巻』(真名本)には、「良弁者相模国鎌倉郡由伊(井)郷人也、俗姓漆部氏、当国良将漆屋太郎大夫時忠子也」と、東大寺初代別当の良弁に関連して書かれています。

『東大寺要録』においても、時忠は漆屋太郎大夫時忠となっています。漆部は相武国造に任じられた姓であることから、染屋太郎大夫時忠は相模の有力氏族の出であるのは間違いありません。

なお漆部直伊波という実在の人物がいて、神護景雲2年(762年)に相模宿禰姓を賜り、相模国造に任じられています。彼が時忠という説もあり、その名前は由伊の伊と波(波ですから鎌倉を連想させる)が合成されてできたような気もしますが、いかがなものでしょう。

時忠の生誕地は鎌倉極楽寺の由井あるいは秦野の大住郡漆窪と考えられ、大住郡は大隅郡とも表記するのですが、秦王国の秦氏は鹿児島の大隅国に移住しており、両者の地名の間には符合するものがありそうです。鹿児島と神奈川の間に秦氏の連絡網があったのかもしれません。なお大隅国に移住した秦氏は大隅八幡宮を708年に創建、正八幡宮を称しました。

大住郡漆窪は現在の秦野市北矢名付近と考えられ、漆窪や大夫久保の地名が見られます。また周辺には矢名以外に矢倉、曽屋などの地名が見られます。ヤハゥエ神のヤが含まれる地名が多いのは、秦氏の存在によるのでしょう。


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