大須探訪


もう一か月近く前になりますが、2月3日の節分に大須観音に行ってきました。今回から大須とその周辺一帯を、古代からの歴史も含めて見ていきたいと思います。大須観音がある大須は東京で言うと浅草のような場所になります。以前は閑散としていた大須観音に至るアーケード街も、今は様々なお店が出店して活気が戻り、また隣接する電気街も若い人たちを引き寄せています。


大須の位置を示すグーグル地図画像。

まず大須の地名由来から見ていきましょう。大須の地名は大須観音(所在地:名古屋市中区大須2丁目)に由来するとされています。この大須観音の元を辿ってみると、尾張国中島郡長岡庄大須において北野天満宮の別当寺として元弘3年(1333年)に創建された真福寺でした。真福寺の現在の所在地は岐阜県羽島市桑原町大須2759-131ですから、過去には名古屋市の大須と同じ尾張国だったのに、現在では岐阜県(美濃国)になってしまった訳です。この場所を地図画像で見ると、木曽川、揖斐川、長良川の三川が合流する洪水の多い地域に当たっていました。


真福寺の位置を示すグーグル地図画像。木曽三川との位置関係を見るには画像を拡大ください。

真福寺には重要な文化財が幾つもあり、その最たるものが「古事記」の最古写本「真福寺本古事記」で、国宝となっています。ではなぜ、いつごろ、真福寺が名古屋市内に移されたのか?調べてみると移転には徳川家康が関与していました。洪水で貴重な文化財が失われるのを恐れた徳川家康は、慶長17年(1612年)に真福寺の一院である宝生院を移転させたのです。そうした内容は大須観音に設置された解説版にも書かれています。

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大須観音にあった解説版。

もちろん全体的な状況を俯瞰すれば、清州越し(名古屋城の築城に伴う清洲から名古屋への移転。1612年から1616年に実施)の一環としての側面が強いはずで、名古屋城の城下に寺町を整備するための中核施設を持ってきたものだったのでしょう。いずれにしても、この移転に伴って各種文化財も移され、長岡庄大須の地名をとって宝生院は大須観音と称せられることになったのです。

と言うのが、名古屋市における大須の地名由来となります。今から400年前の話であり時代的にも新しいので、この地名由来で正しいそうですが、へそ曲がりな酔石亭主としては別の見方を検討してみたいと思います。実は、その検討が名古屋の地名由来にも接続していきそうなので楽しみです。

まず大須の本来の表記は大洲だったと推定されます。洲の意味は、「川・湖・海の底に土砂がたまって高くなり水面上に現れたもの。河口付近などの比較的浅い場所にできる」となります。木曽三川の合流地点であった長岡庄大須は正にそのような場所であったのでしょう。では、名古屋の場合はどうでしょうか?

今回大須観音に行くに際し、酔石亭主は地下鉄上前津駅で下車しました。この上前津の地名に着目してみましょう。遠い昔、大須の前(西側)は津(海)だったから上前津の地名が成立したと考えられます。また近くには松原の地名もありました。ひょっとしたら、この辺りは砂が堆積して大きな洲の状態になっていたのかもしれません。大須の位置関係をデジタル地形図でチェックします。

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デジタル地形図。

この地形図は何度も引用していますが、象の鼻に見える南側先端部分が熱田神宮で、北側の端が名古屋城となっています。そのほぼ中間で赤く囲った部分が現在の大須辺りとなります。地形図を見ただけで、大須がかつては海に近接していた場所だと理解できますね。大須の右斜め上に青で囲った部分もありますが、ここは後で出てきます。

宝生院は羽島市の大須(=大州)から名古屋市の大州(地名ではなく大きな洲となった場所)に面したような地域に移転しました。元の地名の場所と移転先の場所のありようは同じだったから、元の地名をそのまま採用して大須観音と称されるようになったのではないでしょうか?

