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邪馬台国はどこにある その4


今回は邪馬台国が北九州にあると誤解された原因を「魏志倭人伝」の記述から探ります。そのために「魏志倭人伝」より以下の部分を抜粋しました。(注:Wikiより引用)

郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。千戸余り。又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。三千許りの家有り。又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。東南陸行。五百里。伊都国に到る。千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。東南、奴国に至る。百里。二万余戸有り。東行、不弥国に至る。百里。千余家有り。

南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。

女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り…(多くの国名が続く)…次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。

その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。


使節が郡(帯方郡、現在のソウル近辺)から出発し、不弥国に至るまでは里数で書かれています。整理すれば以下の通り。

帯方郡→南東水行七千余里→狗邪韓国→千余里→対馬国(対馬)→千余里→一大国(壱岐)→千余里→末廬国(唐津市)→東南五百里→伊都国(糸島市)→東南百里→奴国(博多付近、春日市)→東百里→不弥国(宇美町或いは飯塚市その他諸説あり、古田氏は博多の姪浜辺りとする)。
(注:一里は短里で間違いないと思われ約77m。帯方郡より不弥国までの合計里数は一万七百里。帯方郡より女王国までが一万二千里となっている。それぞれの国の所在地には諸説あるが、一般的なもので記載)

各国の位置がどこであるにせよ、末廬国から不弥国までは北九州で、海岸線乃至は少し内陸にあると理解されます。問題は不弥国の次に全く唐突な感じで「南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。」との文面が入っていることです。

最初に「魏志倭人伝」を見た際、この部分に大きな違和感を覚えました。多分、不弥国までとその後の文面に全く繋がりがないと直感したからでしょう。それはさて置き、取り敢えず「魏志倭人伝」の記述に沿って検討を進めます。

不弥国は、正確な位置は別として北九州の海岸線乃至は少し内陸にあるはずですから、そこから南に20日間も航海すべき海はなく、投馬国に到達するのは不可能となります。方位の間違いは有り得るので北に20日間としても、北では元に戻るような話になってしまい、どうにも辻褄が合いません。不弥国を宇美町や飯塚市とした場合、東や西に海はなく、古田氏の姪浜とした場合でも西は来たルートを戻る形になって有り得ません。姪浜の場合で残る唯一の可能性は東ですが、博多湾は北に向かって開いた湾なのでやはり難しそうです。大雑把な東としても、出発地から東に海が開けている必要があるでしょう。

古田氏は最終行程ゼロの論理から不弥国と邪馬台国は隣接しているとされています。けれども、「魏志倭人伝」において不弥国の次に来るのは投馬国ですから、不弥国に邪馬台国が隣接することにはならず、同氏の論はここで破綻してしまいます。いずれにしても、邪馬台国が北九州に存在し得ない点は既に論証していますので、「魏志倭人伝」の記述にそのまま従って検討すれば完全に行き詰ってしまうのは避けられません。

この行き詰りを打開するには、不弥国の次に「南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。」の記事は入らないとすべきです。言い換えれば、「魏志倭人伝」の書いた順番が間違っていたのです。

さらに、不弥国までの行程は里数表示となっているのに、投馬国と邪馬台国までの行程は日数表示となっており、これは倭人などからの伝聞情報となります。従って、両国は郡の使節が足を踏み入れていない遠方と理解されます。古田氏の主張するように邪馬台国が博多湾岸に所在するなら(或いは少し内陸部でも)、使節は当然行っているでしょうし、邪馬台国までの行程距離は言うまでもなく里数で表示されるはずです。なのに「魏志倭人伝」は日数で表示しており使節は行っていないのですから、同氏の邪馬台国は博多湾岸にあるとする主張と「魏志倭人伝」の記述は全く噛み合いません。

「魏志倭人伝」で邪馬台国の部分の次に来る文章は、「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り…(多くの国名が続く)…次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。

その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。
」となります。

最初の部分の記事から女王国の以北に末盧国、伊都国、奴国、不弥国があると推論できます。またこの記事から、北と言っても北東から北西まで含み得る大雑把な北である点が確認されます。ただ、北が大雑把なものだとしても、例えば使節が最初に上陸する末廬国から次の伊都国までは40㎞近く離れており、伊都国から奴国、奴国から不弥国まではいずれも7.7㎞程度なので、実際的に女王国の北と言い得るのは伊都国、奴国、不弥国の3国となりそうです。3国のうちどれが女王国に最も近い位置にあるのかは、帯方郡の使節が往来して常駐する所と書かれた伊都国のようにも思えますが、次回であれこれ検討してみます。

