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邪馬台国はどこにある その6


今回は、投馬国と邪馬台国の記事が卑弥呼より後の時代のもので、後になって「魏志倭人伝」追加挿入されと考えられる点、邪馬台国は北九州に存在していないのに、「邪馬台国は女王の都する所」と書かれている意味などを探っていきたいと思います。

では最初の課題である、投馬国と邪馬台国の記事は卑弥呼より後の時代のもので、しかも後になって陳寿が「魏志倭人伝」に追加したと考えられる部分から見ていきましょう。

「魏志倭人伝」には景初2年(238年、実際は景初3年で239年とされる)倭の女王が使節を送った記事が見られます。正始元年(240年)には、帯方郡太守の弓遵が使節を倭国に派遣しました。そして年号の入った最後の記事が正始8年(247年)で、倭国に使節が派遣されています。卑弥呼は一般的にその翌年の248年に死去したとされています。

卑弥呼が死去した後に径百余歩の墓が造られ、男王が立てられるも国中が服せず相争い、13歳の台与が立てられ国が安定し、彼女が使節を派遣したところで「魏志倭人伝」は終わります。そうした経緯から、250年代の中頃までの倭国が「魏志倭人伝」に書かれていると現段階では理解されます。魏は265年まで続くものの、同国の公式文書には250年代中頃までの倭国しか記録されていなかったのです。

「魏志倭人伝」は基本的に魏時代の倭国を描いたもののはずですから、記事を書いた陳寿は、入手可能な250年代中頃までの情報を纏めて原案を一旦仕上げたものと思われます。続いてそれより遅い時代の可能性を探ってみましょう。

「魏志倭人伝」は陳寿(中国の三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚)が編纂した「三国志」の中に含まれ、成立は280年以降とされ、陳寿の死去年は297年と推定されています。魏は265年に滅び、西晋の時代となります。

仮に265年以降の情報が「魏志倭人伝」に書かれているとすれば、陳寿が西晋の外務官僚からなど聞き取った情報や、入手した外交文書・記録を採録していたことになりそうです。265年以降の情報と言っても、陳寿の死去年は297年となるので限界はあります。例えば、290年頃までの倭国の情報がもたらされ、それらを陳寿が採録したのかもしれません。

「魏志倭人伝」には魏が滅亡する約10年前までの倭国が書かれてはいるが、陳寿は297年まで存命なので、西晋の官僚などから290年頃の倭国の情報を入手していた可能性もあると纏め、取り敢えず、台与が宇佐に移動するまでの推測的経緯を以下に書いてみます。

台与の登場で一旦国中は治まったが、再び乱れた。女王国(伊都国か不弥国の南)の台与は混乱を避けるため、主だったメンバーを率いて東に移動し宇佐に落ち着いた。台与は宇佐に移動するに当たり卑弥呼(太陽を祭祀する日の巫女=卑弥呼であり、天照大神の原像とも言える存在)の墓から鏡を取り出した。鏡は卑弥呼と太陽を象徴し、ここに日の巫女=卑弥呼は天照大神(=卑弥呼の鏡)として再生する形となった。日本神話で語られる天岩戸の物語にはこの間の事情が投影されている。

「日本書紀」の神代上第七段、一書に曰くには、日神が岩戸から出るとき、鏡が戸に触れて小瑕が付いたが、その瑕は今も残り、これがすなわち伊勢に斎祀る大神だとある。上記は、台与が卑弥呼の墓から取り出した鏡そのものが天照大神であると理解される記述である。

さて、250年代の中頃宇佐に移動した台与はこの地に留まったのでしょうか?もちろん不安定化している九州に留まってはいません。天照大神を奉じる台与一行は宇佐を離れ瀬戸内海を船で渡り、吉備を経由して難波に至り、そこから大和川を遡って大和の三輪山の麓・纏向に入ったと推定されます。時代的には250年代の後半から260年代の初頭になるでしょう。

