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大須探訪 その2


今回は大須の浪越山、旧布池町の浪越山のどちらが名古屋の地名由来となったのかを検討します。検討に当たって最初に留意すべきは土地の歴史です。既に書いた荘園の「尾張国那古野荘」は平安時代末期のもので、鎌倉時代末期の「尾張国那古野庄領家職相伝系図」に、建春門院法花堂領尾張国那古野庄と記載されているとのことです。建春門院は平滋子(たいらのしげこ)で、生没年は康治元年(1142年)~ 安元2年(1176年)。後白河天皇の譲位後に妃となっています。以上から、荘園は平安時代末期のものと確認されます。

名古屋の地名の元となる那古野は平安時代末期に出現しました。従って、那古野の名前の成立はさらに時代を遡ると想定されます。波が山を越えるような事態が起きたのは、それがかなり誇張された表現であるにせよ、前回でアップしたデジタル地形図の象の鼻のような形が陸であった時代(弥生時代から古代)にまで遡るはずです。

そうした時代に波が山を越えても、見ている人がいなければ何の意味もありません。古代の浪越山は近くに人家があり、波が山を越えるさまを何人もの人が、特に首長クラスの人が見ている場所との前提が必要条件となるのです。ここで「名古屋市史 地理編」の那古野山に関する記事を以下にアップします。

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那古野山(=浪越山)の記事。

ごちゃごちゃ書かれているので読みづらいと思います。うんと簡単に纏めれば、旧布池町の浪越山(一説に名古屋北部の丘、と書かれた場所)と大須の浪越山(往古今の門前町より古渡に亙れる一帯の丘、と書かれた場所)を比較検討した内容です。

この項の最初には、那古野山は一説に名古屋北部の丘(建中寺から旧布池町一帯付近)、あるいは門前町(大須のこと)より古渡(大須観音から真南に1㎞の辺り)に亙れる一帯の丘で、その地点は一定していないと書かれています。那古野山がどこか特定不能なら、名古屋の地名由来は不詳とせざるを得ません。そうならないよう、まずは旧布池町と大須の歴史を比較検討してみます。

「名古屋市史 地理編」には旧布池町の浪越山に関して、深山で峰を登り、谷を下り、道も危険で人家もまれなところ、とも書かれていました。「尾張名陽図会」の巻五にある浪越之舊跡は古代の歴史など何もなく、清州越しの折に加藤清正が山を削り谷を埋め、今のように高低をなくした土地だったのです。こんなに新しい場所が名古屋の地名由来になるはずがありません。

では大須の浪越山はどうでしょう?「名古屋市史 地理編」はその確実なる証はない、とばっさり切り捨てていますが、一定程度の証は存在します。大須の浪越山は5世紀半ばから後半の古墳でした。そして那古野山古墳は大須古墳群の一つです。6世紀前半築造の大須二子山古墳はWikiによれば、昭和初期の地籍図や敗戦直後の現況図などの資料から、全長138メートル、前方部幅100メートル、後円部直径72メートル、高さ10メートルで、断夫山古墳に次ぐ規模があったとの説もある。とのことです。この一帯には古代に勢力を持った首長がいたとみて間違いありません。と言うことで、前回でもアップしていますが、古墳の位置関係を見ていきます。

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浪越公園解説版の地図部分。那古野山古墳、大須二子山古墳、日出神社古墳が記載あります。


大須二子山古墳の位置を示すグーグル地図画像。今は跡形もありません。

現在の本願寺名古屋別院付近が大須二子山古墳の所在場所となります。

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本願寺名古屋別院。築地本願寺によく似ていますが、重厚感では劣ります。

大須二子山古墳詳細は以下のWiki記事を参照ください。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwinmOqP-7XZAhVBqJQKHbSICGkQFggnMAA&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A4%25A7%25E9%25A0%2588%25E4%25BA%258C%25E5%25AD%2590%25E5%25B1%25B1%25E5%258F%25A4%25E5%25A2%25B3&usg=AOvVaw3mXK6G-qtNsMPDOak-nKbc


日出神社古墳の位置を示すグーグル地図画像。

以上から、大須周辺には古代の歴史が積み重なっており、首長クラスがいた場所だったと理解されます。大須と旧布池町の両者を歴史の側面から比較した場合、波が山を越した浪越山=那古野山は大須にあると思われ、大須が名古屋の地名の元になった可能性が高くなりました。そうは言っても、歴史の視点からの検証だけでは不十分なので、次に地理的な条件から考えてみます。デジタル地形図を再度参照ください。

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デジタル地形図。

赤で囲った大須は古代においては海に近接した場所だったと推定され、推定海岸線からおよそ700mの距離にあります。一方、青で囲った旧布池町は古代の推定海岸線から2.5㎞も内陸に入った場所となります。そんな場所まで波が押し寄せるでしょうか?700mと2.5㎞で単純比較しても、どちらの可能性が高いかは語るまでもないでしょう。また、大須(大きな洲があった場所)周辺には上前津や松原と言った海に関連する地名が現在も残りますが、旧布池町付近には何もありません。

以上、大須と旧布池町の比較においては大須に軍配が上がることになりそうです。けれども、これはあくまで両者の比較においての話。果たして700m内陸にある大須まで波が押し寄せて来るでしょうか?さらに、清寿院の図を「尾張名所図会」で見ると、背後にはかなり高い山が描かれています。

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尾張名所図会。

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浪越公園の解説版拡大図。

解説版は尾張名所図会とほぼ同じですが、那古野山古墳を青い色で描いています。海から700mで、背後に山(「尾張名所図会」では庚申山と記載ある)を控えた浪越山(古墳)にまで本当に海水が押し寄せたのか?この疑問に答えない限り、大須の浪越山が名古屋の地名由来の地と特定することはできません。と言うことで、厄介極まりない難問を検討してみましょう。まず一帯の全体構図から見ていきます。


