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邪馬台国はどこにある その3


前回までの検討により、邪馬台国と女王国は別の国で、邪馬台国と投馬国は北九州に存在しなかったと確認されました。ではなぜ、邪馬台国の位置に関して北九州説、畿内説の両者で常に論争となっているのでしょう?畿内説論者の場合、そこが大和王権の発祥地であり、後年に続々と巨大古墳が築造された場所であり、大和と音も同じような邪馬台国は畿内にあるべきだと考えます。

北九州説論者は、いやいや邪馬台国の中心となる博多湾岸からは銅矛や銅剣、銅鏡、勾玉など三種の神器に相当する遺物や鉄器、絹などが大量に出土している。ところが大和からはほとんど何も出土していない。そんな何もないところに日本の中枢はない。当時の日本の中枢は北九州の邪馬台国で、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝が九州にあったと主張しています。要するに、邪馬台国の位置に関してはどちらの説も王権(王朝)の問題にリンクさせているのです。

両者の議論が大和王権なのか九州王朝なのかに関わってくるので、どちらも引っ込みがつかない状態となっていますが、頭を冷やしてよく考えれば、ある国の位置を決めるのに王権や王朝は本来何の関係もありません。「魏志倭人伝」の記述を参考に、その位置がどこかを単純に考察すればいいのですから、決して難しいものではないはずです。北九州説、畿内説の争いを平たく言えば、偉いのはこちらだと小さなコップの中で争っているだけの話で、滑稽な感さえあります。

ただ、邪馬台国と投馬国の方位や所要日数などには錯誤もありそうなので、唯一ほぼ正しいと思われる戸数に古墳の規模を絡めて考えるべきでしょう。邪馬台国と投馬国は北九州にはなかった。けれどもこれまでの論証だけでは依然として不十分なので、5万戸を擁する投馬国、7万戸を擁する邪馬台国はどこにあったのかを、各国の戸数と古墳の規模から検討していきます。

と言うことで、狗邪韓国と各島を除く北九州の人口を再度書き込みます。末盧国は4千戸で1万2千人。伊都国は千戸で3千人。奴国は2万戸で6万人。不弥国は千家で3千人。女王国は不明。合計で戸数が2万6千戸、人口が7万8千人となります。戸数、道里が不明な22国は一国3千人として6万6千人で、北九州の総計が4万8千戸、14万4千人となります。北九州には、例えば遠賀川流域にも遠賀川式土器に代表される古い歴史があり、一定の人口はあると思いますが、22国に含まれるとしておきます。上記の場合、日本の総人口60万人に対し24%、百万人に対しては14.4%ですから、一応納得感のある比率となります。

北九州の14万4千人に対し投馬国(=吉備)が5万戸で15万人、邪馬台国(=大和)が7万戸で21万人となります。従って、人口規模としては北九州が一番小さくなりますが、北九州と吉備を比較した場合は大差なく、ほぼ同じと言えそうです。では、この人口規模と古墳の規模が見合うものかどうかを見ていきましょう。

大和(畿内地域)の場合、卑弥呼の時代から20年程度後の270年頃に箸墓古墳が築造され、墳丘長は278mで最古の巨大前方後円墳となります。これだけの古墳を築造できるのは強大な権力(実態的には大きな動員力)を持った首長以外にありません。その後大和では超巨大古墳が続々と築造されていきます。従って、巨大古墳築造に見合う動員が可能な地域は7万戸を擁する邪馬台国(=大和)しかないでしょう。

吉備の場合、岡山県岡山市東区浦間に古代吉備最古の大型前方後円墳の一つである浦間茶臼山古墳があり、古墳時代前期の3世紀末に築造されたと考えられ、全長は約138mです。同じく古墳時代前期に中山茶臼山古墳が築造されており、墳丘長は105mとなります。時代は下りますが造山古墳は墳丘長が360mもあり、全国で見ても第4位に位置する巨大さです。こうした背景から5万戸と書かれた投馬国に該当するのは吉備しかなさそうに思えます。

北九州の場合、福岡県福岡市博多区の那珂八幡古墳(なかはちまんこふん)は古墳時代前期で福岡平野最古の前方後円墳となり、全長は75m。福岡県京都郡苅田町の石塚山古墳は古墳時代前期の前方後円墳で墳丘長120mとなっています。吉備よりは少し小さめですが大差はなさそうです。

いかがでしょう。北九州、投馬国、邪馬台国の戸数は明らかに古墳の規模と連動していますね。ここから、投馬国が吉備で邪馬台国が大和(畿内地域)だったと確認できたことになります。ただ酔石亭主としては、大和王権が古代初期以降の日本における唯一の政権だったなどと言うつもりは全くありません。古代初期の日本においては大和勢力や吉備勢力、北九州勢力などがあり、それらは時代によって消長・変遷があると表現するのが妥当なところでしょう。

続いて出土物を簡単に見ていきましょう。古田氏は「ここに古代王朝ありき」の第2章 「倭都の痕跡」の中で、銅鏡の出土を取り上げます。古田氏によれば、日本において大量に出土する銅鏡は二種類しかなく、「漢鏡」と「三角縁神獣鏡」があり、「漢鏡」はほとんどが福岡県(特に筑前中域)から出土し、「三角縁神獣鏡」は近畿が中心であることは疑いがない。従って、銅鏡の問題一つ取り上げても、可能性のある領域は上記の二つしかないとします。

次に古田氏は銅矛を取り上げ、この出土は筑前中域しかない、この事実からだけでも卑弥呼の居城は筑前中域になるとしています。さらに鉄製の武器で見ると、近畿が2、九州は83で九州に圧倒的に多く、特に九州北岸の領域に多いとされています。これらから同氏は、権力の中枢は大和ではなく北九州にあり、九州王朝説を唱え、邪馬台国は北九州にあったとされるのです。

けれども、当時の国の勢力は生産力と動員力が中心になるものであり、三種の神器の数の多さは大陸や半島の先進文化を受け入れる窓口としての重要性が主であり、地域勢力の規模を示したものではないと思われます。もちろん、北九州の範囲においては、三種の神器が集中する筑前中域に権力の中枢があったと考えてもおかしくはありませんが……。

ではなぜ北九州に銅矛や銅剣、鉄製の武器類の出土が圧倒的に多いのでしょう?理由は簡単。「魏志倭人伝」に「旧百余国」と書かれているように、小国が乱立していた北九州は争いが絶えず、銅矛や銅剣の出土が多くなるのは当然の話です。その結果、既に見てきたように、大きな政治勢力や大規模古墳を生み出せなかったのです。大和に銅剣や銅矛の出土が少ないのは、それだけ平和な地域だったからと言えるかもしれず、だからこそ戦乱を嫌う北九州勢力の一部は大和に移住したと推測されます。

以上の検討で、投馬国が吉備、邪馬台国が大和(畿内地方)である点に一定の答えが得られました。それにしても、なぜ邪馬台国が北九州にあるとの誤解を生んでしまったのでしょう?それは「魏志倭人伝」の書き方(書く順番)に問題があったのです。問題があるなら、いつものように問題のない書き順に再構成すればいいはず。と言うことで、邪馬台国に関して北九州にあると誤解された原因を「魏志倭人伝」の記述から探り、次回で筋の通るように再構成してみます。

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