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員弁川石


今回からまた員弁川石をアップしていきます。川の水量が比較的少なく下草も枯れた冬から春にかけて探石したもので、地元の方と交換した石も含みます。員弁川石ばかりなのは、この川へ行くのに40分もあれば十分なこと、行けば他の探石地と異なり何らかの成果が得られることなどが理由として挙げられます。けれども、それだけではありません。員弁と言う名前にも深い歴史が秘められており、興味をそそられるからです。そうした部分を少し書いてみましょう。

員弁(いなべ)川の員弁は、摂津国(現在の兵庫県)の猪名川一帯に居住していた渡来氏族・猪名部(いなべ)氏に由来しています。「日本書紀」の応神31年8月条によれば、武庫水門(むこのみなと、尼崎市)に朝廷の船が多数停泊していたところ新羅の船から出火。朝廷の船の多くを焼いたため、新羅の王はお詫びに、自分たちの優れた匠を派遣し、この匠一族が猪名部の祖になったとのことです。武庫水門は神崎川と武庫川の河口にあり、神崎川の上流が猪名川となっています。彼らは猪名の地名を取って猪名部氏を称したものと思われます。

猪名部氏は300年台の終わりから400年代の初めころに渡来し、大和を経由してこの地に移住しました。当地に鎮座する猪名部神社境内の古墳は6世紀頃のものとされるので、少なくともそれ以前の段階で猪名部氏は当地に移住したことになりそうです。そして、第43代元明天皇の和銅6年(713年)、勅命により猪名部の表記を員弁に変え、それが員弁の地名となったのです。員弁の地名が長い歴史を経たものであると理解されますね。

猪名部神社の祭神は伊香我色男命で猪名部氏の祖神とされ、饒速日命の六世孫に当たるので、彼らは物部氏系のように見えます。猪名部氏の祖を伊香我色男命とするのは、「新撰姓氏録」の記載によるものであり、一方「日本書紀」によれば、猪名部氏は新羅からの渡来人で応神天皇期に渡来したことになり、物部氏とは関係なさそうです。

では、どうして猪名部氏は物部氏と関連付けられたのでしょう?「日本書紀」雄略天皇12年10月条には木工技術者の闘鶏御田(つげのみた、注:猪名部御田とも言うが「日本書紀」はこれを誤りとしている)を物部に授けたとの記述がありました。続く雄略天皇13年9月条によれば、木工韋那部真根(いなべのまね)を物部に預けた(注:詳細は後で書きます)とあり、猪名部氏を管掌していたのが物部氏だったことから、祖神が物部氏系の伊香我色男命になったと考えられます。

以上から員弁の地名は、物部氏の配下となった猪名部氏に由来していたと理解されます。これはこれで奥深い歴史と言えそうですが、酔石亭主としては猪名部氏の背後の秦氏の影がちらつく点に注目したいと思います。そうした側面をいくつか挙げてみましょう。猪名部氏は優れた船大工・木工技術者であり新羅渡来の特殊技能集団でした。秦氏は機織りや木工、金属、鉱山などの各種特殊技能者集団を統括する一族でもあり、その意味では猪名部氏との関係が出てきてもおかしくはありません。

猪名部氏は応神天皇期に渡来していますが、秦氏も同じ時期となります。猪名川は摂津国の豊島郡と川辺郡の境を流れており、豊島郡には秦氏が多くいました。猪名部神社の鎮座地は三重県員弁郡東員町ですが、東員町(特に字長深)には「秦さんはどこにいる」シリーズで書いたように秦氏が多く居住しています。


いなべ市と東員町の位置を示すグーグル地図画像。

例えば、七代目松本幸四郎は、明治3年(1870)大長村字長深で土木業をしていた秦専治、母りょうの三男です。長深には造船に関係する舟連(注:彼らは多氏系とされ、船の建造よりも、それに関係する税務などを司っていた模様)もいたようで、近年に建てられた舟連の碑近くには、船山や船塚という名が残っているとのこと。

雄略天皇の12年に天皇は木工技術者である闘鶏御田に命じて初めて楼閣を造らせました。御田は楼に登り、飛ぶような速さで仕事をします。伊勢の采女は楼上を疾走する御田の姿に驚き、庭に倒れて捧げ物をひっくり返します。天皇は御田がその采女を犯したと誤解し、彼を処刑しようとしました。この時天皇のそばに侍っていた秦酒公は、琴歌で御田の無実を歌い、天皇を諫め、御田は許されたのです。

