大須探訪 その12


今回は大須観音の北側に行ってみます。


一帯の地図画像。

この地図画像には北野神社、大光院、陽秀院とあるので順次見ていきましょう。まずは北野神社から…。

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北野神社です。画像サイズを大きくしています。

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本殿は祠レベルの規模となっています。かつては大須観音の境内に鎮座していました。

大した由緒もなさそうに思えますが、「その10」にてアップした大須観音略縁起を参照ください。1324年に後醍醐天皇が岐阜県羽島市大須に北野天満宮を造営し、1333年に天皇は能信上人をその別当職に補し、「北野山真福寺寶生院」と言う寺号を賜りました、とあります。要するに北野天満宮の別当寺として開創されたのが真福寺(現在の大須観音)となるのです。そして、真福寺と同時期に大須に遷座したのがこの北野神社でした。

別当寺とは、神仏習合時代に、神社を管理するために置かれた寺を意味します。従って、本来なら北野神社が主であり大須観音が従のはずですが、逆転してしまったことになります。家康の時代は神社ではなくお寺が大事だったのでしょうか?ともあれ、現状は大須観音が主で北野神社は小さな祠に過ぎなくなっています。

ところで、後醍醐天皇が北野天満宮を造営させた正中元年(1324年)は、天皇が鎌倉幕府の打倒を企て、それが発覚して、六波羅探題により天皇の側近が処分された年。いわゆる正中の変ですね。なぜこんな時期に現在の羽島市に造営させたのかよく理解できません。

大須観音の前身となる北野山真福寺寶生院を開創させた1333年も問題のある年です。その前年の正慶元年(1332年)に天皇は隠岐島に流されています。翌年の元弘3年(正慶2年、1333年)、後醍醐天皇は名和一族を頼って隠岐島から脱出し、挙兵しました。鎌倉幕府は天皇を追討するため足利高氏(尊氏)を派遣しますが、彼は寝返って天皇側につき六波羅探題を攻め落とします。東国では新田義貞が稲村ケ崎を越えて鎌倉に侵攻し北条氏は滅亡、鎌倉時代は終焉を迎えることとなったのです。

こんな混乱を極めた時期に、能信上人をその別当職に補し、「北野山真福寺寶生院」と言う寺号を賜ったなど、あまりにものどかすぎる話です。疑問は尽きませんね。それはさて置き、北野神社周辺はかつての遊郭・北野新地があった場所で、北野神社の玉垣を見ると「本家 長寿樓」などと刻まれており、当時の繁栄ぶりが見て取れます。(注:最初の写真のポールを支える両玉垣にうっすらと見えています)

けれども現在では、遊郭の痕跡はほとんど見られません。それもそのはずで、北野新地は大正時代に名古屋市中村区に移転して、中村遊郭となったのです。中村遊郭の跡地は以前にもご紹介しており、遊郭だった雰囲気を何とか残しています。

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境内のお稲荷さん。

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長屋建築の裏側を撮影。この辺りも遊郭の跡地だったのかも…。
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