後で詳しく書きますが、現在の大須は古代から栄えていた場所であり、かつ徳川家康肝いりの移転だった点を踏まえると、移転先の古くからあった地名を使用すべきはずです。そうならなかったのは上述の事情があったからではないでしょうか?もちろんこれは酔石亭主の勝手な見方・推測に過ぎませんが…。

さてそこで、名古屋の地名由来を大須に関連する形で見ていきましょう。名古屋の地名は平安時代にまで遡り、「尾張国那古野荘」と言う荘園が初出とされます。では、那古野(なごや)の地名は何に由来しているのでしょう?幾つか例を挙げると、気候や風土が和やかな地、霧(なご)の多い原野、波が陸を越えた浪越の地などがあり、他の諸説を加えると相当数あります。

気候風土や霧は特徴に乏しく余りにも一般的すぎるので、間違いだと思われます。酔石亭主が注目したいのは浪越説で、これならかなり特異な現象であり、地名の由来になっても違和感はありません。仮に現在の大須であれば、かつては海まで直線で約700mに位置していたことから、浪が押し寄せた可能性はあり浪越にほぼ当てはまります。

波が越した原野で、浪越(なみこし、なごし)の野となり、浪越野(なごしの)→(なごの)→(なごや)という音の変遷があって、(なごや)に那古野の表記が当てられて那古野荘の荘園名となったと推測されます。もちろんこの考え方にはさらなる具体的な検証が欠かせません。

では現在の大須に浪越を示すような地名があるのでしょうか?もしあるなら大須一帯は、前津→大洲→浪越となり、海の手前→大きな洲→その洲や原野を越える大波、と言った一連の流れが出てくる場所になります。このような流れがあれば、大須こそが名古屋の地名由来の場所となるはずです。そうなれば大須の地名由来に関する酔石亭主説も、名古屋の地名由来に関連して可能性が多少は高くなりそうです。

さてはて、大須に浪越を示す何らかの史料あるいは遺跡などがあるのでしょうか?実は大須観音のすぐ近くには大須古墳群の一つとなる那古野山古墳(なごのやまこふん)があって、以前にも書いた記憶がありますが、改めて見ていきます。


那古野山古墳の位置を示すグーグル画像。大須演芸場の右側緑地が古墳。

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古墳です。

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もう一枚。

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解説版。浪越公園とあります。

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大須古墳群の位置を示す解説版。

那古野山古墳に関して以下Wikipediaより引用します。

「大須古墳群」の内の一つで5世紀中〜後半に造営されたと考えられている。元は南面する前方後円墳であったが、江戸時代に禅寺・清寿院の後園が造営される際に、前方部は取り壊された。清寿院に取り込まれて「浪越山」と呼ばれたのが現在では後円部とされる部分で、直径22メートル、高さ3メートル。大須二子山古墳、日出神社古墳、富士浅間神社古墳とも至近距離にあり、合わせて大須古墳群を形成する。
明治5年(1872年)に清寿院は廃され、明治12年(1879年)に愛知県下初の公園(浪越公園)として開放された。明治43年(1910年)に鶴舞公園が開園すると浪越公園は廃止されたが、大正3年(1914年)に規模を大幅に縮小して、名古屋市設置の那古野山公園となった。現在では三方をビルなどに囲まれた状態となっている。

上記に浪越山とありますが、後円部が築造当時のまま残存して現在の形となっているのかはっきりしません。いずれにしても、波が山(築造当時の古墳の頂上部)を越えたかどうかはともかくとして、古墳のふもとにまで海水が侵入すれば浪越と言えそうに思えます。

「名古屋市史 地理編」には最初に名古屋の地名由来が書かれており、「名古屋の名義、起源詳ならず」などと実に残念な記述から始まって、そのあとに諸説が解説されています。注目すべきは、「古へは島山にして海近ければ、浪高きときは、山の頂をも浪の越ゆる事度々なりし故に、浪越 (なごや)と呼ぶ」と書かれた部分です。同書はデジタル化されていますので、詳細は以下のコマ番号22、23を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950897