大須を示すグーグル地図画像。西の堀川、東の新堀川は画像の端ギリギリなので拡大してご覧ください。

大須観音の北側に若宮大通があり東西に走っています。南側が大須通でこれも東西に走っています。そして大須観音の西側には伏見通が南北に走り、伏見通の西に堀川があって、古代には堀川から西が海となっていました。従って、現在の若宮大通、大須通、伏見通、堀川に囲まれた一帯が大きな洲(大洲)となります。一方、現在の名古屋市中区大須の範囲は、西が堀川、北が若宮大通、南が大須通、東が新堀川に挟まれた地域となります。名古屋市は道路が広いおかげで、比較的わかりやすい構図となっていますね。

地図画像には地下鉄上前津の駅が出ており、その辺りから東側はやや低くなっています。

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東側が低くなっていることを示す写真。

東側が低くなっているのはそのさらに東に新堀川が流れているからで、かつての川の名前は精進川となっていました。精進川の名前は熱田神宮の社人が名越の祓において禊をしたことに由来します。またこの川は頻繁に洪水・氾濫を引き起こしたため、人々は川の治水に頭を痛めたとのこと。

次の写真は伏見通と大須通の交差点(西大須交差点)に立って西側を撮影したものです。西に向かってかなり低くなっているとわかります。

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それを示す写真。

これらから、「名古屋市史 地理編」に書かれていたように、大須観音から古渡に至る一帯は丘になっていたと確認されます。続いて、大須通を堀川に向かって西に進みましょう。西大須交差点と堀川のほぼ中間点、向かって右側に白山神社が鎮座していました。神社手前の右手に伸びる道を撮影してみます。


白山神社の位置を示すグーグル地図画像。

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神社手前の右手に伸びる道。上り坂になっていました。

大須通をさらに西に向かい、今度は通りの左手に伸びる道を撮影します。

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通りの左手の道。

かなりの急坂となっていました。続いて堀川に架かる橋の手前から西側を撮影します。

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堀川に架かる橋の手前から西側を撮影。

橋の先でぐっと低くなっています。古代は海だったのですからそれも当然ですね。以上を総合すると見えてくるものがあります。そう、大須通は谷のような地形の底を開削して造られていたから、道の左右が高くなっていたのです。

大須通は広い道路ですが、古代にはもっと狭いⅤ字の谷だったと推定されます。ここで伊勢湾に津波が襲ったと仮定してみましょう。Ⅴ字地形の谷の場合、奥に進むに従って狭くなっているはずです。そうすると、津波が狭い地形内に殺到し、非常に高い位置にまで押し寄せてきます。過去の例では、三陸海岸を襲った津波(明治三陸地震)が陸の斜面を38mの高度まで遡上した記録があります。三陸海岸の例をそのまま伊勢湾に適用はできませんが、いずれにしてもこの地を襲った大波は山を越し(実際には脇から侵入して)大須の丘(古墳)は浪越山と称せられるようになったのです。

なお、大須の西側を流れる旧精進川の氾濫も一役買った可能性はありますが、この氾濫は多分もっと下流に当たる現在の瑞穂区一帯で頻発していたと想定され、那古野古墳にまで到達する可能性はかなり小さいと思われます。

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デジタル地形図。

もう一度このデジタル地形図をよく見てください。赤い囲いの南西が谷となっており、ここが大須通にほぼ相当します。さてそこで、下のグーグル地図画像を参照ください。


グーグル地図画像。

若宮大通が堀川差し掛かる右手前に洲崎神社が鎮座しています。そしてデジタル地形図を見ると大須通の北側にある若宮大通も谷のような地形になっていると理解されます。

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洲崎神社です。

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解説版。

昔は海に面した洲崎にご鎮座の社という。とあります。洲崎があるのだからその背後は大きな洲があったと考えられませんか?丘の上に位置する大須観音から西側の、南北(現在の大須通と若宮大通)谷に挟まれた一帯は広大な洲(大洲)だったのです。そして、北側の谷(若宮大通)のすぐ北側の海に面した先端部分(岬)には洲崎神社が鎮座していました。(注:厳密には北側の谷(若宮大通)の南に鎮座していてほしかったところです)

けれども、デジタル地形図に見られる南北の谷は、道路建設(あるいはそれ以前の道)で開削されたので低くなった可能性も否定はできません。この問題を解決したいので、尾張名所図会をチェックすることに…。すると、「尾張名所図会 前編巻2愛智郡」の天王嵜天王社(洲崎神社)の項に神社脇が狭い谷筋となって川が流れている絵図がありました。絵図は以下のコマ番号28で参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764881

大須通側の絵図はなさそうですが、若宮大通から類推すればやはり谷筋に川が流れていたと推定されます。以上から、大須の西側で南北を谷に挟まれた一帯は、地名は存在していなくても大きな洲であったとほぼ確認されます。

羽島市の大須にある真福寺の一院・宝生院の移転先は名古屋の大きな洲に面した場所でした。大須と大洲、意味は同じだから移転元の地名である大須を採って大須観音と称されるようになり、大須の地名が成立したと推定されます。

そして大須は大きな古墳が築造された古代の重要な場所であり、名古屋の地名の元となる浪越山=那古野山の所在地だったのです。家康も尾張国中島郡長岡庄大須に所在した真福寺の一院・宝生院を、国宝・「真福寺本古事記」に見合う古い歴史の地・大須に移転させるべきと考えたのかもしれません。もちろんこれらの見方は酔石亭主の独断に過ぎず、その正しさは保証の限りではありませんが…。

以上、大須と名古屋の地名由来で面白い頭の体操ができました。大須や大須観音のご紹介は次回以降とします。
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