「日本書紀」には、一本には闘鶏御田は猪名部御田と言うがこれは誤りだろうと書かれています。けれども木工は猪名部氏の専門分野であり、秦酒公が天皇の不興を買う危険を冒してまで歌で諫めたのは、御田が自分に関係する人物であるからと考えた方が筋は通ります。なおその翌年には木工韋那部真根に関して御田と似たパターンの話が見られます。

木工の韋那部真根は石を台にして手斧で材木を削りますが、一日中削っても斧を石に当て刃を傷つけることはありませんでした。天皇はそれを不思議に思い、誤って斧を石に当てることはないかと問い、真根は決してありませんと答えます。信じられない天皇は采女を呼び集めて裸にして褌を付けさせ、真根が見える場所で相撲を取らせました。それを見た真根は手を誤って刃を傷つけてしまいます。

天皇はそれみたことかと責め立て、物部に真根の身柄を預け処刑することにしました。真根の仲間の木工たちは嘆き悲しみ、韋那部の工匠がいなければ誰ができるのかと歌を歌います。それを聞いた天皇は優れた人材を失うところだったと反省し、処刑中止の使いを出したため、真根は助かりました。上記した二つの話のパターンは全く同じで、しかも木工技術者に関連するものです。真根の同僚大工の中に秦氏系の人物がいて歌を歌ったのかもしれませんね。なお、大和岩男氏は「古代信濃史考」(大和書房)の中で、猪名部氏に関し秦氏系氏族と記載しています。

話は変わりますが、つい最近、相撲は神事だから土俵上は女人禁制だという話がずいぶん議論になりました。けれども、天皇の命により女相撲を取らせているのですから、女人禁制はおかしいですね。また、垂仁天皇の命により野見宿禰と当麻蹴速が角力を取ったことが相撲の始まりとされています。

この場合の相撲は決闘のようなもので、当麻蹴速は腰を踏み折られて負け、命を落としてしまいました。史料を見る限りでは、相撲は神事ではなく、神事だから女人禁制は当たらないような気がします。(注:地方の相撲では神事としての相撲も見られます)土俵の上の四隅の房や相撲の所作は確かに神事と言えるものではありますが、では神事とする根拠はどこにあるのか知りたいところです。

それはさて置き、以上のように、猪名部氏は物部氏だけでなく秦氏が関係しているように見えるのも面白い点です。猪名部氏と秦氏の関係はそれだけではありません。両氏は東員町では隣組のような関係ですが、他地域でも同様でした。

例えば、愛知県における秦姓は豊川市と豊橋市に集中しており、豊川市小坂井町に鎮座する莵足神社は秦石勝の創建とされています。そして小坂井町のお隣が伊奈町となっており、伊奈は猪名で猪名部氏の痕跡が地名に見られます。猪名部氏は豊川を遡り佐久間ダムのある辺りで天竜川の流れる伊那に入りました。伊那も猪名で猪名部氏に関係しています。そして、下伊那郡の泰阜村は秦姓の多い地域です。泰阜村の北に位置する飯田市にも秦姓が多く、これは15世紀に京都から移住した秦氏が居住したとされています。

時代的な違いはあるかもしれませんが、なぜか猪名部氏と秦氏は所在地が隣接しているのです。これらに関しても大和岩雄氏の「信濃古代史考」(大和書房)に詳しいので参照ください。酔石亭主が探石する員弁川はこのように猪名部氏と秦氏の姿が見える場所なので、水石のみならず古代史の面でも面白い場所だったのです。と言うことで、昨年末から今年の春にかけて探石した員弁川石をアップしていきます。どの石もうまく撮影できていない点は平にご容赦ください。

DSCN3196_convert_20180506064938.jpg
員弁川石。画像サイズを大きくしています。

いかにも員弁川石らしい錆のあるジャクレです。左右35㎝の大物でかなり重く、河原から車にまで運ぶのは苦労しました。色がやや薄く大きいので水石にはならず、庭置き用としています。

DSCN3146_convert_20180506065012.jpg
水濡れ画像。
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