では、天照大神が大和に遷座した証拠もあるのでしょうか?「日本書紀」によれば、第十代崇神天皇の時代(290年から318年頃在位の人物と推定)、天照大神は宮中で祀られていました。(注:第五代孝昭天皇の時代から宮中で祀られていたとされる)北九州にある天照大神(=卑弥呼の鏡)が大和の宮中で祀られるためには、北九州から大和に運ばれていなければなりません。「日本書紀」の記述は図らずも、天照大神が女王国から大和に遷座したことの証明となっているのです。そして、こうした内容に対応し得る人物は台与以外に考えられません。

古田氏は「倭人伝を徹底して読む」(ミネルヴァ書房)で、卑弥呼が銅鏡百枚を望んだのは、太陽信仰が卑弥呼の呪術の源泉であって、太陽神とは天照大神だから、その信仰をバックにした神がかり的な呪術でもって民を治めようとした、との趣旨を書かれています。この部分は天照大神=卑弥呼の鏡と考える酔石亭主の見方にも沿っていますね。

さて、当時の先進地域である北九州から台与が250年代後半から260年初頭の間で大和へ移動したとしても、地元には既に一定の勢力が存在していたのは間違いなさそうです。地元の有力者の求めか移転の挨拶代わりかは不明ですが、台与は彼らに天照大神(鏡)を渡さざるを得なくなったものと推察されます。それが何代か後の崇神天皇に渡り、宮中にて奉斎されていたのでしょう。

台与の大和における名前(大和王権が「日本書紀」において付けた名前)は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)でした。天照大神の原像となる巫女(人物としては卑弥呼)は局所を杼(ひ)で突いて死に、天岩戸に入って後、太陽神天照大神として再生するのですが、倭迹迹日百襲姫命もまた局所を箸で突いて死に、箸墓に埋葬されることとなったのです。この死に方の類似こそが、倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼の宗女・台与であることの証明になっているとは思えませんか?

邪馬台国畿内説では、箸墓古墳は卑弥呼の墓との見方も多くあります。けれども、上記の推定経緯から判断すれば、箸墓古墳は台与の墓と考えざるを得ません。箸墓古墳が270年頃のものとすれば、被葬者は台与で時代的にもぴったり合ってきます。

箸墓古墳の墳丘長は278mで最古の巨大前方後円墳となります。これだけの古墳を築造できるのは強大な権力を持った首長(台与の場合、実質的には神の祭祀者)となるはずです。被葬者の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は第七代孝霊天皇とその妃の子とされますが、そうした立場の女性が当時においては前例のない大規模古墳の被葬者になるなど有り得ない話です。

台与が卑弥呼の後継者として当時の先進地域である北九州から移り住んだ人物だったから、大和の人々も女王として受け入れたのでしょう。その背後には190年代頃に既に大和に移住していた饒速日(にぎはやひ)を奉じるプレ物部氏の協力があったことも否定できません。

250年代後半から260年初頭に大和の纏向に入った台与は、260年代後半頃死去し、270年代に箸墓古墳が築造され、続いて豊鋤入姫命が台与の宗女となります。

台与と豊鋤入姫命は7万戸を擁する大和の女王になった訳ですが、一方である人物が勢力を増してきます。それが290年から318年頃に在位した王と考えられる崇神天皇です。豊鋤入姫命は崇神天皇から天照大神(卑弥呼の鏡)を取り戻したものの、纏向の地から離れる条件を付けられ、各地を巡った天照大神は最後に伊勢の地にて鎮まることとなったのです。

従って、北九州にあった卑弥呼の女王国の最終形態が伊勢神宮となります。その経緯は「日本書紀」にストーリーを変えた形で出ているので参照ください。また、「倭姫命世記」も見ておく必要があります。

