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鎌倉の始祖染屋太郎大夫時忠 その2

頼朝以前の鎌倉
09 /23 2010

以前、「歴史の宝庫 本郷台周辺を巡る」(6月26日)で白山神社について書きました。現在の本郷台近くに創建された白山神社は、正中元年(1324年)あるいは至徳元年(1384年)に、八軒八戸に遷座し、昭和51年に東上郷町に移されています。そこで、白山神社と関連する事項を見ていきましょう。

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八軒八戸にある昇竜橋です。

横浜最古の石橋とされ、白山神社が八軒八戸に鎮座していた当時の参道となっていました。

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橋の解説板。場所は文教堂の裏手なのでわかりやすいと思います。

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旧白山神社への石段。石段を上がると平地があるのですが、鬼気迫る雰囲気があります。

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平地からまた石段があります。この上が本殿だったのかも。

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現在の白山神社。

現在の白山神社は昇竜橋のある八軒谷戸を新興住宅街に向かって進んだ奥に鎮座しています。新たな社殿はコンクリートの建物となって、歴史の味わいに欠けるようです。住宅地の中にあり場所はややわかりにくい。

酔石亭主が気になったのは、旧白山神社の近くに長者ケ久保という地名があることです。「新編相模国風土記稿」によれば、いたち川に関連して「一は東南長者ケ窪より出、下川と呼ぶ」と記されています。

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長者ケ久保に向かう木橋です。

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小さな耕地もありました。谷全体がかなりおどろおどろしい雰囲気。

場所は非常にわかりにくいのですが、森の家バス停と上郷バス停の中間にあるENEOS横の細い下り道の先が長者ケ久保です。


大きな地図で見る
一帯のグーグル地図画像。

23号線の印の下のガソリンスタンドマーク下が長者ケ久保で、老人ホームクロスのスの横が昇竜橋と旧白山神社、庄戸中(実際は庄戸小)の左の道を北に進み、東にカーブするところで左折してすぐの場所が現在の白山神社です。なおグーグル地図を拡大して見ると、鎌倉の十二所との境界付近に長者ケ久保一号緑地という記載があります。

本郷地区の昔話によれば、長者ケ窪(久保)には「長者」と呼ばれる大金持ちが住んでいたとのこと。こんな場所に長者がいたとは信じられませんが、それはさておき長者というからには、産業振興、交易あるいは農業によって莫大な富を得た人物のはずですね。

下川は柏尾川の支流いたち川の上流部に当たるのですが、疑問に思ったのは、長者と呼ばれるにふさわしい耕作地や、産業振興の場所もない山の谷間でどのようにして長者になれたのか、という点です。

そこまで考えて、ハッと閃きました。前回で見たように、長者久保は甘縄神明神社を創建した染屋太郎大夫時忠の居住地ではありませんか。時忠は由井の長者と呼ばれていました。でも、どうして彼は長者になったのでしょう?唯一考えられる理由は、稲村ケ崎の砂鉄です。しかも、そこには白山神社が鎮座しているのです。

翻って、上郷町の長者ケ久保はどうでしょう?「歴史の宝庫 本郷台周辺を巡る」で書いたように、すぐ近くには上郷深田製鉄遺跡がありました。

地名が同じで、産鉄が共通し、白山神社も共通するとなれば、上郷町における長者ケ久保の長者とは時忠を意味しているはずです。それをさらに裏付けるかのように、現在の白山神社鎮座地の背後にある瀬上市民の森にも、秦野と同じ漆窪と言う地名が見られます。

俄然話が面白くなってきました。染屋太郎大夫時忠は秦野、鎌倉の由井、横浜市栄区上郷の三カ所に拠点を持っていたと思われるからです。しかも、秦野の漆窪に近い曽屋には白山神社が鎮座しています。

以上を纏めると、染屋太郎大夫時忠と秦氏、白山神社はセットになっていると判断されます。(当初の白山神社は秦川勝が創建した仙福寺の近くに鎮座しており、由井里の白山神社を結ぶラインは鎌倉の鬼門ラインに当たっていました)

一点気になったのは、上記したいずれの地域も、いわゆる被差別との関連が窺えることです。つまり、神奈川においては染屋太郎大夫時忠と秦氏、白山神社、被差別がセットになっているのです。

被差別民は鎌倉において重要な役割を果たしています。例えば、極楽寺の長吏(被差別民の頭)は鶴岡八幡宮の例大祭において、行列の先導役を務め、現在御霊神社の祭礼として催される「面掛行列(昭和の初めまで非人行列とも呼ばれた)」も、当時は鶴岡八幡宮の例大祭において行われていました。彼らは鎌倉幕府の創始者である源頼朝と関係が深かったことから、このような立場を得たものと思われます。

これらから、秦氏と時忠はどんな関係にあったのか、時忠は鎌倉の創始者であるだけでなく被差別の発生にも関与していたのではないかなど、新たな疑問が湧き上がってきます。

染屋太郎大夫時忠は別名漆屋でもあることから、漆塗りを生業とする一族の出かと思われますが、彼の時点では産鉄の特殊技能集団を配下においていたと想定され、ここから秦氏との関連が出てきたものと推測されます。

時忠と被差別との関係は、資料がないため読み解くのは難しそうです。時忠というより、秦氏と産鉄系特殊技能集団、白山神社が被差別に連結するルートとなっているような気もします。いずれにせよ、鎌倉の創始者である染屋太郎大夫時忠の背後には、深い謎と闇が広がっていたのです。

ちなみに長者窪、長者久保といった地名は、なぜか青森、秋田、福島、群馬など東北地方に多く見られます。時忠が東北方面に関与していた可能性も浮上してきますね。


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酔石亭主

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