次に、最後の部分の記事で郡(帯方郡)より女王国が一万二千里程度との記述が出てきました。従って、伊都国(糸島市)、奴国(博多付近、春日市)、不弥国(宇美町、飯塚市及びその他諸説あり、古田氏は博多の姪浜辺りとする)の南(南東、南西なども含み得る大雑把な南)、千三百里に卑弥呼の女王国が位置していることになります。千三百里は帯方郡から女王国までの総距離・一万二千里から不弥国までの距離・一万七百里を差し引いたもので、約100㎞となります。

問題は近接している伊都国、奴国、不弥国の3国から女王国まで100㎞程度もの距離があり、女王国が各国を統制するのに遠過ぎる点です。

上記の問題に関連して、「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも」の記事には注目すべき内容が含まれていました。それは、女王国と戸数、道里が書かれた3国の間に、戸数、道里が書かれていない他の国々が入っていないと理解される点です。逆に言えば、女王国はその北側にある3国のいずれかと近接(或いは隣接)していることになります。

さて困りましたね。距離で見ると3国から女王国までは100㎞も離れており、位置を示す記事から判断すれば、女王国より北側の3国は女王国に近接していることになって、「魏志倭人伝」に書かれた内容自体が大きな矛盾を孕んでいるのです。非常に厄介な部分ですが、この問題は後の回で考えてみましょう。

以上、「魏志倭人伝」における最も大きな問題は、不弥国の次に方位は南で距離も遠い投馬国、邪馬台国が入り、しかも距離は里数ではなく日数で表されている点だと理解されます。不弥国の次がうまく繋がらないから、誰もが混乱し幾つもの説が無理やり作られて、現代に至っても邪馬台国論争が決着しないのです。

また不弥国から女王国まで約100㎞もある点もかなり不都合な話です。さらに邪馬台国までは、九州に上陸してからの距離との前提で「魏志倭人伝」の記述に従うと、水行で合計30日、陸行で一か月も必要となり、九州からはるかに遠い場所になってしまいます。と言うか、水行で30日かかり、陸行でも一か月かかるような場所は、細長い日本列島の畿内までの範囲内に存在し得ず、明らかに「魏志倭人伝」の記述に誤りがあることになります。いずれにせよ、これらの矛盾点をクリアしない限り答えは出せません。

最初に書いたように、史料や論考に矛盾があるのなら、矛盾がないように再構成すれば真相に迫れます。ではどう再構成すればいいのでしょう?例えば、「南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。」は後から挿入された文章だと仮定します。後からの意味は時代も含み、卑弥呼よりも遅い時代の情報が行程記事の中に後から誤って挿入されたので、どうしようもない矛盾が出てきたと考えたらどうでしょうか?

その前提で「魏志倭人伝」の記事を再構成するなら、投馬国と邪馬台国の記事は一旦外すことになります。そして不弥国の次に、「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、云々」を入れた形で再構成してみます。

郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。千戸余り。又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。三千許りの家有り。又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。東南陸行。五百里。伊都国に到る。千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。東南、奴国に至る。百里。二万余戸有り。東行、不弥国に至る。百里。千余家有り。

女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り…(多くの国名が続く)…次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。

その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。

南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。


このように順番を変えれば、うんとすっきりしてきませんか?前後が意味も含めてきちんと繋がりますね。なお、投馬国と邪馬台国は女王国までの総距離・万二千余里の次に仮置きしています。では、上記を纏める形で整理してみましょう。

北九州沿岸部に末廬国(唐津市)、伊都国(糸島市、女王国に従属する)、奴国(博多付近、春日市)、不弥国(宇美町etc)があり、方位と道里が書かれている。女王国の以北は戸数、道里を簡略に記載できるが、その他の旁国は詳らかにできない。
上記の後に戸数、道里が不明な多数の国名が続き、最後に奴国(戸数が書かれた奴国とは別と思われる)が来て、ここが女王(女王国)の管轄下にある国の境界となる。その南に狗奴国があり、女王(女王国)に従属してはいない。郡(帯方郡)から女王国までは一万二千里となる。

いかがでしょう?不弥国の後に続く投馬国、邪馬台国までの行程を外して考えれば、北九州沿岸部乃至は少し内陸部に四つの国があり、その南に卑弥呼の女王国が存在し、さらに道里や戸数を示せない数多くの女王に従属する国々があって、その境界から外れる南には女王に従属しない狗奴国があるとなり、北九州の全体像がほぼ描けるし整合性もある程度取れていることになります。(注:3国から女王国まで100㎞ある問題は次回で検討します)

以上で、投馬国と邪馬台国の記事は後から「魏志倭人伝」の間違った場所に挿入されたものであり、地域も北九州ではなかったと確認されました。次回は投馬国と邪馬台国がどこにあるのかを見ていきます。
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