ここまでを纏めます。卑弥呼の死後台与が後継者となり、彼女は宇佐に移動した後、大和に移住。地元の有力者に天照大神(卑弥呼の鏡)を渡した数年後に邪馬台国の女王となります。台与の後継者・豊鋤入姫命の時代に崇神天皇から天照大神(卑弥呼の鏡)を取り戻し、その引き換えに彼らは纏向の地を離れます。卑弥呼の死から崇神天皇の登場までは、240年代の終わり頃から290年頃に起きた話と推測されます。

ここで話を陳寿に戻します。陳寿は魏の記録文書を参照して255年代中頃までの倭国を魏書第30巻「烏丸鮮卑東夷伝」の中に書きました。(注:「魏志倭人伝」は通称)「三国志」は180年頃からの 280年頃までの興亡史であり、成立は西晋が中国を統一した後の280年以降から陳寿死去の297年までの間とされています。これだけ膨大な歴史書を撰するには10年以上かかったと推定され、完成を290年代前半と仮定します。

陳寿は280年以降魏の記録文書から倭国の記事を拾い出して原案を纏めます。ところが、290年頃になって倭国に関する新たな情報が西晋の外交官から届き、僅かな記録文書も手に入ったと考えられます。それらの伝聞情報や記録を基に、投馬国と邪馬台国への方位や戸数、「邪馬台国は女王の都する所」との記事が「魏志倭人伝」に書き加えられたのです。

290年頃の情報と考えられるのは、崇神天皇の別称・御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)が邪馬台国の官として書かれた数人の中に弥馬獲支(みまかき)があり、両者は同一人物の可能性があるからです。

同一人物ではなかった場合、魏が滅亡して西晋の時代になってすぐの情報(265年頃の情報)が陳寿の元に届いたことになりそうです。西晋の始まりは265年ですから255年代より時代的には遅い情報になるものの、「三国志」の編纂開始は280年以降ですから、魏時代と西晋時代の情報を同時に見ている可能性があり、後で書き加えたとは言えなくなります。ただ、「魏志倭人伝」の内容的な混乱から判断すると、やはり投馬国と邪馬台国の情報は「三国志」の編纂が終わるギリギリの段階で書き加えられたとすべきでしょう。

これで最初に提起した、投馬国と邪馬台国の記事が卑弥呼より後の時代のもので、後になって「魏志倭人伝」追加挿入されと考えられる点、邪馬台国は北九州に存在していないのに、「邪馬台国は女王の都する所」と書かれている意味の両方が解明されました。

問題は、邪馬台国の官の名前を除いた追加情報自体が、大和ではなく北九州の倭人からの聞き取りで、しかも陳寿に届くまでに何人も経由したと考えられる点です。伝言ゲームと同じ経過をたどった情報は、内容が変化していき、方位や里程、時代の誤りや混乱が生じたものと思われます。

陳寿は情報の入手が遅かったことや全体的な流れから邪馬台国と女王国を同一視しました。邪馬台国の女王は元々女王国の女王だった訳ですから、誤解や勘違いがあっても不思議ではありません。そして投馬国や邪馬台国の話を既に完成していた「魏志倭人伝」に追加挿入した際、女王国=邪馬台国と誤解していた彼は、「南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。」の記事を、「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、」の前に入れてしまったと考えられます。これが後代の私たちに大きな混乱をもたらし、邪馬台国九州説論者と大和説論者の不毛な議論が延々と続く事態を招いたのです。

以上で、邪馬台国問題はほぼ完全に再構成され、卑弥呼の女王国は北九州にあり、邪馬台国は大和にあったと確認されました。邪馬台国北九州説、畿内説の双方が一定の面目を保てる結論に至った訳ですが、「魏志倭人伝」に書かれた内容で未解明のものはなおも残っている点はお含みください。また酔石亭主の考える結論に持ち込むため、恣意的で都合の良さそうな根拠のみを拾った傾向があることも否めません。従って、このような見方もできるかもしれない程度でご理解いただければ幸いです。

本シリーズは今回で終了ですが、まだ書き足らないところも多少残っているので、そのうち書いてみたいと思います。

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