大須は海に近い場所に位置することから、「古へは島山にして海近ければ云々」の記述にも整合し、浪越山もある以上、名古屋の地名由来は大須にありと考えてもよさそうです。これを補強できそうな史料をさらにチェックしてみましょう。

と言うことで「尾張名所図会 前編巻之一」を読んだところ、那古野山の項があり、「清寿院の後園にありて古木老幹生繁って…中略…古色隠々たる雅地なれば、当年の面影その儘見るに足る小山なり」と書かれていました。「尾張名所図会 前編巻之一」はデジタル化されており、以下のコマ番号71を参照ください。なお、コマ番号72には清寿院が書かれています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764880

以上、浪越山=那古野山で名古屋の地名由来は大須にあり、としたいところですが、そうは問屋が卸しません。「尾張名陽図会」の巻五に浪越之舊跡と言う項があり、海水が海から山を越えて滝のようにドバドバと流れ落ち、それが池となって女たちが布をさらしている図が描かれているのです。さらに以下のような記述もありました。

初めの巻に出だせし名古屋という地名の条にあらはせしごとく、名府出来ざる以前太古のいにしへは、東北は大海の由。その波の高くあふれし時は、山の頂を浪の越えし故浪越山と呼ぶ。その後名古野と書きうつり替りて名古屋の文字とすといふ。その浪越の跡は今の建中寺前なる由。ここを越えし波下へ流れて落ち留まりたるが大きなる池となりて、布をさらせし由、今の布が池これなり。布さらし池を略して呼ぶ名なり。その布問屋の家は建中寺水道先の町にて、その跡有りとかや。

「尾張名陽図会」は以下を参照ください。巻5でコマ番号26となります。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1144250

浪越山が名古野に書き移り替わり、名古屋の文字になったとあるので、変遷自体はほぼ酔石亭主の見方通りと言えるでしょう。問題は「尾張名陽図会」に書かれた浪越山の場所です。記事にある建中寺は住所が名古屋市東区筒井1丁目7番地57号となります。布が池に関しては、かつて名古屋城の南東に布池町があり、現在の名古屋市東区葵一丁目、二丁目、代官町あたりに相当します。


位置を示すグーグル地図画像。

右上角の緑の部分が建中寺の門前に当たり、左下角に布池の信号がありかつての布池町の痕跡を残しています。建中寺は当初は現在よりも大きな寺域を誇っていました。詳細は以下のWiki記事を参照ください。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiZv8bT273ZAhUHTbwKHV0yAtIQFggnMAA&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25BB%25BA%25E4%25B8%25AD%25E5%25AF%25BA&usg=AOvVaw0ldi-5__4QnzgfI8HDUg8v

建中寺と布が池は位置的には名古屋城の南東ですから、大須からはかけ離れた場所でした。名古屋の地名由来となった浪越には、大須と旧布池町の二つの候補が出てきたことになり、実に困った事態です。

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デジタル地形図。建中寺前から旧布池町は青で囲った部分に相当します。

もちろん現在は、旧布池町周辺に浪越山や布が池など影も形もありません。家康の命による清洲越しの際、加藤清正に命じて名古屋城下の碁盤割の町割が実施され、山は削られ池は埋め立てられたのです。

さてはて、大須の浪越山、旧布池町の浪越山のどちらが名古屋の地名の元となったのでしょう?浪越山を前提に名古屋の地名由来を検討される方たちは、大抵はここまで来て行き詰るようです。けれども、そこで立ち止まってはいられません。何とか答えを出さなければならないと思います。大須の浪越山、旧布池町の浪越山のどちらが名古屋の地名の元となったのかを確定するには、両者を幾つかの角度から検討する必要があります。詳しくは次回にて…。
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